軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話:白亜の慈悲、希望の航跡

大正三(一九一四)年、六月。

台湾・ 基隆(キールン) 港は、吸い込まれるような初夏の青空の下、かつてない熱狂と歓声に包まれていた。

岸壁にそびえ立つのは、目に痛いほどの純白を 纏(まと) った二隻の二万トン級特設病院船。第一船『 蓬莱丸(ほうらいまる) 』、そして第二船『 美麗丸(みれいまる) 』の姉妹艦である。船体の中央には巨大な赤十字が描かれ、その白と赤の鮮やかな対比は、不穏な空気が漂い始めた世界において、そこだけが聖域であるかのような 神々(こうごう) しさを放っていた。

「……見事なものだな、 康政(やすまさ) 。これほどまでに巨大な『救いの形』を、私は見たことがない」

来賓席の最前列で、乃木希典総督が感嘆の声を漏らした。

その隣には父・和也と母・和子が並び、さらに財団の物流を束ねる阿長、そして李志誠とリンの夫婦も、身なりの良い背広や豪奢な衣服に身を包み、 万感(ばんかん) の思いを込めて 白亜(はくあ) の巨艦を見上げている。自分たちの組織がこれほど巨大な「命の箱舟」を造り上げた事実は、決して偶然などではなく、彼らがここまで歩んできた途方もない 軌跡(きせき) の、ひとつの集大成であった。

いよいよ、命名式が始まった。

漆黒の薄絹の洋装ドレスに身を包んだ瑞月が、優雅な足取りで船首へと歩み寄る。その美貌と 威厳(いげん) は、集まった数千の群衆を自然と静まり返らせるほどの存在感を持っていた。瑞月が白く細い指で、銀色に輝く斧を 執(と) る。その後方では、財団の全資金を管理する『金庫番』の翠玲が、これまでの莫大な建造費を思い返すように、静かに目を閉じていた。

「本船を『蓬莱丸』ならびに『美麗丸』と命名します。……どうか、多くの命を導く光とならんことを」

瑞月が力強く紐を断つと、瑞長財団の象徴である青い 飾り紐(リボン) に結ばれた 発泡葡萄酒(シャンパン) の瓶が、美しい弧を描いて船首に叩きつけられた。

パリン、という硬質な音と共に白く泡立つ 飛沫(しぶき) が舞い散った、その瞬間だった。

北の空から、空気を切り裂くような複数の爆音が響き渡った。

「見ろ! 上だ!」

誰かの叫び声に、人々が一斉に空を仰ぐ。

そこには、太陽の光を翼に反射させた四機の水上機が、寸分の乱れもない美しい 菱形(ひしがた) の編隊を組んで突入してきた。

「乃木中尉だ! 乃木保典中尉の編隊だ!」

先頭を飛ぶのは、乃木総督の次男であり、財団の航空運用を担う保典中尉である。二隻の船尾に搭載される予定の常用機四機をすべて注ぎ込んだ祝賀飛行。水上機は白亜の煙突の間を縫うように低空で通過し、海面ギリギリで大きく 旋回(せんかい) して、再び港の上空へと舞い上がった。

空と海、その両方からの力強い祝福に、基隆港は地鳴りのような万歳三唱に揺れた。

式典の後、一行は船内の 巡検(じゅんけん) へと向かった。

タラップの下で彼らを待ち受けていたのは、腕組みをして 仁王立ち(におうだち) する造船親方、荒金源三だった。

「よくお出でなすった。康政様、秋山大佐殿。……見なせえ、内地の造船所に作らせたドンガラが、どう化けたかを」

荒金は、見上げるような白亜の 船腹(せんぷく) を分厚い掌でバンと叩いた。

「こいつぁもう、ただの船じゃねえ。地獄の海を渡り切るための『鋼鉄の意志』そのものだ。基隆の工廠で船体の内側に徹底的に水密区画を組み込み、沈まぬための『二重船殻』に仕上げてありますぜ」

荒金に導かれ、船体の奥深くへと進むと、今度は静かに 煙管(パイプ) を 燻(くゆ) らせる英国紳士が待っていた。 冶金(やきん) 技師のアリスター・ダンカンである。

