作品タイトル不明
第4話:台北の肺と、新城家の歩み
明治三十一年(一八九八年)、台北。
新城家がこの熱気に満ちた島に根を下ろしてから、三年の月日が流れていた。
父・新城和也が、周囲の猛反対を押し切って、領有間もない台湾への赴任を志願したとき、東京の親族たちは「正気か」と耳を疑い、あるいは「新城の三男坊は、出世競争から逃げ出した」と陰口を叩いた。
当時の台湾は、抵抗勢力の 余塵(よじん) が 燻(くすぶ) り、何より「マラリア」という名の死神が猛威を振るう、悪名高き絶海の孤島だったからだ。
東京の旧幕臣、旗本の誇りを守り抜く厳格な家系に生まれた和也は、実直すぎる性格ゆえ、明治の官界に渦巻く派閥争いや世渡りの術には、からきし 疎(うと) かった。
「和也さん、あなたは正しい。けれど、この東京ではその正しさは疎まれるだけなのですよ」
かつての上役が辞職の間際に零したその言葉は、和也の胸に、消えぬ棘のように刺さり続けていた。
そんな彼が、辞令を手に「死の島」へ渡る決意をした夜。和也は妻・和子に対し、離縁さえ覚悟して、震える声で切り出した。
「和子、私はこの台湾で、誰の顔色も 窺(うかが) わず、ただ『民のためになる実務』に一生を捧げたいのだ。だが、君を危険な目に合わせるわけにはいかない。君は、東京の実家に戻る道を選んでもいい」
しかし、和子は微笑みを絶やさぬまま、静かに、しかし断固として答えた。
「和也さん。あなたが信じる正しさを、私は一番近くで見ていたいのです。毒も病も、二人で立ち向かえば恐れることはありません。……私は、あなたという人の志に、添い遂げると決めたのですから」
和子もまた、旗本出身の誇りと共に、「 女子(おなご) といえど、家を、そして夫の信念を支える者であれ」と叩き込まれてきた女性だった。彼女が慣れ親しんだ東京の暮らしを捨て、赤ん坊を 身籠(みごも) りながら 泥濘(ぬかるみ) の台北に降り立ったのは、和也という男の「不器用な誠実さ」に、誰よりも惚れ込んでいたからに他ならない。
台北に到着して間もなく、和也は路頭に迷っていた 阿長(あちょう) を助け、和子は身寄りのない少女リンを家族として迎えた。
「困っている人がいれば、手を差し伸べる。それが新城家の家訓ですから」
そう言って笑う和子の凛とした姿があったからこそ、この家には血の繋がりを超えた、強固な「絆」が芽生えたのだ。
そして今、和也の抱いてきた「理想」は、息子・康政という、人知を超えた 叡智(えいち) を持つ 触媒(しょくばい) を得て、一つの家庭から、台北という街全体へと 波及(はきゅう) しようとしていた。
官舎における「流動の理」の実証実験が成功してから、数週間。
新城家の噂は、後藤新平長官の 肝入(きもい) りということもあり、瞬く間に台北の行政層へ広がっていた。
ある日の昼下がり、和也の元に、一人の男が訪ねてきた。
「新城様。お忙しいところ恐縮ですが、是非ともあのご提案……官舎で成し遂げられた『清浄なる仕組み』を、私の 管轄(かんかつ) する区画でも試していただきたいのです」
訪ねてきたのは、台北の衛生改善に頭を悩ませていた区長だった。
傍らで、 木端(こっぱ) を積み木のように並べて遊んでいた僕――康政は、無邪気な子供のふりをして、その会話に耳を澄ませた。
(パパ、チャンスだよ。官舎という狭い実験場から、いよいよ本番の『都市計画』へと踏み出す時だ)
和也は、阿長が手際よく用意した資料――官舎での一ヶ月にわたる温度・湿度の変化、そして家人の体調の推移をまとめた記録帖を広げた。
