軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話:春の胎動と、理を砕く美貌

明治四十年(一九〇七年)、三月。

台湾北部のうっとうしい 冬雨(タンホー) の季節が終わり、生命力に満ちた春の陽光が台北の街を照らし始めていた。

新城家の書斎では、十一歳になった僕、 新城康政(しんじょう やすまさ) が、山積みにされた洋書と格闘していた。

「イギリスの『冶金学(Metallurgy)』における焼戻しの温度曲線。そして、アメリカの『互換性部品(Interchangeable parts)』と『精密旋盤(Lathe)』のマニュアルくそっ、十九世紀末の専門用語なんて、前世のビジネス英語じゃ全く太刀打ちできないな」

僕は鉛筆を置き、こめかみを揉んだ。

数ヶ月後に海を渡ってやってくる、イギリスとアメリカの技術者たち。彼らを「金で雇った外人」としてではなく「技術の師」として待遇し、その知見を骨の髄まで吸収するには、通訳を通さない直接の対話が不可欠である。日常会話はともかく、内燃機関や特殊鋼の精錬、そして量産体制に関する高度な技術英語を、僕は春の間に何としても頭に叩き込む必要があった。

翌日、台北尋常小学校の教室内。

僕が窓際の席に座ると、いつものように三人の「学友」が自然な動作で周囲に集まってきた。

駐留軍の猛将の息子・ 御子柴烈(みこしば れつ) 。華族の三男坊で情報通の 久世景秀(くぜ かげひで) 。そして、僕の前の席に座る冷静な観察者、 橘響子(たちばな きょうこ) である。

「康政、聞いたか? うちの親父の部隊に、総督府から大量の山岳用装備と弾薬の要請が来てるらしいぞ。いよいよ山を攻めるって息巻いてた」

御子柴が、声を潜めて切り出した。

「ああ。僕の父様(総督府民政局)のところでも、連日予算会議で大揉めだよ。佐久間総督が、本格的に『 理蕃事業(りはんじぎょう) 』を始めるらしいね」

久世が、上品に肩をすくめながら情報を補足する。

第五代台湾総督、 佐久間左馬太(さくま さまた) 。

彼が推し進める「 理蕃事業(りはんじぎょう) 」とは、台湾の険しい山間部に住む先住民(タイヤル族など)を武力で制圧し、そこに眠る莫大な富、火薬やセルロイドの原料となる『 樟脳(しょうのう) 』と、最高級の『森林資源』を総督府の独占管理下に置くという、血塗られた国家プロジェクトである。

「康政君。瑞長商会にとって、これは大きな軍需の追い風ね」

橘響子が、教科書に目を落としたまま囁いた。総督府はこれから、内地に頼っていられないほどの土木機械と武器を必要とする。巨大工廠の顧客としては申し分ない。

だが、僕は静かに首を振った。

「いいや、橘さん。軍隊を使って山を焼くなんて、最高に馬鹿げた『大赤字の事業』だ」

「え……?」

「弾薬には莫大な金がかかるし、 兵站(へいたん) を維持するだけで総督府の予算は底をつく。何より、その山を一番よく知っていて、木や樟脳を切り出す最高の技術を持った『現地の労働力(先住民)』を、わざわざ殺して回るなんて実務家として、絶対に許容できない資源の浪費だ」

僕は、ノートの真ん中に一本の太い線を引いた。

「彼らの土地と命は、僕たち瑞長財団が『経済の力』で守る。大人の愚かな戦争を、帳簿の上で無力化するんだ」

数日後。台湾総督府・専売局の豪奢な応接室。

理蕃事業の予算と資源管理を握る専売局長は、目の前に座る人物から目を離すことができず、完全に呑み込まれていた。

「つまり、瑞長財団に山間部の樟脳の『独占買い付け権』を寄越せと? 馬鹿な、あそこは軍がこれから――」

「ええ、軍が莫大な血税と命を浪費して、森を灰にする予定の場所ですわね」

瑞月(みづき) が、白磁のような指先で扇子を弄びながら、ふわりと微笑んだ。その後ろには 燕(エン) を含め数名の財団の護衛が姿勢を正して直立している。

その日の彼女は、息を呑むほどに洗練された漆黒の洋装に身を包み、まるで夜の 帳(とばり) が降りたような圧倒的な美貌と威圧感で、応接室の空気を完全に支配していた。百戦錬磨の高級官僚である局長でさえ、彼女の妖艶な視線と、隙のない冷徹な論理の前に、冷や汗を流して言葉を詰まらせている。

「局長様。軍の一つの中隊動かすのに、一日いくらかかるかご存知ですか? さらに、森を焼けば樟脳の生産量は激減します。しかし、我々にお任せいただければ、総督府には『軍事費ゼロ』で、現在の倍の樟脳を安定して納入することをお約束いたします」

