作品タイトル不明
第3話:泥濘(ぬかるみ)の陣と、白亜の生命線
大正三(一九一四)年、九月上旬。
山東半島の沖合に停泊する二万トン級病院船『蓬莱丸』の後部甲板は、吹き付ける凄まじい秋雨の中にありながら、ただならぬ熱気を帯びていた。
「各部点検よし! 発艦準備!」
雨合羽を羽織った整備兵たちの声が飛ぶ中、 起重機(クレーン) が純白の機体を海面へと降ろしていく。瑞長財団が台北帝大および 基隆(キールン) 工廠の技術を結集して造り上げた独自設計の航空機、『新城式水上機一型A カモメ』。熱帯の湿気に耐え抜く基隆の職人たちが心血を注いだその機体は、鉛色の雨空の下でも確かな 逞(たくま) しさを備えていた。
「乃木中尉。雨で視界が悪いが、頼めるか」
「問題ありません。事前の打ち合わせ通り、まずは上空から陸軍との合流予定地を割り出し、待機している機動艇部隊を誘導します。その後、青島要塞の偵察へ向かいます」
操縦席の乃木 保典(やすすけ) 中尉が短く応え、操縦桿を握る。
轟音と共に発動機が火を吹いた。波立つ海面を滑走した水上機は、巨大な水飛沫を後に残し、雨雲の向こうへと力強く舞い上がっていった。
その勇姿を艦橋から見送る米内光政少佐と高野五十六大尉は、密かに感嘆の息を漏らした。悪天候下での発艦の手際もさることながら、空からの誘導と海からの収容を連動させるという未知の立体的な 兵站(へいたん) 網が、まさに今、産声を上げようとしていたからだ。
一方、山東半島北岸・ 龍口(ロンコウ) 。
そこは天に見放されたかのような泥の海と化していた。氾濫した河川と腰まで浸かる 泥濘(ぬかるみ) は、大日本帝国陸軍・第十八師団の進軍路を容赦なく寸断している。重砲を 牽(ひ) く車輪は微動だにせず、後方からの 輜重(しちょう) の馬車も途絶えて久しい。
辛うじて張られた野戦天幕の中で、若き一等卒の兵士は、浅い呼吸を繰り返しながら重く湿った泥の上に横たわっていた。
腹を内側から刃物で 抉(えぐ) られるような激痛。そして、幾度も繰り返される下痢。不衛生な水を飲用した部隊に、 赤痢(せきり) の影が這い寄っていた。
内臓が燃え盛るような高熱を発しているのに、皮膚の表面は氷を当てられたように冷え切り、歯の根が合わないほど全身が激しく震える。感染症特有の 悪寒戦慄(おかんせんりつ) が、兵士の命を削り取っていく。
「……この場の水を飲ませるな。何としても体温を保て」
天幕の中で、泥まみれの陸軍小隊長が声を枯らして部下たちを叱咤する。
彼は懐中時計を取り出し、血走った目で時刻を確認した。手元の医薬品は尽き、湯を沸かす薪すら湿っている。この地獄で、己の部隊だけで患者たちを救うことは不可能に等しかった。
(事前の取り決めでは、この河口付近が合流地点のはずだ。……司令部から通達のあった『瑞長の白船』の迎えは、まだか)
小隊長が焦燥と共に雨空を睨みつけたその時、雨音を切り裂くように、上空からけたたましい航空 機関(エンジン) の重低音が響き渡った。
厚い雨雲の下、一機の水上機が超低空で天幕の上を旋回していく。乃木中尉の操縦する『カモメ』が、泥に沈む陸軍の現在地を捕捉し、後続の艇団へ位置を知らせたのだ。
小隊長は雨空を仰ぎ、泥だらけの頬を緩めた。
上空の『カモメ』に導かれるように、河口を遡上してきた数隻の純白の 内火艇(うちびてい) が、水飛沫を上げて泥沼の岸辺に接舷した。
舳先(へさき) から降り立った橘少佐に対し、小隊長は泥を撥ね上げながら駆け寄り、泥まみれの右手で慌てて敬礼した。
「お待ちしておりました、少佐殿! 重症の赤痢患者が数十名おります。事前の打ち合わせ通り、彼らを船へ……!」
「状況は聞いている。我々がすべて引き受ける」
橘少佐は敬礼を返し、力強く頷いた。そして振り返り、短く鋭い号令を飛ばす。
「直ちに収容開始!」
その声と共に、瑞長財団医療大隊の衛生兵たちが一斉に泥の中へ踏み込んだ。
純白の制服に身を包んだ衛生兵たちは、一切の無駄口を叩かない。熟練の動作で患者たちを担架へ移すと、次々と内火艇へ運び込んでいく。そして機関が唸りを上げ、泥濘の陸路を嘲笑うかのように海路を滑り始めた。
