作品タイトル不明
第百六十一話 大蜘蛛
多種多様な生き物が住まう森に生える、一本の木。
その上で俺は気配を消し、枝から落ちぬよう糸で体を固定する。そして青々と茂る葉を掻き分け、隙間から下を覗いた。
木の下には幼子を抱えた金髪の男と、恐らく俺の弟だろう生き物。
四対の歩脚と三対の赤い目、黒光りする牙と鋏角は一緒なのだが、本来ならば黒く見えるはずの体毛は幼さを表すかのように焦げ茶色で、その体は自身より二回りは小さく見える。
『兄妹を手にかけた上に、我を愚弄する気か人間!』
幼い弟は恐ろしいほどの魔力を内包している金髪の男にそう言い放つと、上顎をギチギチ鳴らし威嚇する。
共にいた兄妹をあれほどあっさり倒した金髪の人間と対峙するなど、愚の骨頂。無謀ともいえる弟の行動を木の上から眺めていた俺は、彼奴は馬鹿なのかと首を傾げる。
あの人間は強い。俺でさえ正面から戦ったら……否、罠を張って待ち伏せてもあの人間には敵わないだろう。そんな人間相手に、見るからに幼いあの弟は一体何をしているのだろうか? とっと逃げればよいものを、と考えたところで俺は同じ時に生まれ落ちた兄妹の言葉を思いだした。
……そういえば、新たな兄妹達が昨晩孵化したと言っていたな。
眼下にいる弟が昨夜生まれた子ならば、人間に対する行動も納得できた。
あの弟は幼いというよりもまだ赤子、ゆえに人間の力量を測れていないのだろう。
生まれたばかりだというのに、あのような人間と出会うとは不運な子だ……。
自身の気配を消すことも罠を張り待ち伏せることも知らず、本能のまま餌を追っていた弟に内心で同情していると、彼は自らの足を人間目掛けて振り下ろす。
『我らに抗おうとは、不快な人間よ!』
「っと」
意気揚々と振り下ろした弟の足は人間に軽々と受け止められ、押し返される。そして、決して小さくはない弟の体が宙に浮いたかと思えば、次いで三本ほど切り落とされた足が舞った。
俺達に痛みという感覚はない。ゆえに弟が足を失ったことに気が付いたのは、着地した後だった。体勢を崩した弟は己の足がなくなっていることに気が付くと、六つの目を人間へ向け吠える。
『貴様ぁ!』
「ひっ」
足を失ってもなおあの人間に楯突くとは、愚かな子だ。
この世は弱肉強食。すでに兄妹は沢山いるし、こうしている間にも母様から生まれている。代わりがいくらでもいる以上、我が身を挺して愚かな弟を庇う気などない。
彼奴はここで死ぬなと考えながら、俺は弟から人間へと視線を移す。
母様に報告するために、観察する必要があったからだ。
弟の咆哮に人間の子供は悲鳴を上げていたようだが、金髪の男の方はものともしていない。その上、先ほど弟に対して抱いていた警戒が薄れ、男の意識は観察へと移行している。
攻撃を受け止め足を奪ったことで、あの人間にとって弟は取るに足りない存在へと格下げされたのだ。
その証拠に金髪の男は、毒や捕獲用の糸を簡単に斬り捨てると弟へと話しかけている。
『許さんぞ人間! その子供諸共、我らが糧にしてくれる!』
「我ら、ということは先の二匹以外に仲間がいるのか?」
『ふん! ここで死ぬ者に答える必要はないわ』
鋭い質問に感心する一方、この人間は危険だと改めて思う。
その身に内包する魔力も勿論物騒だが、弟以外に情報を引き出せる存在がいると察している男の勘のよさは脅威だ。
……「兄妹」と口にしてしまったのはまずかったな、弟よ。
すでに用無しとみなされている弟を眺めながら、胸中で呟く。
弟が発した言葉が、あの人間に他の兄妹の有無を判断させたのは想像に容易い。そしてそれをきっかけに、金髪の男は他の兄妹の有無どころか母様の存在に思い至ったのだ。
母様の存在にあの人間が気付いているという予測は俺の勘にすぎにないが、外れてはいないと思う。
その証拠に金髪の男は、先ほどから一刻も早く弟を倒そうと隙を窺っている。大方、弟をさっさと倒し、他の仲間を探そうとでも考えているだろう。
そしてあの男には、兄妹達を狩るだけの力がある。
何も知らずに森から出てきた母様達が、この男と鉢合わせする可能性を想像し俺は人知れず戦慄する。
早く母様や他の兄妹達に、この人間のことを知らせなければ。
――しかしどうやって? 今動いては、勘付かれる。
金髪の男の仲間らしき人間達が弟の背後に迫っているのを眺め、俺はより一層息を潜める。合流した人間三人のうち、後ろの二人は罠を張り待ち伏せれば倒せるだろう。
しかし、先頭を行く人間は無理だ。後から来た二人よりも若そうなあの人間は、俺よりも強い。弟と対峙している金髪の男も若いし、森の外には恐ろしい人間が沢山いるようだ。
『人間のくせに小癪な!』
早く終われと願っていると、弟が足を持ち上げる。次いで、幼く細い毛を飛ばした。
誰に教えられずとも、自身の体を覆う毛が武器になると理解している弟に感心する。しかし弟の攻撃は、金髪の男が創りだした氷の壁に呆気なく阻まれてしまった。
『馬鹿なっ』
爪、毒、糸、毛とすべての攻撃を防がれ、弟はようやく目の前の人間に自身の力が及ばないことを理解したようだが、もう遅い。
逡巡の後、撤退を選択するも退路はすでに塞がれていた。
