軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第31話:国難の足音と、恵みの輸送船団

大正七(一九一八)年、六月。

モスクワ。重厚な石造りのクレムリン宮殿の奥深く。執務机に無造作に投げ出された数枚の 電信(でんしん) の紙片を前に、革命政府の首脳たちは重苦しい沈黙に包まれていた。

「消えた、だと。皇帝一家の全員が、あの悪路の中で 忽然(こつぜん) と消え失せたというのか」

ウラジーミル・レーニンが、苛立ちに満ちた声で低い唸りを上げた。その鋭い眼光は、傍らに立つヤーコフ・スヴェルドロフを射抜いている。

「監視の兵士たちは泥酔して眠りこけ、屋敷に残されていたのは空の木箱だけであったと報告が上がっております。何者かが周到な準備のもと、川舟を使って彼らを連れ去ったものと……」

「馬鹿な。今のシベリアは陸路が完全に絶たれているのだぞ。モスクワからの目すら届かぬあの 泥濘(ぬかるみ) の中で、数十人の武装兵を無力化し、一国の君主を無傷で運び出せる組織など、この世に存在するものか」

レーニンは拳で机を激しく叩いた。

反革命の白軍が、もし「生きた皇帝」を旗印に掲げれば、立ち上がりかけた革命の炎は容易く吹き飛んでしまう。権力者たちの背筋を、得体の知れない冷や汗が伝い落ちていた。

「国境を封鎖せよ。極東から欧州まで、すべての鉄道と港湾を洗い直せ。血眼になって探し出すのだ。なにがなんでも、見つけ出さねばならん」

世界を揺るがす大国の頂点に立つ男たちが、極東の一財団が仕掛けた鮮やかな手口の前に、深い 狼狽(ろうばい) と混乱の淵に立たされていた。

南国特有の強烈な太陽が、台湾・基隆港の海面を白く照らし出している。

照りつける陽光と濃密な潮風の中、ウラジオストクを経由してきた一隻の貨物船から、二十数名のロシア人男女が音もなく 舷梯(げんてい) を降りてきた。

彼らはトボリスクの川舟で皇帝一家の命を繋いだ、運送組合の元締とその腹心たちの家族であった。極寒のシベリアから一転、見知らぬ南国の熱気に戸惑う彼らの前に、 漆黒(しっこく) の詰襟を着た長身の男が進み出る。

「長旅、 大儀(たいぎ) でありました。よくぞ無事に辿り着かれた」

阿長は深々と一礼し、傍らの通訳を介して落ち着いた声で告げた。

「理事の意向により、あなた方の生活と安全は我々瑞長財団が請け負う。港の近くに、家族が安心して暮らせる区画をすでに用意してある」

元締の男が、信じられないというように目を見開き、震える手で胸元に十字を切る。

「だが、我々はただあなた方を保護するつもりはない」

阿長の声は、同情や哀れみを含まない。組織を束ねる者としての、毅然たる響きを帯びていた。

「その 逞(たくま) しい腕と、極北の川と土を知り尽くした荷捌きの知識を、我々は高く買いたい。言葉の壁は通訳を付けるゆえ、あなた達にはこの港にある長大な倉庫を一つ、班として丸ごと任せたいのだ」

「……俺たちに、ここで仕事を任せてくれると言うのか」

「左様。最初に手掛けてもらうのは、内地の危機を救うための大量の米の積み込みだ」

ただ施しを受けるのではなく、己の腕と知識が異国で正当に評価された。その事実が、労働者としての彼らの誇りを力強く蘇らせた。

元締たちは涙を乱暴に拭い、太い腕を振り上げて深く頷く。極北の凍土で培われた彼らの屈強な肉体が、新たな故郷となった南国の港で、力強い労働の汗を流し始めた。

同じ頃、帝都・東京。

初夏の湿気が肌にまとわりつく芝の料亭。静かな奥座敷で、新城和也は軍部の重鎮である児玉源太郎と対峙していた。

庭先の 蹲(つくばい) から水が溢れ落ちる音が、部屋に満ちる煙草の煙の奥で微かに響いている。

「シベリアへの大動員は、もはや避けられん」

児玉が低く 掠(かす) れた声で切り出した。その深い皺に刻まれた瞳には、拭いきれぬ疲労と 憂慮(ゆうりょ) が滲んでいる。

「血気盛んな連中は北の大地へ旗を立てたがっているが、何万もの兵を送れば、いずれ凍てつく原野に足を取られる。日露の戦で凍土の恐ろしさを知らぬ者たちが、無謀な進軍を叫んでおるのだ」

