軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話:空冷の鼓動と、救済の眼

大正二(一九一三)年、春。

基隆(キールン) 工廠の試験室は、巨大な獣の 咆哮(ほうこう) のような排気音に震えていた。むせ返るような機械油と未燃焼ガソリンの匂いが、押し潰さんばかりの熱気と共に立ち込めている。

防音ガラスの向こう、鉄の台座に固定された空冷エンジンは、独自の放熱フィンを 赤熱(せきねつ) させながら、限界速度で回り続けていた。

「回転数、千二百! 振動なし!」

「シリンダーヘッド温度、百九十度で安定! ……高雄の合金が、勝ったぞ!」

計器の針に張り付いた技師たちの、喉を枯らした絶叫。水冷という「重さ」を捨て、空冷の「熱」に挑んだ彼らの戦いは、高雄から届いた高品位な軽合金によって、ついに終わりの時を迎えようとしていた。

「出力、百五十馬力! 連続十時間……焼き付き、なし!」

二階堂の宣告。欧州の最新鋭機すら 凌駕(りょうが) するその数字は、工廠にいた全員を沈黙させ、次いで、地鳴りのような歓喜へと変えた。

スロットルが戻され、咆哮が静かな脈動へと変わる中、乃木保典は腕を組み、静かにその心臓を見つめていた。歓喜に沸く技師たちとは対照的に、その瞳は冷徹だ。

(……百五十馬力。そして十時間の耐久性。これならば、重い無線機と通信士を乗せ、荒波を越えて、生きて帰ってこられる)

保典にとって、そのエンジンは技術の結晶ではなく、自らの命と「救うべき命」を預ける、 強靭(きょうじん) な兵器そのものであった。

数日後の早朝。

台北の北、 基隆河(キールンがわ) がゆったりと流れる松山の河川敷は、まだ深い 朝靄(あさもや) の中、静まり返っていた。

格納庫のすぐ外、大型天幕から漏れる明かりの中で、高柳少佐率いる医療大隊の新兵たちが、白石医師の厳しい視線を受けていた。彼らは泥にまみれた演習服ではなく、真新しい白衣を 纏(まと) っている。

「目に見える傷だけが敵ではない! 手の洗浄、器具の 煮沸(しゃふつ) 、そして石炭酸による空間の消毒。新城規格の衛生管理を一つでも怠れば、見えない『菌』が容易く命を奪う。徹底した清潔こそが、我々の最強の武器であると心得よ!」

白石の 凛(りん) とした声が、朝の静寂を切り裂く。精神論ではなく、科学による人命救助。兵士たちは真剣な眼差しで、その言葉を筆記帳に刻み込んでいた。

一方、格納庫の前では、朝靄の中から引き出された機体が、その全容を現していた。

ツンと鼻を突く耐水塗料(ドープ液)の匂いが漂う。ジュラルミンの骨格に強靭な 帆布(キャンバス) を張った、銀と白の混在機だ。

機首では、熟練の技師が太いスパナを握り、銀色に輝く金属製プロペラの根元に全神経を集中させていた。

「……康政。あれは?」

視察に訪れた瑞月が、漆黒の扇子で口元を隠しながらその手元を 凝視(ぎょうし) した。

「高雄のジュラルミンから削り出した、金属製のプロペラです」

康政は、技師の 所作(しょさ) を見つめながら静かに語った。

「今日は後部座席に通信士と重い送信機を載せます。機体が重くなる分、速度よりも『揚力(引っ張り上げる力)』が要る。だから今、職人がスパナ一本で、羽根が空気を掻く 角度(ピッチ) を、地上で手動調整しているのです」

飛行中に角度を変える複雑な機構は、重く、壊れやすい。だからこそ、 離水(りすい) 前に職人の手と勘で最適な角度へと固定する。極限まで軽くした布張りの胴体と、百五十馬力の恩恵を余すことなく使い切るための、財団の「知恵」がそこにあった。

「準備はすべて整いました、康政殿」

飛行服に身を包んだ保典が、操縦席の横に立っていた。その後部座席には、まだあどけなさの残る台湾出身の若者、 林志豪(リン・ジーハオ) が、重く無骨な木箱を大事そうに抱えて座っている。

「康政殿。この布張りの小さな機体では……波に揺れる海面から、ずぶ濡れの遭難者を直接引き上げることはできません」

保典の言葉は、自らの無力さを噛み締めるように重い。

「私にできるのは、誰よりも早く空から彼らを見つけ出し、浮き輪と水筒を落としてやり、母船が来るまで、その絶望の海の上を 旋回(せんかい) し続けることだけです」

だが、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「だからこそ、林の叩くモールス信号だけが、遭難者と母船を繋ぐ唯一の希望になる。見つけ、生かし、導く。……それが、私の戦いです」

