作品タイトル不明
第5話:泥濘の死線と、届かぬ祈り
泥と 硝煙(しょうえん) 、そしてひどく鉄錆びた血の匂いが 鼻腔(びくう) にこびりついて離れない。
青島(チンタオ) 要塞を包囲する日本軍の第三防衛線は、文字通り 泥濘(ぬかるみ) の底だった。冷たい夜風が吹き込む 塹壕(ざんごう) の中で、私は分厚い革の医療鞄を抱えたまま膝を丸め、震える手を必死に擦り合わせていた。
怖い。いくら『蓬莱丸』の清潔な手術室で 凄惨(せいさん) な傷を見てきたとはいえ、最前線の空気は根本的に違う。ここは命を直す場所ではなく、命が理不尽に千切れていくその「発生源」なのだ。
「アリス、頭を下ろしてろ。外を見るな」
隣で低い声を掛けたのは、特別衛生班の班長である黒田 十蔵(じゅうぞう) だ。 無骨(ぶこつ) な古参衛生兵は、私の肩を乱暴だが確実に、塹壕の冷たい土壁へと押し付けた。
「はい…… 止血帯(しけつたい) とモルヒネの準備は、できています」
「よし。俺の背中から離れるなよ。お前が死んだら、高柳の野郎に俺が殺されちまうからな」
黒田が緊張を和らげるように軽口を叩いた。そのすぐ横で、泥に塗れた 軍刀(ぐんとう) を静かに布で拭っている男がいた。
この第三防衛線の一角を任されている歩兵小隊長、 陣内(じんない) 中尉だ。
丸眼鏡の奥の瞳は理知的で、まるで大学の書庫にでもいるような静けさを纏っている。彼は常々「無駄な突撃は兵の浪費であり、非合理的だ」と公言する非好戦的な将校だった。だが、軍刀の刃こぼれを確かめる彼の指先は微かに震え、その口元には、隠しきれない 獰猛(どうもう) な歓喜の笑みが張り付いていた。
――ピィィッ!
夜気を引き裂くような、鋭い笛の音が鳴り響いた。
それまで空を覆っていた味方の準備砲撃がピタリと止む。耳鳴りがするほどの静寂が数秒落ちた後、暗闇の向こうから、地鳴りのような重い軍靴の音が響き始めた。
「敵襲! ドイツ兵の逆襲だ!」
見張りの歩兵が絶叫した。
照明弾が夜空に打ち上がった。青白い光の下、灰色の軍服を着た大男たちが、塹壕の向こう側から文字通り「壁」のように押し寄せてくるのが見えた。
凄まじい死兵の突進だった。味方の三年式機関銃が猛烈な勢いで火を噴き、先頭のドイツ兵たちをなぎ倒す。だが、彼らは味方の死体を 土嚢(どのう) 代わりに踏み越え、一切の恐怖を感じさせない機械的な足取りで、 怒涛(どとう) の勢いで迫ってくる。
泥まみれの 伝令(でんれい) が、塹壕の縁から真っ逆さまに私たちの足元へ滑り落ちてきた。
「陣内中尉! 第一、第二防衛線、突破されました! 敵の波が直ちにここへ来ます!」
悲鳴のような報告だった。第二防衛線が崩れたということは、今まさにここが最前線の死地になったということだ。
「想定より五分早い。敵の指揮官は優秀ですね」
陣内中尉は焦るどころか、懐中時計を仕舞いながら楽しげに呟いた。
「だが、彼らの戦線は伸び切っている。ここは地形的に防御の 要(かなめ) だ。総員、抜刀準備。残弾を撃ち尽くしたら白兵戦で迎撃します」