「し、しかし、相手は首狩りの風習を持つ獰猛な蕃人だぞ! 商人がどうやって……」

「『対等な 取引(フェアトレード) 』をするのです」

瑞月が、扇子をぴしゃりと閉じ、卓の上に分厚い契約書を叩きつけた。

「彼らが必要としているのは、弾丸ではなく『近代的な医薬品』と『農具』、そして『適正な対価』です。我々が彼らの文化を尊重し、樟脳と木材を相場通りの適正価格で買い取る『交易網』を築きます。彼らを敵に回して泥沼の 遊撃(ゲリラ) 戦をするのと、彼らを『瑞長財団の専属の協力者』として雇い入れ、安全に資源を吸い上げるのと。どちらが総督府の利益になるか、賢明な局長様ならお分かりでしょう?」

「…………っ」

局長は、瑞月の放つ抗いがたい魅力と、反論の余地もない完璧な「利益の数字」の前に、ついに震える手で契約書に署名した。

軍部の武力制圧は、予算の承認が下りず事実上の凍結。

代わりに、瑞長財団による先住民との「平和的な経済同盟」が成立した瞬間であった。康政の指示を受けた瑞月が、その美貌と実務の暴力で、一つの民族が血の海に沈む運命を『帳簿の書き換え』によって救い出したのだ。

四月下旬。 基隆(キールン) 港の西側。

数ヶ月前まで見渡す限りの 泥濘(ぬかるみ) だったその場所は、東京の株式市場から吸い上げた莫大な『円』の血液を注入されたことで、劇的な変貌を遂げていた。

「そこの足場、もっとしっかり固めろ! コンクリートの 養生(ようじょう) 期間は絶対に守るんだ!」

土木技師の 八田與一(はった よいち) が、 拡声器(メガホン) を片手に怒号を飛ばしている。

彼の指揮の下、基隆川から引き込まれた治水用の放水路はすでに完成し、周辺の農地には綺麗な淡水が供給され始めていた。そしてその水路と直結する形で、海岸沿いには数千トン級の艦船を引き込める巨大な「乾ドック」の輪郭が、分厚いコンクリートの壁とともに姿を現している。

隣接する広大な敷地には、すでに瑞長財団の『巨大工廠』の建屋が完成していた。かつてストライキを起こしかけた 沖仲仕(おきなかし) たちは、今や正規の工員として適正な賃金を与えられ、この要塞の建設に誇りを持って従事している。

「箱はできた。立派な空箱がな」

元海軍工廠の凄腕技師・荒金源三が、完成したばかりの、まだ機械一つないガランとした巨大な工場内を歩きながら、葉巻の煙を吐き出した。

「焦らないでください、荒金さん」

視察に訪れていた瑞月が、図面を抱えた二階堂とともに微笑む。

「若様が描いた実務の土台は、一つ残らず完璧に整いました。あとは……」

五月。初夏の気配が、台湾の空気をじっとりと重くし始めた頃。

康政の執務室に、大北電信局から『二通』の暗号電報が同時に届いた。

一通目は、ロンドンに渡った霧島誠一郎から。

『交渉完了。ヴィッカース製エルー式電気炉一基、英国内燃機関技師二名、スコットランド冶金技師三名ノ雇用契約ニ合意。並ビ二、特殊鋼百トンヲ積載シ、ロンドンヲ出港ス』

そして二通目は、霧島の指示でニューヨークに飛んでいた瑞長商会の現地代理人からである。

『米国市場ニテ買付完了。最新式石油精製プラント一式、プラット・アンド・ホイットニー社製・精密工作機械(旋盤・フライス盤)五十台。並ビニ、 量産工程(マス・プロダクション) ノ専門技師二名ト共ニ、ニューヨーク港ヲ出港ス』

僕は二つの電報を机に並べ、深く息を吐き出した。

「イギリスの『極限の素材と動力』。そして、アメリカの『完璧な精度と量産体制』。この二つが揃って初めて、設計図は『兵器』という実物になる」

半年間の空白を埋めるための準備はすべて終わった。

僕が懸命に習得した技術英語も、先住民たちと結んだ血の流れない強固なサプライチェーンも、そして八田と荒金が築き上げた空っぽの巨大要塞も。すべては、東西の大洋を越えてやってくる『鋼鉄と頭脳』を迎え入れるための、完璧な 器(うつわ) である。

一九〇七年、初夏。

大英帝国の結晶と、新興国アメリカの合理主義を乗せた二隻の輸送船が、ついに台湾・基隆港へとその姿を現そうとしていた。