軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四十話 恋人らしい呼び方

風邪も治り体調が回復した晴翔は、家事代行のアルバイトにも復帰する。

すでに見慣れた豪邸を前にして、晴翔はそのインターフォンを押す瞬間、少し躊躇うそぶりを見せてボタンを押す指を引っ込めてしまう。

彼の脳裏には、綾香の姿が浮かぶ。

『……いいよ。私、彼女のフリをしてあげる。お婆ちゃんの前では大槻君の彼女になってあげる』

何度も何度も、繰り返し頭の中で響く彼女の言葉。

「どんな顔して会えばいいのか……」

晴翔は「はぁ」と溜息混じりにボヤく。

自分の嘘に付き合わせてしまった事に罪悪感を覚える反面、偽物とはいえ綾香が自分の彼女になったという事実に、晴翔は少なからず喜びを感じてしまっていた。

「いつまでもここに突っ立ってる訳にもいかないか……」

晴翔は意を決して東條邸のインターフォンを押す。

『はい』

「家事代行に来ました。大槻です」

『あ、うん。いま開けるね』

その後すぐにガチャと鍵の回る音がして扉が開き、綾香が顔を出す。

「外暑いよね。早く入って」

「はい、お邪魔します」

綾香に招かれて東條邸に上がる晴翔。

玄関で外靴からスリッパに履き替えながら、晴翔はふと思う。

「あれ? 涼太君、今日は居ないんですか?」

いつもなら、晴翔が家に入ってくるのと同時ぐらいに、元気よくお出迎えしてくれる。

しかし、今日はそれがない。

「うん、涼太はいま近所の子達と近くの公園で遊んでるよ」

「そうだったんですね」

「あとパパとママも今日は会社で仕事」

いつもより静かな玄関ホールに、晴翔は初めて東條家の家事代行に来た時を思い出す。

あの時も、初めは涼太は外に出かけていた。そして、帰ってきた時にキッチンにいる晴翔を泥棒と勘違いして大騒ぎをした。

その時の事を思い出した晴翔が、フッと小さく笑いを浮かべる。

「ん? どうしたの?」

「ちょっと、自分が初めて家事代行に来た時を思い出してしまって」

「あぁ、そういえば涼太が帰ってきた時、大槻君の事『ドロボー』って叫んでたっけ」

「はい、あの時はさすがに焦りましたよ」

今でこそ笑い話であるが、あの時は犯罪者にならない為に必死だった。

その時の事を綾香も思い出したのか「ふふ」と口元に笑みを浮かべる。

「なんか、つい最近の出来事なのに、凄く昔の事の様に感じるね」

「そうですね。今年の夏休みは、とても長く感じます」

「ね。それに……まさか私が大槻君の彼女のフリをするとは思わなかったし」

少し晴翔の顔色を伺いながらそう言う綾香。

彼女の言葉に、晴翔は申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「それは……本当に、申し訳ありません。東條さんが嫌だと少しでも感じたら、すぐ辞めてもらって構わないので」

「ううん、私は大丈夫だよ。それよりもね。その……私、今まで、あの……お付き合いをした事がなくてね? だから、彼女のフリってどうやってすればいいのか、ちょっとイメージが湧かなくて」

若干恥ずかしげに話す綾香は、少し頬を染めながら上目遣いに晴翔を見る。

「だからね? えと……彼女のフリをする練習が必要かなって思うんだけど……どう、かな?」

「え? れ、練習ですか?」

「うん」

少し顔を赤らめて頷く綾香。

彼女の可愛らしさに晴翔は一瞬言葉を失う。

「……いえ、そんな練習なんてしてもらわなくても、東條さんはそのままで十分彼女として、その……魅力的だと……思います」

「あ、うん……ありがと……で、でもね。やっぱり、もし私が偽物の彼女だって大槻君のお婆ちゃんにバレたら、悲しませちゃうし……だから、練習したいなって……」

もう一度綾香は、晴翔を上目遣いに見て「ダメかな?」と問いかける。

そこまで言われてしまっては、晴翔の立場からして断る事など出来はしない。

「本当に申し訳ありません。そこまでして頂いて……何とお礼をすればいいのか」

「お礼とかそんなのは全然気にしなくて大丈夫だよ」

深々と頭を下げる晴翔に、綾香は両手を振る。

「それで、あの……練習っていうのは、え〜と、どういう練習を?」

自慢ではないが、晴翔も綾香同様に恋愛経験がゼロである。

したがって、彼女のいう『練習』というものが一体何なのか想像がつかない。

「うん、その恋人っぽく見せる練習をしたいんだけど、大槻君の都合が良ければなんだけど、これからウチに家事代行に来るとき、昼過ぎくらいから来る事って出来るかな?」

晴翔が東條家と結んでいる家事代行の契約は、15時から18時の3時間である。

「昼過ぎというと、13時くらいですか?」

「うん、用事とかある時は全然無理しなくても大丈夫なんだけど」

つまり、13時から15時の2時間は、綾香の言う『恋人の練習』の時間になるという事なのだろう。

「いえ、自分は問題ないのですが……その、毎回家事代行の前に早くきて、東條さんと、え〜と、恋人の練習? をしていたら、修一さんと郁恵さんに、何と言いますか……勘違いとか、されたりとか……」

「それはね。パパとママには大槻君と勉強してるって言おうかなって。ほら、大槻君って頭いいでしょ? だから、夏休みの宿題を一緒にやりながら、勉強も教えてもらってるって言えば大丈夫じゃない?」