陸軍が足を取られて四苦八苦していた搬送作業を、彼らは瞬く間に完遂していく。泥まみれの兵士たちは、その鮮やかな手際を前に、ただ言葉を失って立ち尽くすほかなかった。
沖合の『蓬莱丸』へと戻った内火艇は、白亜の絶壁へと真っ直ぐに進んでいく。
船体後部が扉のように左右に割れ、波の立たない穏やかな『胎内』が姿を現した。内火艇は速度を落とすことなく、そのまま船内へと滑り込む。
患者たちは波に揺られることも、担架を吊り上げられる恐怖を味わうこともない。気づけば、薄暗い雨空は眩い電灯に変わり、揺れ一つない平坦な床の上を運ばれていた。
待ち構えていたのは、頭から足先までを白い防護衣で覆い尽くし、手袋と防護眼鏡を装着したアリスら、医療陣である。
「脈拍低下、水様便。全員、赤痢の疑いが濃厚。一般負傷兵の動線には一歩も入れるな。ただちに隔離区画の除染室へ回せ」
高柳の鋭い声が飛ぶ。妥協なき 傷病分類(トリアージ) の壁がそこに敷かれていた。
厳重に分けられた除染室。
「大丈夫ですよ。まずは、お身体の泥と汚れを綺麗に洗い落としましょうね」
防護衣越しのアリスの声と共に、天井の管から勢いよく温水が注がれた。大型造水機が無尽蔵に作り出す真水の湯だ。
泥と排泄物に塗れた兵衣が手早く切り裂かれ、不純物を取り除かれた温水が、冷え切った身体の汚れを洗い流していく。
「あ、あぁ……」
内臓の激痛に苦しんでいた兵士の四肢に、ふわりと血の気が戻る。泥の中で獣のように死を待つだけだった自分が、温水に包まれ人として丁寧に扱われている。張り詰めていた緊張が解け、若い兵士は声を上げて 咽(むせ) び泣いた。
清潔な病衣に着替えさせられ、兵士は電灯に照らされた 寝台(しんだい) へ運ばれた。
激しい下痢で水分を奪われ、干からびた静脈に細い針が落とされる。頭上に吊るされた硝子瓶から、透明な液体がゴム管を通って直接血管へと流れ込んでいく。抗菌薬を混注した液滴である。
若い兵士は、目を見開いた。
異常な渇きと、腹を内側から抉られるような激痛。その燃え盛るような苦痛の中に、澄んだ水が直接注ぎ込まれていくのがはっきりと分かった。血管を這うようにして、細胞の隅々へ水分と薬が染み渡っていく。
しばらくすると、痙攣するほど痛んだ腹部から嘘のように痛みが和らぎ、荒い息遣いが静かな寝息へと変わっていった。
苦痛から解放され、再び安らかに息を吸い込める。
兵士は清潔な白い天井を見つめながら、白布を強く握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼし続けた。もはや帝国陸軍への忠誠心など欠片もない。彼らの心は、救済を与えてくれた瑞長財団への深い感謝へとすり替わっていた。
その光景を、隔離病棟のガラス越しに見下ろす二人の海軍将校がいた。
二人が無言で見入っているところへ、後部甲板から空気を震わせるような爆音が響き、起重機が『カモメ』を甲板へと収容していく音が聞こえてきた。青島要塞の空へと向かっていた乃木中尉が帰還したのだ。
彼が作戦室へ持ち込んだのは、泥濘で動けない陸軍騎兵に代わり、空からドイツ軍陣地を悠々と偵察した詳細な図面であった。
高野は、畏怖の入り混じった溜息をついた。
「泥に沈む陸軍を尻目に空から敵陣を丸裸にし、この潤沢な兵站で最前線の兵の命を救い続ける。後部から機動艇をそのまま呑み込むあの異容といい、米内さん、これは空と海から戦局を支配する『動く要塞』だ」
高野の言葉に、米内は静かに頷き、再び病室へ――安らかな眠りにつく陸軍兵士たちへと視線を戻した。
「ああ。そして何より恐ろしいのは、陸軍の将軍たちが気づかぬうちに、最前線の兵士たちの命綱が、余さずあの船へ握り込まれてしまったことだ」
武器の火力ではなく、情報と救済による支配。
白亜の船内を包む柔らかな光の中で、米内光政は、一発の銃弾も撃たずに陸軍という巨大組織の弱点を補い、そして心臓を握り潰した康政の冷徹な盤面の広さに深く戦慄していた。