作品タイトル不明
第10話:白船の天使と、泥濘の記録
大正四(一九一五)年、夏。
ガリポリ半島、アンザック 入江(コーヴ) は、太陽が万物を焼き尽くす灼熱の生き地獄と化していた。
海から切り立った崖上の最前線まで、わずか数百メートル。安全な後方など存在しないこの狭小な地形では、軍医たちは敵の砲兵から丸見えの波打ち際に救護所を設営するほかなかった。腐敗臭と這い回る 銀蠅(ぎんばえ) が濃密に立ち込める中、連日の戦闘と感染症によって連合軍の将兵は次々と泥の中に 斃(たお) れていった。
その 凄惨(せいさん) な海岸を、高台の 塹壕(ざんごう) から冷ややかな目で見下ろす男がいた。中立国アメリカの有力紙から派遣された新聞記者、アーサーである。
彼の視線の先には、波打ち際の 天幕(てんまく) を忙しなく行き交う純白の制服の一団があった。大日本帝国からやってきた『瑞長財団医療大隊』である。
アーサーの目は、その集団の中にいる一人の小柄な白人の少女に向けられていた。
(極東の野心国家が、慈善活動などするはずがない。あの少女も、欧米の歓心を買うために金で雇った『善意の広告塔』だろう)
アーサーの手元の 手帳(ノート) には、日本政府が中国に突きつけた「対華二十一カ条要求」への痛烈な非難が書き連ねられている。どうせあの少女も、安全な場所で包帯を巻くふりをしているだけだ。
「くだらない 宣伝(プロパガンダ) だ」
アーサーが忌々しげに 葉巻(シガー) を噛みちぎった。
私、アリス・ミラーは、 青島(チンタオ) での悪夢を振り払うように、 砂土(さど) まみれの純白の制服で、次々と運び込まれる兵士たちの対応に追われていた。
「先生、オーストラリア軍第十四大隊の負傷者です! 腹部を撃たれています!」
「…… 駄目(だめ) だ。もう瞳孔が開いている。彼より、向こうの赤痢患者を蓬莱丸へ送る準備を!」
天幕(てんまく) の中は、うめき声と、死体に群がる羽音、そして他国の軍医たちの切羽詰まった怒鳴り声に満ちている。
「橘少佐! 沖からの補給艇が、敵の砲撃で近づけません! 薬が尽きます!」
衛生兵の悲痛な叫び声が響く。海岸のすぐ上に陣取るトルコ軍の野砲が、沖合の海面を隙なく封鎖していた。足の遅い 内火艇(うちびてい) では、水柱の餌食になってしまう。
(瑞長の薬が無くなれば、この人たちは死んでしまう……!)
死(し) の影が救護所を覆った、その時だった。
「……上空! 水上機が来ます!」
砲弾の 炸裂音(さくれつおん) を切り裂くように、百五十馬力の空冷 発動機(エンジン) の轟音が響き渡った。小銃と野砲の対空射撃がまばらに放たれる中を裂いて、乃木中尉の操縦する純白の『カモメ』が、超低空で海岸へ突っ込んできたのだ。
船が 駄目(だめ) なら、空から。時速百キロ余りで飛び、敵の弾幕を避けられる航空機しか、この一刻を争う事態を突破する手段はなかった。
武装を一切持たない機体を華麗に操り、乃木中尉は一瞬だけ海面に 停止(ていし) して薬の木箱を浅瀬へ落とすと、 間髪(かんぱつ) 入れずに再び 急上昇(きゅうじょうしょう) していった。
「アリス、物資だ! 急げ!」
橘少佐の声に我に返り、私は弾幕の中へ飛び出して海に浮かんだ木箱を引き揚げた。上空の『カモメ』が翼を振り、轟音と共に沖合へと離脱していくのが見えた。
薬が届いて安堵したのも束の間、悪夢は唐突に始まった。
「敵襲! 前線が抜かれたぞ!」
崖の上から、地鳴りのような 鬨(とき) の声が響き渡った。白刃を太陽に 煌(きら) めかせたトルコ兵が、祖国を守る猛烈な気迫で、高台から海岸へ向かって雪崩を打って駆け下りてくる。
「防衛線崩壊! 救護班は第二防衛線へ後退しろ! 重傷者は担架へ乗せろ!」
橘少佐の怒号が響き、救護所は一瞬にして大混乱に陥った。
「ここは俺たちが食い止める! 救護班は下がれ!」
オーストラリア兵たちが小銃を構え、銃剣を突き出して決死の反撃に出る。その血を洗う肉薄戦の真後ろで、撤退の準備に走ろうとした、その時だった。
突如、パンッという乾いた音が響いた。
私のすぐ隣で、担架を持ち上げようとしていた兵士の頭が、唐突に弾け飛んだ。
爆発の予兆も何もない、あまりにも突然で無慈悲な小銃の狙撃。 脳漿(のうしょう) と血の飛沫が、私の白い制服を温かく濡らした。
(嘘。……ああ、まただ。また、死んだ)
青島(チンタオ) での記憶が鮮明に脳裏をよぎる。恐怖で足がすくみ、呼吸ができなくなる。涙が溢れ、その場にへたり込みそうになった。
「アリス、死んだ者は置いていけ! 生きている者を運ぶんだ!」
橘少佐の叫びに、私は弾かれたように顔を上げた。
足元には、腹を撃たれて担架に乗せられたままの兵士が、痛みに顔を歪めて 痙攣(けいれん) している。このまま揺らして後送すれば、間違いなく痛みに耐えきれず 悶絶死(もんぜつし) する。
(嫌だ、もう誰も死なせないで……!)
