作品タイトル不明
第1話:特許の山 泥に塗れた設計図
明治三十八年(一九〇五年)、九月。
アメリカの軍港ポーツマスで結ばれた日露講和条約の報せは、大日本帝国に戦勝の歓喜ではなく、血を吐くような怒りと絶望をもたらしていた。
未曾有の犠牲を払いながら、ロシアからの賠償金は一銭も得られない。その事実に激昂した民衆は帝都で暴徒と化し、内務大臣官邸や警察署、御用新聞社を次々と焼き討ちにした。『日比谷焼打事件』である。
そして晩秋。戒厳令が敷かれた帝都の焦げ臭い熱気は、海を隔てたここ台湾・台北にも、目に見えない重圧としてのしかかってきていた。
台北尋常小学校の放課後。
ガジュマルの木陰で、 橘響子(たちばなきょうこ) は周囲の子供たちに聞こえないよう声を潜め、手帳のページを捲っていた。
「康政くん。 大河内(おおこうち) くんのお父様のところに、最近『三井』の人間が頻繁に出入りしているそうよ。彼、高価な舶来品の万年筆をもらったって自慢していたわ」
響子の瞳には、九歳の少女とは思えない冷徹な分析家の光が宿っている。
「それに、 御子柴(みこしば) くんのお父様、軍の将校さまも、家で酷く機嫌が悪いらしいの。軍医局の石頭たちが『民間の特許を国が接収する法案』を裏で進めているって」
「なるほど」僕は感心して頷いた。
「叔父さんからの手紙にも、内地で『薬の製造権を国策として管理する』よう推し進める派閥の動きが書かれていたわ。これらを繋ぎ合わせれば、答えは一つよ」
響子は手帳をパタンと閉じた。
「日比谷の暴動を見ても分かる通り、今の政府は民衆の怒りを逸らすための『分かりやすい国益』か、それとも枯渇した国庫を潤す『巨大な財源』を喉から手が出るほど欲しがっている。内地の巨大財閥はそこにつけ込んで、政府と軍を裏から操り、商会の権利を『国策』という大義名分で奪い取ろうとしているのよ」
九歳の少女が、クラスメイトの他愛ない自慢話や愚痴から導き出した、あまりにも正確で恐ろしい国家レベルの諜報分析だった。
「見事な分析です、響子さん。御子柴くんたちが親の動向をこぼしてくれるのも、君が上手く誘導してくれているおかげですね」
校庭では、体格の良くなった御子柴烈が下級生に柔術を教え、大河内龍之介は相変わらず高級な筆記具を自慢し、 久世景秀(くぜかげひで) がそれを薄笑いで眺めている。彼らとの日常は、今や親たちの権力構造を透かし見るための、高度な盤面へと昇華していた。
「標的になるのは織り込み済みです。むしろ、彼らが焦って網に首を突っ込んでくるのを、ずっと待っていたんですから」
僕は立ち上がり、響子に短く礼を言って学校を後にした。向かうべきは、戦場となる商会の会議室だ。
その日の夕刻。 大稲埕(だいとうてい) にある瑞長商会本部の奥、厳重に施錠された執務室。
部屋の中には、異常な速度で弾かれる算盤の音と、重苦しい沈黙が同居していた。
「 瑞月(みずき) 様。内地の巨大財閥から提示された『ペニシリン製造・工程貸与権利』の契約一時金、すべて出揃いましたわ」
番頭の 黄翠玲(ホアンスイレイ) が、弾き終えた算盤から顔を上げ、実務家としての鋭い目を細めた。
「提示された金額はもはや一私企業が抱え込める規模ではありません。国家予算の数パーセントに匹敵する、正真正銘の『巨富』です。これをそのまま利益として計上すれば、税務署どころか軍の憲兵が難癖をつけて乗り込んできますわよ」
「ええ。内地のきな臭い動きは、こちらの耳にも入っているわ」
連日の過酷な交渉の最前線に立ち、財閥の老獪な資本家たちを手玉に取ってきた瑞月姉さんが、疲労の色を微かに滲ませながらソファに深く腰掛けた。
「政府も軍も、戦争で金庫が空っぽなのよ。そこにこれほどの巨富を持った台湾の民間企業がいれば、彼らは『国家の危急存亡』を大義名分にして、必ずすべてを奪いに来る。和也様の仰った通り、いよいよあの『盾』を使う時が来たようね」
瑞月と翠玲の視線が、九歳の僕へと集まる。
僕は机の上に、あらかじめ用意してあった分厚い設立趣意書を広げた。
「商会を『営利』と『公益』に切り離しましょう。特許料として得た莫大な資金はすべて、新設する『瑞長財団』へと移転させます。これは単なる寄付や慈善事業ではありません。この莫大な資金を、軍や財閥がいかなる大義名分を用いても手出しできない『公共の 基盤(インフラ) と教育』という絶対的な聖域に変換するための、強固な防壁です」
僕の提案に、瑞月は力強く頷いた。
「分かったわ。すぐに後藤長官に面会を申し入れましょう。総督府の強力な後ろ盾がなければ、この財団は設立できないのだから」
数日後。僕と瑞月姉さんは、豪奢な馬車に揺られ、台湾総督府の重厚な石造りの建物を訪れていた。