「外殻や 隔壁(かくへき) そのものは内地の標準的な鋼ですが、この船の中枢を支える『骨格』は別です。機関室や重要区画を囲む主柱には、私がエルー式電気炉で焼き上げた、世界最高水準の特殊鋼を組み込みました」

アリスターは、機関室の天井へと伸びる、太く 強靭(きょうじん) な鋼の柱を愛おしそうに撫でた。

「万が一、 触雷(しょくらい) や 雷撃(らいげき) で外殻が破れても、この強靭な柱と細分化された区画が船体の 折損(せっそん) を防ぎます。壁すべてを特殊鋼で覆うことは叶わずとも、急所を支える骨格さえ折れなければ船は決して沈みません。私の技術のすべてを、この命を支える大黒柱に込めました」

「そして、この沈まぬ船に『命の灯』を灯し続ける心臓部が、これだ」

アリスターの隣から、油にまみれた作業着姿の十七歳の青年が胸を張って前に出た。息子のトーマスである。

「よう、康政。基隆での追加工事、最高の出来だぜ。 推進用(すいしんよう) の蒸気タービンとは完全に独立させて、俺たちが組んだ巨大なディーゼル発電機を追加搭載してやった。こいつは船を走らせるためじゃねえ。手術室の照明から冷蔵室まで、この巨大な病院の電力を二十四時間維持するための専用機関だ。十五ノットで洋上給油を受けながら走り続ける足腰に加えて、この独立電源がある。万が一主機が停まるようなことがあっても、この船の医療設備だけは絶対に死なねえよ」

内地の造船所に船体を造らせ、極東の台湾で恐るべき不沈の病院船へと仕上げる。親方から凄腕の父へ、そして次代を担う息子へ。流れるような技術の継承と、そこに込められた執念の結晶を前に、同行していた海軍の秋山大佐は絶句した。彼は船の構造を鋭い眼光で舐め回すように見つめ、低く唸った。

「……康政。お前、本気で海軍の兵站概念を根底から覆す気か」

「と、仰いますと?」

「とぼけるな。我が海軍の駆逐艦なら三十ノットを出せるが、燃料消費が激しく、大洋を横断する航続力はない。だからといって、鈍足の石炭船の船団に組み込めば、まるごと敵の潜水艦の餌食になる」

秋山は、船底に据えられた轟音を立てる巨大な主機と、その傍らで静かに脈打つ独立電源とを見比べた。

「だが、十五ノットという絶妙な速度で、補給しながら走り続けるこの巨艦なら、海中で待ち伏せる潜水艦は 到底(とうてい) 追いつけない。足の短い駆逐艦を直衛につける必要すらなく、ただ単独で海を渡り切れる。……しかも船尾には水上機まで積んでいる。ただの病院船ではない。空から敵や遭難者を 索敵(さくてき) し、自力で補給を行いながら艦隊に 随伴(ずいはん) し続ける『海上兵站基地』そのものだ。お前たちは、海軍による護衛という概念すら過去のものにする気か」

「この船は、自らの速力と情報網、そして決して絶えぬ命の灯だけで戦場を駆け抜けます。それが、最も確実に命を運ぶ方法ですから」

康政は、温和な笑みを浮かべて静かに一礼した。

一方、機関室からさらに上層の医療区画では、白石医師と十六歳のアリスが一行を出迎えた。

「ここからは、我々の聖域です」

白石医師が静かに告げると、清潔な看護婦の制服に身を包んだアリスが、 凛(りん) とした声で解説を引き継いだ。

「白石先生と設計したこの区画は、台北の竹から作った活性炭の空気 濾過器(ろかき) で守られています。病原菌は、この中へは一歩も入れません」

アリスが誇らしげに指し示したのは、波の揺れを打ち消す特殊なジャイロ式手術台だった。

「そして、ここには康政が準備してくれたペニシリンを含む薬品や、レントゲン設備、大型の淡水化設備による大量の真水もあります。どんな地獄から運ばれてきても、私たちは決して命を諦めないわ」

