軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話:冬の雨と、狂乱への引鉄

明治三十九年(一九〇六年)、十二月末。

台湾北部を覆う 冬雨(タンホー) は、すべてを濡らし、冷やし、そして静かに狂気を孕んでいた。

大陸から吹き下ろす北東季節風(東北季風)は、重く湿った雲を幾重にも運び込み、何日も絶え間なく冷たい雨を降らせ続ける。骨の髄まで染み込むようなその雨は、人の気力すら奪い去る。

――だが、この雨の裏側で、世界は確実に動いていた。

灰色の空の下、冷たい雨に打たれる 基隆(キールン) 港の第七埠頭。

黒塗りの傘を差した父、和也。そして僕、 新城康政(しんじょう やすまさ) と 瑞月(みづき) は、内地へ向かう大型客船のタラップの前に立っていた。その視線の先には、豪奢な毛皮の外套に身を包んだ 翠玲(スイレイ) と、彼女の背後を固める二人の影がある。

一人は、 阿長(あちょう) の右腕とも言える屈強な大男。

そしてもう一人は、翠玲の身の回りの世話をする侍女のふりをしながらも、その所作に一切の隙がない鋭い眼光の女性 燕(エン) だ。

父・和也が一歩前に出て、静かに口を開いた。

「翠玲。命を預ける仕事だ。だが同時に、お前ならばやり遂げられるとも思っている」

短い言葉だったが、その声音には、信頼と覚悟の両方が込められていた。

僕はそれを受けて、静かに言葉を継いだ。

「翠玲さん。あなたの命と、その鞄の中にある瑞長財団の『全資産』を守るため、阿長が最も信頼する二人の精鋭を護衛につけました。男の目が行き届かないホテルや立会場の控室、あるいは化粧室に至るまで、燕が君の影となって守り抜くと思います」

「ありがとうございます、若様。この二人がいれば、東京の相場師どもが束になって脅しに来ても撥ね除けられます」

翠玲は頼もしげに護衛たちを振り返り、そして僕に向き直った。

「ですが、本当に私に東京の相場を 捌(さば) き切れるでしょうか。今や内地は、誰もが 借金(レバレッジ) をして株を買い漁る異常な加熱景気です」

「大丈夫だよ。翠玲さんの頭脳と、これまで僕たちが組んできた相場表の通りに動けばいい」

僕は傘の柄を握り直し、彼女を真っ直ぐに見上げた。

「年が明けた一月中旬、僕が電信で『 引鉄(ひきがね) 』の合図を送る。その瞬間に、手持ちの株をすべて市場の最高値で売り抜け、即座に『延白(のべしろ・信用取引での空売り)』の 建玉(ポジション) を限界まで積み上げるんだ」

「はい。市場が一番熱狂している瞬間に、完全に 梯子(はしご) を外すのですね」

「その通りだ。頼んだよ、翠玲さん。東京の狂乱を、僕達の次なる資本に変えてほしい」

和也が、最後に静かに言葉を落とした。

「生きて戻れ。それだけでいい」

その一言に、翠玲の表情がわずかに引き締まる。

数秒の沈黙。

そして彼女は、深く一礼した。

「……必ずや」

重厚な汽笛が鳴り響く。

翠玲は二人の護衛に守られながらタラップを上っていった。彼女の乗った船が鉛色の海へと消えていくのを、僕たちは雨音の中でいつまでも見送っていた。

弾薬はすでに装填され、引鉄が引かれるのを待っている。

数日後。明治四十年(一九〇七年)、一月初旬

新城家の屋敷は、外の冷たい冬雨とは打って変わり、暖かく穏やかな遅めの正月の空気に包まれていた。

「康政、和也さん。お雑煮ができましたよ。お餅が柔らかいうちにどうぞ」

食堂には、母・ 和子(かずこ) が朝から丹精込めて準備した内地風の 御節(おせち) 料理と、鰹出汁の香るお雑煮が並べられていた。部屋の隅では、真鍮製の大きな火鉢の中で真っ赤な炭がパチパチとはぜており、冷え切った空気を優しく溶かしている。