あらかじめアポイントメントを取っていた民政長官室の扉を開けると、そこには濃密な葉巻の煙と共に、ひどく剣呑な空気が立ち込めていた。
「ですから長官! このまま武力で彼らを鎮圧すれば、台湾全土が血の海になります! 彼らは決して生まれついての凶暴な反逆者ではないのです!」
長官の執務机の前に立ち、泥だらけの作業服姿で声を荒げている青年がいた。
かつて台北の都市計画で僕の手足となり、すでに台湾の土木界で異彩を放っている主任技師、 八田與一(はったよいち) だった。この若き実務家は、血走った目で後藤長官に食ってかかっている。
「おお、瑞長商会か。待たせたな、入れ」
後藤は深く椅子に腰掛けたまま、不機嫌そうに顎をしゃくった。
「やれやれ。和也の奴が東京で派手に暴れ回っているおかげで内地の連中も五月蝿いが、この島でも厄介事が絶えん。地方の現地民どもが、徒党を組んで武装蜂起の準備を進めているという報告が上がってきてな。軍はすぐに部隊を派遣して『掃除』をするべきだと息巻いている」
「暴動の火種を作ったのは、総督府の政策ではありませんか!」
八田が、軍の武力行使に激しく噛み付いた。
「長官が推し進めた『土地調査事業』と『林野の接収』のせいです! 所有権の曖昧だった先祖伝来の土地を国に奪われ、 樟脳(しょうのう) などの専売制によって山での働き口すら失った。彼らは絶望して、生きていくために武器を取るしかなかったんです!」
史実において、この時期の台湾の武装蜂起の多くは、単なる抗日運動というより、近代化政策によって急激に生活基盤を奪われた現地民たちの「生存を賭けた経済的絶望」が根底にあった。八田は現場で泥に塗れて測量を行い、現地民たちと直接対話を重ねてきたからこそ、その痛切な事情を誰よりも理解していた。
「分かっている。私とて、血は流したくない」
後藤は葉巻を灰皿に押し付け、重い息を吐いた。
「だが、彼らに返す土地も、与える仕事もない。ならば統治者として、反乱分子は力で叩き潰すしか道はないのだ。八田、お前が数日徹夜して書き上げたというその『夢物語』の図面、心意気は買うが、現実を見ろ」
後藤の視線の先には、長机いっぱいに広げられた巨大な設計図面があった。
「台湾南部の荒野を、東洋一の穀倉地帯に変えるための超大規模治水計画だと? ダムを造り、何千キロにも及ぶ水路を引く。素晴らしい計画だ。だがな、今の総督府にそんな天文学的な土木工事を行う予算は、逆さに振っても一銭も出んのだ!」
後藤の現実的で非情な宣告に、八田はギリッと唇を噛み締め、悔しそうに図面の上に拳を落とした。
沈黙が落ちる長官室。
僕は瑞月姉さんと短く視線を交わし、静かに口を開いた。
「出せますよ。我々が、その資金の全額を拠出します」
九歳の子供の静かな声が、執務室の空気を一変させた。
後藤長官と八田が、弾かれたようにこちらを振り向く。
瑞月姉さんが優雅な足取りで前に進み出ると、携えていた分厚い書類――『瑞長財団』の設立趣意書を、八田の泥に塗れた設計図の横に静かに置いた。
「後藤長官。内地の財閥から支払われるペニシリンの特許料。その莫大な資金をすべて注ぎ込み、我々は公益のための『瑞長財団』を設立します。その第一号事業として、八田さんの治水事業を全面支援させてください」
瑞月姉さんの言葉を引き継ぐように、僕は後藤を真っ直ぐに見据えて提案を続けた。
「長官。そして、その巨大な土木工事の労働力として、今まさに暴動を企てている現地の若者たちを雇い入れるのです。彼らに銃を捨てさせ、我々の設立する『瑞長塾』で測量や重機の扱いを教え、誇りと高給を与える。絶望した彼らを、この巨大な基盤構築の歯車として組み込むのです。軍を動かして血と金を浪費するより、ずっと確実で、帝国の未来の国益に叶うはずです」
あまりにも冷徹で、そして完璧に計算し尽くされた「民族融和」と「基盤構築」の戦略。
八田與一は驚愕に目を見開き、やがてその目に狂気的な希望の光を宿して僕を見つめた。
後藤長官は、新しい葉巻を取り出してゆっくりと火をつけると、獰猛な肉食獣のようにニヤリと笑った。
「……くくっ、ははは! 相変わらず、お前の頭蓋骨に棲む化け物は底知れんな、康政! 奪われた土地の代わりに、水と金と未来を与えるか!」
後藤が机を叩き、豪快に笑い飛ばす。
「いいだろう! その『瑞長財団』、総督府の全面的な庇護下に置き、絶対に内地の連中には手出しさせんよう強固な防壁を作ってやる。存分に泥に塗れてみせろ!」
特許の山を「国家の盾」とし、暴動の火種を「大地の歯車」へと変える。
台湾の未来を決定づける巨大な実務が、今動き出したのだ。