「あぁ、なるほど……」

綾香の説明に納得したように頷く晴翔。

「それに、その時間に本当に勉強してもいいしね。私、純粋に大槻君に勉強教えて欲しいかも」

綾香は「夏休み前のテストの結果がちょっと……」と、少しだけ憂鬱そうな表情を浮かべる。

「俺でよければ幾らでも勉強教えますよ」

自室のエアコンの調子が悪い晴翔は、日中の暑い時間帯の勉強場所の確保に頭を悩ませていた。

今までは親友である友哉の部屋や図書館など、涼を求めてあちこちを転々としていた。

それが、綾香の部屋で毎回勉強できるとなれば、晴翔にとってもありがたい話である。

そして、そのまま家事代行のアルバイトが出来るため、勉強時間も増やす事ができる。

「じゃあ、次からは昼過ぎに家に来てもらう。で、いいかな?」

「はい、その……宜しくお願いします」

晴翔は綾香に頭を下げる。

それに対して綾香も頭を下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

お互いにペコっと頭を下げ合う2人。

先に頭を上げた綾香が、再び躊躇いがちに口を開く。

「あ、あとね。もう一つお願いがあるんだけど……」

「なんですか?」

「あのね。お互いの呼び方なんだけど、いまって苗字で呼び合ってるでしょ?」

綾香は晴翔の事を『大槻君』と呼び、晴翔もまた綾香の事を『東條さん』と呼んでいる。

晴翔の場合は、家事代行で綾香の他にも東條家の人がいる場合は『綾香さん』と名前で呼ぶようにしているが、それ以外の場面では綾香の事を苗字で読んでいる。

「やっぱり、恋人同士なら名前で呼び合うのが普通だと思うの」

「そう、なんですか?」

小さく首を捻る晴翔。

別に恋人同士だからといって、必ずしも名前呼びをしているとは限らないのではなかろうか?

そんな彼の疑問は、綾香の力説で吹き飛ぶ。

「うん。やっぱり仲のいい恋人同士は名前で呼び合うんだよ! だからね、私の事も……普段から名前で呼んで欲しいなって」

「えっと……じゃあ、これからは綾香さんと呼べばいいでしょうか?」

「…‥綾香で」

「え?」

「“さん”は無しで、そのまま、綾香って……呼んで欲しいな」

恥じらいを多分に含んだ表情で、少し視線を流しながら言う綾香。

そんな彼女の様子に、晴翔は鼓動の高鳴りを感じてしまう。

「……あ……綾香」

小さな声でポツンと晴翔が言う。

すると、綾香の笑顔がパッと花開く。

「うん! なに晴翔君?」

ニコニコと満面の笑みを浮かべる綾香は、一歩晴翔に近づいて、チョコンと首を傾げる。

少しあざとくも感じてしまうが、それよりも可愛さが優ってしまい、晴翔は綾香の方は君付けなのかと言うツッコミを忘れてしまった。

「あの……この呼び方……ばあちゃんの前だけでもいいですか?」

ただ名前を呼び捨てにしただけ。

しかし、それだけで彼女との距離感がグッと縮まった気がする。

なまじ自分の彼女に対する感情に気がついてしまっている晴翔にとって、それはとても気恥ずかしい事であった。

晴翔の要望に、綾香は「う〜ん」と少し悩んだあと、おもむろに口角を上げる。

「わかった。じゃあ大槻君のお婆ちゃんの前と…」

綾香はジッと晴翔の目をまっすぐに見て、和かな笑みと共に言う。

「2人っきりの時は、今の呼び方でお願いね」

「……はい」

晴翔は只々頷くことしか出来なかった。

対する綾香は、すごく満足そうな笑顔を浮かべる。

「あ、玄関でこんな長話してごめんね」

「いえ、大丈夫です。それじゃあ……これからサービスを開始しますが、何かご要望はありますか?」

「そう言えば、ママが今日は中庭の掃除をして欲しいって言ってた」

東條邸は豪邸なだけあって、リビングの隣には立派な中庭が設けられている。

そしてその中にはソファやテーブル、バーベキューコンロなどが置かれている。

晴翔はリビングに向かいながら綾香に頷く。

「承りました。それと、今日の夕飯ですが鶏胸肉の南蛮漬けにトマトとツナ、大葉を使った素麺にしようと思っていますが、宜しいですか?」

「うん。すごく美味しそう!」

「分かりました。それじゃあ早速、中庭の掃除をしてきます」

晴翔がリビングの窓から中庭に出ようとする。

その背中に綾香が声をかける。

「そうだ。今日はパパとママも少し早めに帰ってくると思うんだけど、今日も晴翔君、一緒に夕飯食べていく?」

「よろしいんですか?」

綾香の名前呼びに、晴翔は少しむず痒い様な恥ずかしさを感じながら返事をする。

「晴翔君が一緒の方がパパとママも喜ぶと思う。もちろん涼太もね」

先日、どうぶつの森公園に行く日の朝食も、綾香の両親と一緒に食べ。その前の夕食も東條家と一緒だった。

なんだか、既に食事を一緒にとるのが当たり前のようになっている状況に、晴翔は小さく苦笑を漏らす。

「それじゃあ、ご一緒させていただきます」

「うん!」

晴翔の言葉に、嬉しそうに笑みを浮かべる綾香。

彼女の笑顔に以前よりも魅力を感じるようになってしまった晴翔は、気恥ずかしさから、そっと綾香の笑顔から視線を逸らした。