私は泣きじゃくりながら、震える手で 医療鞄(かばん) を掴んだ。
混乱の中で包帯を引きずり出し、兵士の腹部に乱暴に止血帯を巻く。そして、注射筒を取り出し、痛みを散らすためのモルヒネを彼の腕に突き立てた。
「頑張って……後少しだから……!」
私は嗚咽を漏らし、担架の端を担ぎ上げた。銃弾の雨が降り注ぐ中を、ただ命を運ぶためだけに、後方へと必死に駆け出した。
後方の 塹壕(ざんごう) で身を潜めていたアーサーは、息を呑んでいた。
銃撃が 小康状態(しょうこうじょうたい) となった土嚢の裏側に、前線から逃げ延びてきた瑞長財団の医療陣が次々と転がり込んでくる。先陣を切って担架を運び込んできたのは、彼が「善意の広告塔」だと嘲笑ったあの白人の少女だった。
彼女の純白だった制服は他人の血と土で赤黒く染まり、その顔は恐怖と絶望でくしゃくしゃに歪んでいる。彼女はしゃくり上げるように泣きながら、それでも担架に乗せた異国の兵士の傷口から手を離そうとしなかった。
(これが、宣伝用の演技だとでも言うのか……?)
アーサーは、無意識のうちに少女の元へ歩み寄っていた。
「君は……なぜだ」
アーサーの問いかけに、少女のアリスはビクッと肩を震わせて顔を上げた。
「なぜ、自国の兵士でもない彼らのために、そこまで恐ろしい思いをして命を懸けるのか」
アリスは、泣き腫らした目でアーサーを見つめ返し、震える声で答えた。
「……もう、誰も死んでほしくないからです。痛みに、国境はないから……」
その言葉は、訛りのない、明確な 米国訛り(アメリカえいご) であった。アーサーは目を見開いた。
「君は……アメリカ人か!? なぜ我が国の人間が、日本の財団の制服を着てこんな地獄にいるんだ!」
「国籍も、所属も関係ありません……ただ、目の前の命を助けたいだけです」
その言葉に、アーサーは返す言葉を失った。それは、国家を背負った英雄の 台詞(せりふ) ではなかった。ただの、戦場に放り込まれた心優しい少女の、血を吐くような本音だった。
日本の偽善だと決めつけていた最前線で、母国アメリカの少女が他国の血にまみれて泣いている。
その事実が彼の浅はかな偏見を打ち砕くと同時に、報道の徒としての、得体の知れない悪寒にも似た好奇心が彼の背筋を駆け上がった。
最新鋭の航空機を弾幕の中で飛ばす日本人の操縦士。撤退の混乱の中で一糸乱れぬ規律を保つ日本人の指揮官。そして、恐怖に震えながらも国境を越えて命を救うアメリカ人の少女。
(彼らを繋いでいるものは、国家の野心などではない。……この『瑞長財団』とは、一体何者なんだ?)
単なる極東の慈善団体ではあり得ない。恐るべき技術力と、国境を持たない理念が高度に結びついた、未知の怪物。アーサーは、自分が世界の地図を塗り替えるかもしれない「巨大な何か」の片鱗に触れていることを悟った。
彼は静かに 塹壕(ざんごう) の隅へ移動し、懐から 砂塵(さじん) に汚れた 手帳(ノート) を取り出すと、震える手で鉛筆を握りしめた。
しかし、すぐには筆を進めることができない。この 戦塵(せんじん) にまみれた複雑な真実と、瑞長財団という底知れぬ存在を、単純な白黒の論調しか好まない祖国アメリカにどう伝えるべきか。
アーサーは砲声の響く 塹壕(ざんごう) の中で、手帳の白紙をただじっと見つめていた。その横顔には、政治的な偏見を脱ぎ捨て、真実と向き合おうとする新聞記者としての重い葛藤が、深く刻み込まれていた。