理知的な声と、熱に浮かされたような瞳。その矛盾した姿が、戦場の狂気を何よりも雄弁に物語っていた。
直後、塹壕の縁に灰色の巨大な影が次々と躍り出た。
「なっ……」
黒田が息を呑む。私も、恐怖で声が出なかった。
飛び込んできたのは、分厚い革の装備を 纏(まと) ったドイツ海軍歩兵の精鋭たちだった。日本の歩兵と比べ、私には頭一つ分ほど大きく見えた。彼らは泥まみれの塹壕に降り立つや否や、銃剣と、恐ろしく重厚な携帯 円匙(えんぴ) (シャベル)を振り回して襲い掛かってきた。
「ぐああっ!」
味方の兵士が、銃剣で受ける間もなく、顔面を円匙で砕かれて吹き飛ばされる。別の兵士が組み付こうとするが、巨漢のドイツ兵はそれを子供のように振り払い、容赦なく首元に刃を突き立てた。
力量の差が、絶望的なまでに開いていた。体格差という物理法則が、塹壕という狭い空間で残酷に日本兵をすり潰していく。
「計算外の質量だ。だが、悪くない」
陣内中尉が、泥を蹴って立ち上がった。
「中尉殿、無茶だ! あんたの体格でやり合える相手じゃねえ!」
黒田が警告して止めようとするが、陣内中尉は軍刀を抜き放ち、歓喜の笑みを爆発させた。
「すっこんでいろ、衛生班! この白兵戦は 歩兵(わたし) の管轄です!」
陣内中尉は、弾雨を掻いくぐるような極端な前傾姿勢で、二メートル近いドイツ兵の懐へと肉薄した。
巨大な銃剣が、陣内中尉の胸を串刺しにしようと突き出される。だが、彼はそれを間一髪で躱し、すかさず軍刀を下から切り上げた。
ブシュッ、と不吉な音を立てて、ドイツ兵の 頸動脈(けいどうみゃく) から鮮血が噴き出した。
「力学の基本ですよ。力の方向をずらせば、 巨漢(きょかん) も赤子と同じだ!」
陣内中尉は顔に他人の 血飛沫(ちしぶき) を浴びながら、狂ったように笑った。彼は理性を保ったまま、人を殺すというその暴力の渦に、自ら喜んで溺れていた。
「アリス! ぼーっとするな、仕事だ!」
黒田の怒号で、私はハッと我に返った。
目の前の泥溜まりに、足を撃ち抜かれて泣き叫ぶ若い日本兵が倒れている。
「だ、大丈夫です! 今、血を止めます!」
私は恐怖で竦む足を必死に動かし、彼のもとへ這っていった。震える手で医療鞄を開け、最新式の止血帯を引き出す。
「痛い、痛いぃっ! 足がっ!」
泣き叫ぶ彼の腿の付け根をきつく縛り上げながら、私は叫び返した。
「大丈夫、私が治すから! 船に帰すから!」
暴れる彼の腕を押さえつけ、素早くモルヒネの注射針を突き立てる。
これでもう血は出ない。痛くなくなる。後方で繰り広げられる陣内中尉の死闘の音を聞きながら、私は必死に目の前の命を繋ぎ止めようとしていた。
ヒュルルルルルルルッ!
不意に、空気を引き裂くような、甲高く不吉な風切り音が響いた。
「 榴弾(りゅうだん) だ! 伏せろぉっ!!」
黒田が絶叫した。
背筋が凍った。音の近さ、角度。その死の飛翔体は、間違いなく私たちの真上の空間を狙って落ちてきている。
逃げる時間などない。考える余裕もなかった。
(この人を、守らなきゃ!)