「ああ、やはり和子の雑煮を食べないと、年を越した気がしないな」

父さんが相好を崩し、餅を頬張る。

「奥様、こちらの厨房で用意した『 四神湯(スーシェンタン) 』もいかがですか? 豚のモツと漢方をじっくり煮込んだ、台湾で冬に体を温める薬膳スープです」

リンが、湯気を立てる土鍋を恭しくテーブルに置いた。内地の伝統と、台湾の実用的な温もりが交差する食卓。

「ありがとう、リンさん。とても美味しそうね。康政、あなたもたくさん食べて、風邪を引かないようにね」

和子が僕の椀にお雑煮を取り分けてくれる。その手は温かく、火鉢の熱気に染まった母の微笑みは、僕がこの時代で唯一「ただの子供」に戻れる絶対的な聖域だった。

だが、その温もりを噛み締める一方で、僕の脳裏には常に「秒刻みで変動する狂乱の数字」が張り付いていた。

食事が終わり、和子が奥の部屋へ下がったのを見計らい、僕と父さんは無言で立ち上がった。休息の時間は終わりだ。向かう先は、屋敷の奥深くにある冷え切った部屋である。

分厚いレンガに囲まれた窓のない部屋には、石炭ストーブが一つ置かれているだけで、吐く息は白い。

そこには既に、瑞月、霧島誠一郎、そして阿長、リンが待機していた。机の上には、 大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ) の海底ケーブル網を経由して届いたばかりの、東京とロンドン、そしてニューヨークからの暗号電報が山のように積まれている。

「若様。東京の翠玲から定時連絡です」

リンが、暗号表を片手に電報を解読しながら読み上げた。

「『東京市場、本日モ全面高。東京電燈、帝国鉄道トモニ新高値ヲ更新。市場ハ強気一色ナリ。指示ヲ待ツ』……とのことです」

「馬鹿な連中だ。まだ永遠に上がるとでも思い込んでいる」

霧島が、ストーブの火に手をかざしながら冷笑した。

「若様。海外市場での法的な手続きも、国際金融のルールに則り、完璧に完了しています。長崎から上海、香港を抜け、インド洋を経てロンドンへ至る巨大な海底電信網。これを利用し、我々が正式に買収したロンドンとニューヨークの投資法人の口座に、莫大な 証拠金(マージン) を振り分けました」

僕が霧島に指示した「海外市場とのやり取り」の真髄は、大英帝国が敷いた国際金融のルールを最大限に利用した合法的な空売りである。

「ご苦労様、霧島さん。ロンドンとニューヨークの市場に上場している『日本関連の公債や株式』を、イギリスの証券会社を通じて外側から徹底的に空売りする。国際金融市場における正規の取引であれば、日本の大蔵省も一切手出しはできない」

「お見事な実務です。ロンドンの投資家たちは、日本の加熱景気がまだ続くと信じて『買い』の注文を出しています。我々は、その真逆を行くわけですね」

霧島が、銀縁の眼鏡の奥で鋭い光を放った。

「海外で得た莫大な利益は、どうやって台湾へ戻すのです? ドルやポンドを日本の銀行で円に換えれば、莫大な手数料と為替リスクが生じます」

瑞月が、経営者としての冷徹な視点で尋ねた。

「台湾には戻さないよ、瑞月姉さん。金庫の中で眠る現金は、ただの『死に金』だ」

僕は、壁に貼られた基隆の工廠の図面と八田さんの事業計画書、その横にある二階堂(内燃機関)や牧野博士(化学)が提出した膨大な要望書を指差した。

「ロンドンとニューヨークで得た莫大な外貨は、そのまま現地での『特許と技術の買い付け』に使います。機械部品は分解して 模倣(リバースエンジニアリング) できても、最上級の『特殊鋼』だけは、配合比率や熱処理の製法を知らなければ絶対に作れないからね」

部屋の空気が、一段と熱を帯びた。

「だからこそ、イギリスのヴィッカース社やアームストロング社から、特殊鋼の『製造特許権』と『詳細な図面』を丸ごと正規の価格で買い取る。さらに、最新式の電気炉を買い付け、その製法を読み解いて実際に炉を動かせる本場の『 冶金(やきん) 技術者』たちを、家族ごと破格の給金で台湾へ引き抜くんだ」

図面も、設備も、それを作る人間(頭脳)も、すべて莫大な外貨で合法的に買い叩く。

「買い付けた特許権と設備は、商会のSSコンテナに詰め込み、海路で物理的に基隆の巨大工廠へ移送する。莫大な金融資産を『製造技術そのもの』に変換して移植する。これこそが、商会の工廠を一気に世界最高水準へと引き上げる究極の実務だ」

電信の速度を利用した世界規模の空売りと、外貨をそのまま最先端技術へと変える「ライセンス生産」のロジスティクス。九歳の子供が組み立てたとは到底思えない、国家の経済すら手玉に取る悪魔的な実務の全貌が、そこにあった。

「康政。引鉄を引くのは、いつだ」

父さんが、低い声で尋ねた。

「一月の中旬です。東京の投資家たちが、正月の熱狂から覚めず、最も無防備に 借金(レバレッジ) を膨らませたその瞬間。我々が、世界市場の息の根を止めます」

外では、冷たく重い冬雨が、容赦なく台湾の大地を叩き続けている。

数日後、この冷たい雨よりもはるかに残酷な『暴落の嵐』が、日本経済を襲うことになる。瑞長財団という怪物が、世界の富と最先端技術を貪り喰うための、最初の準備が整ったのだ。