軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二百十七話 地を這うモノの書

「感染する思想……?」

きょとん、と首を傾げるシュトリナに、ヴァレンティナはことさらゆっくりとした口調で告げる。

「そう。蛇は、弱者から弱者、敗者から敗者へと感染し、その認識を歪める言葉。弱き者の倫理を破壊し、常識を書き換えて、秩序の破壊者へと変質させる」

その口調は、決して高揚に彩られたものではなかった。

どちらかと言えば冷静で、まるで学者の声のように、ひどく平坦な声だった。

「弱者に寄生した蛇は、そっとその耳元で唆すの。そんな秩序は破壊してしまえばいい。お前を踏みつけ、搾取するための仕組みじゃないか。破壊するのになんの躊躇いがいるだろう?」

響くは蛇の声。歌うように美しく、恋人に囁くように艶めかしく。

「勝者の定めた法など無視しろ。敗者を踏みつけにして安穏と暮らす民のことなど気にするな。そんな風に誘惑するの」

くすくすと、楽しそうに笑って、ヴァレンティナは続ける。

「普通ならば、貧者であれ、敗者であれ、弱者であれ、倫理によって縛られているわ。何も持たぬ者であっても、仲良く町を歩く親子を不幸のどん底に陥れようなんて思わないし、思えない。相手が商人であれ、貴族であれ、変わらない。人には『良心』があるから。でも、蛇はその良心を殺す」

グッと握りしめられるのは、美しい手。細く長い、姫君の手に、シュトリナは鮮血の幻を見る。

「そのうえで、武器を渡すの」

机の上に置かれた蛇の聖典、蠢く蛇の描かれたソレの、表面を優しく撫でて……ヴァレンティナは続ける。

「地を這うものの書には、さまざまな方法論が書かれている。国を崩す方法、王族を殺す方法、他人の心を操る方法。それは、数多、蛇に心を委ねた者たちの知恵の結晶。悪意の塊よ」

シュトリナの脳裏に、自身の家のことが思い浮かぶ。

イエロームーン家。蛇の理屈により作られた最弱の公爵家。その家で、連綿と受け継がれ、研鑽を重ねられてきた、毒の技術。もしかしたら、それもまた、書き入れられるべきものだったのかもしれない。

「で、でも……その理屈はおかしい」

かろうじて、シュトリナは反論する。

「弱者が強者を打ち倒したら、それで蛇は消えるはず。だって、せっかく戦いに勝ったのなら、弱者は勝者として支配体制を整えたいと思うから。≪自分に都合の悪い秩序≫を破壊した弱者は、≪自分に都合が良い新たな秩序≫を作り、それを維持しようとするはず」

それは、古い秩序を破壊し、新しい秩序を作り出すことに過ぎない。秩序のすべてを破壊するという、混沌の蛇のロジックは成立しないはず……。

シュトリナの疑問に、ヴァレンティナは優しく頷いて答える。それから、お皿の上に、二つのクッキーを置いた。

「例えば、そうね。弱者である私が革命軍を率いて、レムノ王政府を一掃したとしましょうか。この赤いベリーが乗ったほうが私。青いベリーが乗ったほうが、王政府」

そうして、彼女は、赤いベリーのクッキーを上に動かす。

「私は新しい権力者として、新しい統治を始めましょう。けれど、そこにも弱者はいるでしょう?」

彼女は、長い指先で、青いベリーのクッキーを指し示した。

「王政府の敗残者たち。蛇は弱者から弱者へと感染する。弱者から弱者の心へと移り住む。そうして、敗残者という弱者は蛇になる」

それから彼女は青いベリーのクッキーを口の中に放り込んだ。

美味しそうにそれを咀嚼して、唇についた欠片を、ペロリと舌で舐める。

「では、こういうのはどうかしら? 敗者はすべて処刑するの。そうすると、さて、どうなるかしら?」

彼女は、赤いベリーのクッキーを、二つに割った。

「でもね、弱者はなくならない。革命軍の中にだって序列はあり、踏みつけにされる弱者はいる。権力争いに敗れた敗者が生まれ、蛇はそこにすり寄るの」

赤いベリーのクッキーを二つ、机の上に並べる。

強者と弱者、勝者と敗者。支配する者とされる者。

「あるいは王政府の敗残者と、革命軍の中の弱者が手を結ぶこともあるかもしれない。それに、王政府時代の弱者のすべてが勝者たる革命軍に入れるわけもなし。結局、弱者はなくならない。蛇は、そこにつけ込み、感染する」

赤いベリーのクッキーも口の中に入れてから、ヴァレンティナは頬杖をついてシュトリナを見つめた。

「強者と弱者、勝者と敗者を生み出してしまう、人間の欠陥に感染し、寄生する思想、それこそが混沌の蛇の本体。だから、死なないし、潰せないし、なくなることがない。人が人である限り。人が弱者と敗者を生み出し続ける限り」

ヴァレンティナの言葉には力があった。有無を言わさぬ強い力が、確かにその言葉には宿っていたのだ。

それは、さながら、神託のごとく。

「ローレンツ卿は、その拭い取り難い性質をしっかりと理解して諦めたの。人である蛇導士ならば、処刑できるでしょうし、本ならば焼けばいい。でも、一度頭に入ってきた思想を消し去ることはできない」

そっと瞳を閉じ、祈りをささげるように、厳かな口調で、ヴァレンティナは続ける。

「あるいは、生贄をささげるような、自らの体を傷つけるような、邪教の教えならば廃れるでしょう。だって、そんなの野蛮だし、痛いし、嫌なことでしょう? だから、簡単に捨てられ、歴史の中に忘れ去られる。でもね、蛇は優しいの。蛇は、親しい友のように、不満を持った弱者の背中を、そっと優しく押してくれるの。武器を渡して励ましてくれるの。そんな教えは決してなくなりはしない。強者が弱者を踏みつけにし、勝者と敗者を生み出し続ける限りね」

そうして、ヴァレンティナは、ソレを手に取った。

表紙に蛇の絵が描かれた、古めかしく分厚い本。

「だから、我ら、蛇の教典は『地を這うモノの書』と呼ばれる」

清らかに、神託を告げる巫女の声で。

「地を這う者、地を這う“弱者”のための書、とね」

「あ……」

その瞬間、ヴァレンティナの手の中、本の表紙に描かれた蛇の絵が、艶めかしく蠢いたように、シュトリナには見えた。