私は 咄嗟(とっさ) に、治療を終えたばかりの若い兵士の上に覆い被さった。自分の身体と分厚い革の医療鞄を盾にするように構え、泥の中に顔を押し付けて歯を食いしばる。
直後、世界が爆発した。
鼓膜を突き破るような暴力的な轟音。
全身の骨と内臓を、下から巨大な 鉄槌(てっつい) で殴りつけられたかのような強烈な衝撃波。視界が純白に染まり、肺の中の空気が一滴残らず絞り出された。
熱風と泥の塊、そして無数の鋭利な鉄片が、猛烈な速度で私の背中のすぐ上を通り過ぎていくのを感じた。
「……ぁ、がっ……!」
キーンという鋭い耳鳴りが、頭の中で鳴り響き続けている。息が吸えない。肺が痙攣している。
私はむせ返りながら、ゆっくりと顔を上げた。
土煙と硝煙で、数メートル先すら見えない。むせ返るような火薬の匂いと、先ほどよりも遥かに濃い、むき出しの 臓物(ぞうもつ) の生臭い匂いが充満している。
「みんな……無事、ですか……?」
自分の体に触れる。打撲の痛みはあるが、手足は動く。医療鞄が致命的な破片を防いでくれたようだ。私の下敷きになっていた若い兵士も、気絶してはいるが無事だった。
「俺は無事だ! アリス、中尉を見ろ!」
土煙の向こうから、顔の半分を泥で汚した黒田が叫んだ。
私は弾かれたように振り返った。
陣内中尉と戦っていた数名のドイツ兵は、榴弾の直撃を受けたのか、原型を留めない肉塊と化して泥に沈んでいた。
そして、その数歩手前。
陣内中尉が、塹壕の土壁に力なくもたれかかるようにして、へたり込んでいた。
「中尉!」
私は医療鞄を引っ掴み、泥に足を取られながら彼のもとへ駆け寄った。
だが、彼に触れようと伸ばした私の手は、空中でピタリと止まってしまった。
「あ……あぁ……」
陣内中尉の腹部から右胸にかけてが、ごっそりと消失していた。
炸裂(さくれつ) した榴弾の巨大な破片が、彼の上半身を斜めに 抉(えぐ) り取っていたのだ。ちぎれた軍服の隙間から、ひび割れた白い 肋骨(ろっこつ) と、脈打つたびに 薄紅色(うすべにいろ) の泡を吹く肺野が 剥(む) き出しになっている。どす黒い血液が、泥水のようにとめどなく溢れ出し、彼の足元に絶望的な血の池を作っていた。
「やだ、嘘……止血帯……包帯……!」
私は気が動転し、鞄を開けて真っ白な包帯の束を掴み出した。
だが、血に濡れた陣内中尉の左手が伸びてきて、私の手首を弱々しく、しかし明確な意志を持って掴んだ。
「……無駄です、アリス君」
陣内中尉は、ひどく掠れた声で言った。その口から、ゴボリと大量の血が溢れ出す。
「喋らないで! お願いだから、諦めないで!」
私は涙で視界をぼやけさせながら、首を激しく横に振った。彼の手を振りほどいて、巨大な傷口を塞ごうとする。指の隙間から、生温かい命が滑り落ちていくのがわかった。
陣内中尉は、血の泡を吹きながらも、先ほどまでの狂乱が嘘のような、ひどく理性的で静かな声で答えた。
「大動脈と、右肺の完全なる欠損。失血死まで、計算上……あと一分もない。貴重な 物資(モルヒネ) を、死体に使うのは……非合理的だ」
「そんな計算、間違ってます! 私が治すんだから!」
私が泣き叫ぶが、陣内中尉の手の力はもう、赤ん坊のように弱々しかった。眼鏡の奥の瞳から、急速に光が失われ始めている。
「……泣くことは、ない……」
陣内中尉は最期に、ふっと、あの獰猛で楽しげな笑みを浮かべた。
「すさまじい暴力との、取り交わし……あの極限の 昂揚感(こうようかん) は、どんな計算式でも……弾き出せ、ない。最高に……楽しい、ものだな……」
その言葉を最後に、陣内中尉の体から完全に力が抜けた。
私を掴んでいた手が、重力に従って泥の中に落ちる。焦点の合わなくなった彼の瞳が、硝煙で 澱(よど) んだ青島の夜空を 虚(うつ) ろに見上げていた。
「陣内中尉……? いやあああっ!」
私は、彼の血で真っ赤に染まった両手を見つめながら、塹壕の底で絶叫した。
私の祈りも、最新の医療技術も、近代戦の巨大な暴力の前では、あまりにも無力だった。
容赦のない砲声が、私のちっぽけな悲鳴をかき消すように、再び夜の闇に鳴り響き始めた。