歓声と緊迫に包まれる格納庫から少し離れた小高い車寄せで、一人の老将が、出撃を待つ銀色の機体を静かに見下ろしていた。

軍服姿の乃木希典である。

彼の脳裏には、あのうだるような熱帯夜の記憶が、今も鮮烈に焼き付いている。己の腹に突き立てようとした白刃を、両の素手で握りしめ、鮮血を滴らせながら「大正の未来の盾として生きろ」と乞うた、十七歳の青年の 凄絶(せいぜつ) な瞳。

死へ逃げることを許されず、台湾総督という重い冠を被ったまま、泥に塗れて生きることを強いられた己の命。その痛みを伴う 贖罪(しょくざい) の道の先で、老将は今、途方もない歴史の巡り合わせを見上げていた。

(……勝典。お前たちを、殺すために戦場へ送り出したこの私が)

希典は、そっと目を閉じた。

(今、お前たちの弟が『命を救うための翼』で空へ羽ばたこうとする姿を、こうして見送っている)

かつて死を振り撒いた将軍の静かなる祈り。

その沈黙を打ち破るように、眼下の河川敷で、甲高く図太い排気音が 轟(とどろ) いた。百五十馬力の心臓が、大正の空へ向けて産声を上げたのだ。

希典は目を見開き、ただ一人、無言のまま息子に向けて最敬礼を送った。

「行くぞ、林!」

「はいっ!」

保典がスロットルレバーを押し込む。角度を深めに設定されたプロペラが猛烈な力で空気を叩き出し、銀と白の機体は、白い水飛沫を高く巻き上げながら基隆河を 滑走(かっそう) し始めた。

水面からの抵抗が消え去り、風を捉えた翼が機体を重力の鎖から解き放つ。

だが、真の戦いはここからだった。

地上基地の天幕内。張り詰めた空気の中、無線開発の三人が、祈るように機材へしがみついていた。

「……頼む、耐えてくれ……!」

早川技師が、血を吐くような声で呟く。彼が最も恐れていたのは、百五十馬力の恐るべき振動によって、繊細な送信機が上空で分解することだった。己の設計した防振装置が、命綱のすべてを握っている。

「 雑音(ノイズ) がひどい……! だが、必ず拾う!」

小暮助手が玉の汗を流し、巨大な受話器を耳に押し当てながら、狂ったように受信機のつまみを微調整し続ける。エンジンの点火雑音と風切り音にまみれた空から、微弱な人工の電波を探し出す、砂浜で針を探すような絶望的な作業。

その背後で、牧野博士だけが腕を組み、空を睨み据えていた。

「落ち着け、小暮。あの若者(林)の指はブレていない。必ず届く」

上空は、地上の穏やかさとは無縁の過酷な世界だった。

吹き荒れる強風、突き刺さるような寒さ。猛烈な振動の中で、林は凍える手から革手袋をもぎ取った。かじかむ指先を 電鍵(キー) に乗せ、全神経を集中させる。

バチッ、バチバチッ!

青白い放電の閃光が、強風に流れていく。林は神業のような指捌きで、明確なモールスの長短へと変えていった。

地と空を繋ぐ、見えない意志の 奔流(ほんりゅう) 。徐々に熱を帯びていくその極限の空間で――。

「……来ました!」

地上の小暮が弾かれたように絶叫し、鉛筆を走らせた。雑音の奥からハッキリと聞こえる、力強い打鍵音。

『メ、ヒラケリ。フネヲマツ』

その短い暗号を聞いた瞬間、松山の河川敷は割れんばかりの歓声に包まれた。牧野が 破顔(はがん) し、早川と小暮が泣きながら抱き合う。

歓喜に沸く地上を見下ろしながら、上空の保典は操縦桿を握りしめ、遥か先に広がる外洋へと厳しい視線を向けていた。

波のない川から飛び立ち、目の前の地上基地へ電波を送る。

本当の戦いはこれからだ。目印など一切ない広大な洋上を数百キロにわたって飛び続け、推測航法のみで現在地を割り出し、空から母船へ正確な位置を伝えなければならない。

船が完成するまでの間に、その途方もない地獄のような訓練を 完遂(かんすい) しなければ、この機体は本当の『救済の眼』にはなれないのだ。

百五十馬力の心臓の咆哮を聞きながら、乃木保典は覚悟と共に、機首を外洋へと向けた。瑞長財団の過酷な航空運用史が、今ここに幕を開けた。