軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話(王都side)

「なんなのよ、このお茶!」

投げられたカップが床でパリンと砕けた。琥珀色の紅茶が広がり、湯気が立ち上る。

「熱いし不味いし飲めたものじゃないわ! どういう神経をしているのよ!?」

「も、申し訳ございません、お嬢様」

カップを持ってきた使用人のエレナは勢い良く頭を下げた。よく見える頭頂部に向かって部屋の主――アデルはキンキンと叫ぶ。

「謝ってないでさっさと片付けなさいよ! それとすぐに代わりの紅茶を持ってきなさい!」

「はい、ただいま」

エレナは割れたカップを拾い上げる。

頭上に影が差した。エレナがハッと気付く前に、床に伸ばした手が踏みつけられた。まだ熱い紅茶とカップの破片が手の平に食い込む。

「あっ……!」

「遅い! なにやってんのよノロマ!」

頭上から降り注ぐのはアデルの罵声。そんな無茶な、とここで顔を上げようものなら「生意気だ」と平手打ちを食らう。雇われてまだ三日しか経っていないが、エレナは多少でも彼女の機嫌を損ねない術を掴んでいた。

それを打ち砕く声が響く。

「もういい! お前はクビよ、クビ! さっさと消えなさいよ!」

とどめと言わんばかりにもう一度手を踏みつけられた。

ようやく足をどけられると、エレナは我に返って足早に部屋を出た。

「お怪我はありませんか」

あてがわれている部屋に戻る道すがら、声をかけられた。飛び上がりながら振り返ると、手に箱を持った老人が立っていた。執事のジェフだ。

「執事さん……」

「手を怪我なさいましたか。こちら、救急箱です」

片手を庇う姿を一瞥し、ジェフは箱を差し出す。

「ありがとうございます……あの」

口を開こうとしたエレナに、ジェフは唇の前で人差し指を立てる。

「失礼ながら、話は漏れ聞こえておりました。私がお嬢様の相手をしますので、その隙に裏口からどうぞお逃げください」

「……はい」

去るのではなく、逃げる。

おそらくアデルの気まぐれは今に始まったことではない。ああして癇癪を起して八つ当たりし、少し経ったら何事もなく呼びつける。

いや、それは実際これまでも何度かあったのだ。どうにか割り切ろうとしたけれど、その前にこちらの神経がすり減ってしまう。

特に二言目の「消えろ」には参った。存在を根底から否定する言葉。あれに耐えられる人などいるのだろうか。

「……あの」

背を向けかけたジェフに、エレナは問うた。

「この家には、お嬢様の姉に当たる人がいたという話を聞きました。本当なのですか?」

ジェフは足を止めると、悲しそうに振り返った。それから再び人差し指を唇の前に持っていく。

「……急ぎなさい」

詮索するな。言外にそう言って、ジェフはやかましく鳴り出した鈴の出所へと向かった。

エレナはその間に、足早に部屋へと戻る。

カップの破片は大きかったので、幸いにして中に食い込むことはなかった。それでも多少は切ったらしく、薄く血が滲んでいる。

(これくらいなら、軟膏を塗るだけで大丈夫)

薬を取り出して塗り込む。エレナは平民の出身だから、そうした知識は多少あった。

自然とため息が出る。

(貴族相手の仕事って、楽じゃないなあ)

――そもそも、最初からおかしかったのだ。

下町の求人掲示板に張り出された、アルヴァリンド侯爵家の求人広告。身分を問わず、住み込みで給料がいい。平民のままでは到底届かない賃金の高さに目がくらんで飛びついたが、ふたを開けてみたら度を超えたワガママお嬢様の世話係だった。

さっきの紅茶だって、初日に温かいものを入れたら「熱い」と言い、冷めたものを出し直せば「ぬるい」と言って床に叩きつけられた。平民から見れば給料何ヵ月分かという高級なカップが、この三日で十個ほど割れた。

(貴族が皆ああだとは思いたくないけど……やっぱりファーストインプレッションは強いなあ)

平民は貴族と関わる機会が限られている。お忍びで城下町を訪れる貴族もいるようだが、エレナは残念なことにそうした人と出会ったことはない。

王族だって新年の挨拶や冠婚葬祭の時に、遠目でお姿を見たくらいだ。演説内容は翌日の新聞に載っているので、字が読める人に読んでもらっていた。

公の場だから猫を被っているのであって、本性はあのお嬢様に引けを取らないくらいワガママかもしれない。

(まあ、一回くらいは〝お姉様〟に会ってみたかったな)

心の内で呟く。

エレナが来る前からいるらしい使用人たちが愚痴をこぼしているのを、たまたま聞いたのだ。

――シャルロットお嬢様は運がいい。俺たちだって逃げられるなら逃げたいよ。

貴族の令嬢が一人、忽然と消えた。その噂はエレナたち平民のところにも届いていた。

王室の近衛兵が近頃うろついていたから何事だろうかとは思った。だが貴族と仲のいい店から出回った話によると、どうやら消えたのは王太子の婚約者だという。未来の王妃が消えたとなればたしかに一大事だろう。

消えた王太子の婚約者。二言目には消えろと罵る妹の令嬢。この二人が本当に姉妹だとして、もし妹が誰にでもそう言うのなら、そりゃあ逃げたくもなる。

(どうか、無事に逃げ切れますように)

どこにいるかもわからない王太子の婚約者に祈って、エレナは薬を箱に戻す。

その拍子に、指先がちょっと厚めの紙に当たった。よく見ると封筒のようだ。なにかの処方箋だろうか。

エレナはこの部屋に誰もいないことを確認して、そっと封筒の中を見た。

中には一枚、上等な羊皮紙が入っている。

「なんだろう、これ……私の名前?」

エレナは多少文字が読めた。しかし平民の日常生活に困らない程度で、貴族の難しい言葉までは読めなかった。辛うじて自分の名前と、「就職」の文字が書かれていることだけはわかった。

「……たぶん、執事さんからの餞別だよね」

きっと、次の就職が有利になるための推薦状だ。エレナは一人でそう結論付ける。でなければ、わざわざ薬箱の中にこの封筒を隠す意味がない。

エレナは、実家から持ってきた大きめの鞄に急いで着替えと封筒をしまい込む。洗濯中の着替えは諦めた。忘れ物がないか再度確認して、一応部屋は申し訳程度に綺麗にしておく。

そっとドアを開けると、廊下には誰もいなかった。

裏口までの道のりも知っている。そこから裏門へ抜けるルートも。

エレナは足音を立てないように、けれど急ぎ足で屋敷を駆け抜けた。

――シャルロットが消えてから辞めた屋敷の使用人は、これで十七人となった。