新たな敵を目にしたことで足を止めてしまった弟は、無数の氷の刃をその身から生やし崩れ落ちる。
死んだか……。
人間に突かれてもピクリとも動かない弟を見て感じるのは、戦慄。今すぐこの場を離れたいと訴える本能をぐっと抑え込み、俺は息を殺す。
あの人間達には敵わない。見つかったら終わりだ。
同時期に生まれた兄妹達は、森を彷徨っていた人間を狩ったことがあるらしく、脆弱な肉体で森に住む他の種を狩るよりもずっと楽だと言っていた。
確かにここから見る人間達の肉は柔らかそうで、弱そうに見える。
しかし、彼ら特に年若い二人から感じる魔力は膨大。魔力の多さは、その個体の強さに影響する。
同種であっても弱者と強者に分かれるように、人間の強さも様々。人間すべてが脆弱な生き物だと決めつけるのは、我が一族の存亡にかかわる。
――そう、皆に伝えなければ。
俺は糸や毒、弟の体などを集める人間達を見下ろしながら、早く去れと願った。
「急いで戻るぞ」
「はい!」
駆けだした人間達を、じっと見送る。
逸る気持ちを抑えに抑え、俺は金色が完全に見えなくなるまで待った。
そうして、人間達の姿が視界から消え去り、彼らの気配に怯え散っていた森の生き物達が再び辺りを闊歩しだしたのを確認してから、枝と自身を繋いでいた糸を切る。
ドサと土の上に着地すると同時に、俺は母様の元へ走り出した。
陽の差さない森の深部にいた俺達が、母様について中腹まで出てきたのは今から三日前のこと。
きっかけは、俺達と似たような気配を纏いながらも人間と同じ姿をした男だった。彼の髪と瞳が、実は赤色なのだと知ったのは陽の差す中腹へと住処を移した最近のことである。
巣への道中、俺は鎌首をもたげるアイアンスネークを踏み潰し、すれ違うホーンラビットやゴブリンを毒で仕留め、待ち構えるハティの群れを糸で絡めとる。
時折、若木や背の低い草木が道を塞いでいたが、構わず進めばバキバキと枝や若木の方が折れ我が身に傷がつくことはなかった。道を塞いでいた岩を毛で砕き、俺は仮初の巣へ向かって真っ直ぐ進んだ。
母様の元に向かいながら思い浮かべるは、金の髪の男。
人間の身でありながら、母様と同等かそれ以上の魔力を内に秘めた男は、アイアンスネークの表皮を貫く爪を軽々受け止め、ついでといった感じで弟の足を数本斬り落とした。その上、毒や糸をものともせず、岩をも砕く毛の攻撃を氷の壁でいとも簡単に防いでみせた。
――母様と同等かそれ以上の魔力を持つ、人間の男。
金髪の人間を思い出すと、悪寒が背を走る。
深部で生まれ落ちてからというもの、一目見て敵わないと感じる相手と出会ったのは今日が初めてだった。
早く母様に知らせねば、その一心で俺は森を駆けた。
鬱蒼と茂る木々を切り開き作られた平地。
森の中腹に位置するそこで、多くの兄妹に囲まれながら俺は母様と向き合っていた。
「――それは真か」
俺や弟とは違う、母様の澄んだ声が辺りに響く。
母様の姿は下半身こそ俺達と同じだが、上半身は人と同じだ。滑らかな肌に二本の腕、動く度に白い首元で艶やかな黒髪が揺れる。つり上がった目は凛々しい印象を与えるが、俺達に向けられる眼差しは優しい。
しかしそんな慈愛溢れる瞳も、今日ばかりは陰りが見える。
原因は明白、昨晩孵化した兄妹三匹を簡単に屠った金髪の男について報告したからだ。
「私と同等かそれ以上の魔力を持つ人の子がいたと?」
『はい、母様』
「それは厄介よな……」
憂いを帯びた表情を浮かべていても美しい母様は、そっと目を閉じる。
思案している母様を見上げ言葉の続きを待てば、会話を聞いていた兄妹達がざわめきだした。
『そのようなことがあるのか』
『あの脆弱な人間が?』
『信じられん……』
信じられないと兄妹達が口々に告げるのは、無理もない。
森の深部でも捕食者だった我々にとって、今居る中腹やこの先の浅瀬にいる種など敵ではなかった。
現に母様は外からやって来た赤い髪の男が作った群れを奪うことに成功し、こうして住処を移した。この平地の周りには多くの種が控えており、母が『森から打って出る』と命じる瞬間を今か今かと待っている。
母の血族たる俺達だって、それなりに強い。いかに幼くとも、その辺にいる他種に負けることなどそうそうない。一度だけではあるが、兄妹達はすでに人間という種を狩っており糧としていた。
その時の話を聞く限り、人間は危険のない種だと思っていた。あの男と会うまでは。
「……の眷属ごときに、私が嵌められた? いや、群れを奪い支配してみせた時、彼奴は確かに驚いていたから、そんなはずは――」
聞こえてきた母様の声に、ハッと我に返る。
考えに浸るあまり母様のお言葉を聞き逃すなど、一生の不覚。
そんなことを考えながら、俺は顔を上げた。
しかし母様は考えに浸っていたようで、こちらを見ていなかった。どうやら先ほどの声は俺に声をかけたわけではなかったらしい。
『母様、あの男はどうすれば?』
「……そうさな」
お言葉を聞き逃していなかったことに胸を撫で下ろしつつ問いかければ、母様は俺を見たあと、周囲に侍る兄妹達へと目を向けた。
次いで、艶やかに笑む。
「罠の準備をするゆえ、その男を誘ってきてくれるか? 我が子達よ」
母様のその言葉に返す俺達の答えは、決まっていた。