高柳少佐率いる医療大隊の面々も、整然と並ぶ最新鋭の病床を前に、その顔を引き締めている。

「高柳君。どうした?」

ふと目頭を押さえた高柳に、白石が尋ねる。高柳は自嘲気味に笑って首を振った。

「いえ…… 奉天(ほうてん) の野戦病院を思い出しましてね。あの時は、銃弾よりも、不衛生な天幕と寒さ、そして粗末な食糧で多くの部下を失いました。もしあの時、この船があったならと……つい」

「ええ。私も同じ思いです」

白石は、高柳の肩にそっと手を置いた。

「ですが、我々にはもうこの白亜の城がある。これからは、誰一人として理不尽な病で死なせません」

二人の医師は、静かに、しかし力強く頷き合った。

視察の締めくくりは、船内の中央に位置する大食堂で行われた。

そこは千人以上の収容能力を持ちながら、まるで一流ホテルのような豪華さと清潔さに満ちていた。隣接する 厨房(ギャレー) からは、電気調理器と高圧蒸気が放つ熱気と共に、食欲をそそる芳醇な香りが漂ってくる。

円卓に案内された乃木総督や秋山大佐たちは、目の前に運ばれてきた光景に息を呑んだ。

大型製氷機から削り出された氷の山の上に、基隆で水揚げされたばかりの新鮮な魚介の舟盛りが 鎮座(ちんざ) している。その脇には、色鮮やかな 芒果(マンゴー) や 鳳梨(パイナップル) 、 蓮霧(レンブ) といった台湾のみずみずしい熱帯果実が、宝石のように美しく盛り付けられていた。

「信じられん……ここは本当に船の上か?」

秋山大佐が、氷の冷気にあてられながら呟いた。

「ええ。最新の冷蔵設備のおかげで、赤道直下の海であっても食材を腐らせることはありません。温かくて美味しい食事、そして清潔な環境。それらは薬以上に、傷ついた兵士たちの心に『生きる力』を灯す魔法となります」

康政の言葉に、秋山と乃木総督は深く頷き、よく冷えた酒と台湾の海鮮を口に運んだ。

宴たけなわとなる頃、厨房からひときわ強烈な香辛料の匂いが立ち昇った。

「さあ、瑞長の『結束の味』です。存分に召し上がってください」

康政の合図と共に、山盛りの白飯に分厚いカツが乗った「カツカレー」がテーブルの主役として運ばれてきた。

阿長や李志誠たちが顔を輝かせてスプーンを握り、荒金やダンカン、そしてトーマスやアリスも満面の笑みでカレーを頬張る。身分も国籍も、軍人も民間人も関係なく、皆が同じカレーの皿を囲み、同じ釜の飯を食らう。そこには、瑞長財団という一つの大きな「家族」の揺るぎない絆があった。

(帝都で学んでいる久世君や御子柴君、響子さんたちも、今頃は自分たちの戦場で必死に牙を研いでいるはずだ。彼らがいつか傷つき、 疲弊(ひへい) した時、必ず帰ってこられるだけの絶対的な温かさを、僕は守り抜く)

康政は、喧騒の中で一人、静かに誓いを立てた。

康政は、その温かい光景を瞳に焼き付けるように見渡した後、そっと食堂を抜け出し、夕暮れに染まり始めた甲板へと出た。

潮風が、詰め襟の首元を冷たく吹き抜けていく。

「……いよいよですね、父さん」

いつの間にか隣に立っていた和也が、何も言わずに康政の肩を強く抱き寄せた。

康政の視線の先、水平線の向こう側では、一九一四年の夏という名の巨大な嵐が、すぐそこまで迫っていた。世界を繋いでいた細い理性の糸が間もなく千切れ、人類がかつてない狂気に身を投じようとしている。

だが、康政の瞳に恐れはなかった。

背後の食堂からは、仲間たちの明るい笑い声と、命の熱気が漏れ聞こえてくる。

「行きましょう。僕たちが造り上げたこの白亜の盾で、世界の理不尽を真っ向から受け止めるために」

一九一四年、六月。

基隆港に 停泊(ていはく) する二隻の白亜の巨艦は、破滅へ向かう世界への無言の抗いであり、同時に、 絶望(ぜつぼう) の海へ向かうすべての人々への、瑞長財団からの「希望の約束」であった。