「区長、お気持ちは分かります。しかし、個々の家の内側を整えるだけでは、この街の根源的な病は断てません。街全体の排水……すなわち水の流れを、人体でいうところの血管のように整え直さねば、病の根は断てないのです」
和也の言葉には、以前の彼にはなかった、確固たる自信が満ちていた。それは、息子の「お節介」を信じ、共に汗をかいた実績から生まれる輝きだった。
康政が、積み木をわざと玄関脇の「淀んだ水溜まり」の中に転がしてみせる。
「あ、パパ。……おみず、とまってる。……むしさん、わいちゃう」
康政が指差したのは、官舎のすぐ外、日当たりが悪く常に腐臭を放っている排水溝だった。
同行していた若き技師・八田與一が、その言葉に興味を惹かれたように足を止めた。八田は帝国大学を卒業したばかりの精鋭だが、その目は 既成概念(きせいがいねん) に 囚(とら) われない柔軟さを持っていた。
「おや、康政君。今、何と言ったのかな?」
「……むしさん。……ここ、ねんね(病気)のもと、よ」
僕は無邪気に笑いながら、水面に群がる蚊の幼虫、ボウフラを指差した。
令和の知識では常識だが、この時代の台北では、マラリア(マシリア)が「蚊」によって 媒介(ばいかい) されるという説は、まだ一部の学者が唱える仮説に過ぎなかった。多くの人々は、地面から湧き出る「 瘴気(しょうき) 」こそが病の正体だと信じていた時代だ。
八田與一は、膝をついて僕と同じ高さに腰を落とした。
「……虫か。確かに、この淀みには不気味なほどボウフラが湧いているな。新城様、康政君の感性は実に鋭い。……水が淀み、虫が湧き、それが人の病となる。……あるいは瘴気そのものではなく、この流動をせき止めている『不潔な淀み』こそが、私たちが戦うべき敵かもしれません」
八田は、子供の何気ない、しかし本質を突いた一言を「技師としての着想」へと見事に変換してみせた。康政の中に「神」を見るのではなく、その無垢な観察眼を「発見の鍵」として尊重する。エリートとしての自尊心を持ちつつも、真理に対して謙虚な、彼らしい誠実な反応だった。
「八田先生。……私は決めました。この台北の『肺』……すなわち、淀んだ空気を 一掃(いっそう) し、新鮮な水が流れる街にするための計画を、総督府へ正式に申請します。これはもはや、一官吏の趣味ではない。台湾という土地を救うための、科学的な 闘争(とうそう) です」
和也の決断に、傍らに控えていた阿長は、静かに、しかし深く頭を下げた。
「御意にございます。……職人たちの手配、ならびに必要な陶管や煉瓦の調達ルートの確保。すべて、旦那様のご 差配(さはい) のもと、滞りなく進めて参ります」
和子の淹れた、香り高い茶が部屋に運ばれてきた。
彼女は夫の 雄姿(ゆうし) を誇らしげに見つめ、それからリンの膝の上に座る僕の頭を、そっと撫でた。
「康政、あなたはお父様を、本当に立派な男にしてくれましたね。……あなたが生まれてから、この家の風向きは、確かに変わりました」
和子の手の温もりに、僕は確信した。
パパの理想、阿長の実務、リンの 献身(けんしん) 、そして和子の静かな覚悟。
この四つの歯車が噛み合ったとき、僕の「お節介」は、歴史の荒波をも乗り越える巨大な動力源になるのだ。
(さて、まずは台北の地下を掘り起こそう。……淀みをなくして、みんながニコニコ笑える街にするんだ。パパが、この島で本物の『仕事』を成し遂げるために)
康政は、和也が広げた古い台北の地図の上に、新しい「ニコニコできる街」の設計図を、心の中で描き始めていた。
それは、やがて来るべき巨大な戦争や、異国の悲劇をも塗り替えていく、小さなお節介の、大きな 波紋(はもん) の始まりだった。