和也は表情を崩さず、手元の盃をそっと置いた。

「我が財団はかつて、かの国へ医療や物資の支援を行い、極寒の地を往く物流の 知見(ちけん) と経験を蓄積してまいりました。軍の 輜重(しちょう) だけでは補いきれぬ兵站を、我々が全面的に引き受けましょう」

和也は背筋を正し、老将の目を見据える。

「我々が物資の供給線を握るということは、すなわち『兵站の限界が進軍の限界』となることを意味します。無謀な突出を裏から縛り、しかるべき時期に軍を引かせるための手綱として、我々の物流をお使いください」

軍部の暴走を現実の兵站で縛り、被害が広がる前に早期撤退へと誘導する。その意図を正確に読み取った児玉は、小さく鼻を鳴らし、口元に微かな笑みを浮かべた。

数日後。和也は帝都の重厚な洋館の一室に、三井や三菱といった国内の財閥首脳陣を一堂に集めていた。

窓の外の街角からは、シベリア出兵を見越した商人たちの買い占めによる、米価高騰への怒声が微かに聞こえてくる。民衆の怒りが、今にも打ちこわしとなって爆発しそうであった。

首脳陣も対応に苦慮し、部屋の空気は重く張り詰めている。その中心で、和也はおもむろに口を開いた。

「皆様、市中の混乱についてはご安心いただきたい。すでに我が財団の輸送船団が、各港で荷下ろしを開始しております」

「輸送船団、だと」

「はい。数年前から台湾に投じた資本が実を結び、かつてない規模で収穫された台湾米が、内地へなだれ込みます。数日のうちに、市場の米価は適正な値まで下落いたしましょう」

暴動を未然に防ぐ途方もない物量に、重役たちは息を呑んだ。だが、和也の眼差しはさらにその先を見据えていた。

「そして今日、皆様にお集まりいただいたのは、次なる本当の国難に立ち向かうためです」

和也は懐から数枚の紙片を取り出し、卓の中央へ静かに広げた。

「欧州から、見えざる病魔が迫っております。高熱と激しい脱水症状により、数え切れぬ命を奪う恐るべき 疫病(えきびょう) です。これは、我が財団の医師が長年の研究の末に導き出した『生理食塩水』と、飲むことで命を繋ぐ『経口補水のための処方箋』に御座います」

和也は部屋を見渡し、低く、しかし力強い声で告げた。

「この調合のすべてをお渡しします」

重役たちの間に、驚きと戸惑いのざわめきが走る。

「皆様方の持つ工場を昼夜を分かたず総力を挙げて稼働させ、共にこの国を救う防波堤となっていただきたい。かかった費用と相応の利益は、正当に分かち合いましょう」

類まれな先見の明を見せつけた上で、決して敵対せず、惜しみなく利益を分け与えて強固な味方へと引き込む。その 深謀遠慮(しんぼうえんりょ) に、財閥の総帥たちは顔を見合わせ、やがて誰からともなく和也へ向けて深く首を垂れた。

翌日の帝都の街角で、財団傘下の『極東公論』の号外が次々と宙を舞った。

『瑞長財団の台湾米、内地を救う』

『国内財閥一致団結、新たなる疫病網の構築へ』

二つの特大の報せを記した紙面を奪い合う群衆の熱気は、暴動寸前だった怒りを一瞬にして安堵と熱狂の歓声に変えていく。

米価の安定、長大な兵站網の構築、そして疫病に対する国を挙げた医療網の展開。

瑞長財団は、名実ともに「帝国の命綱」として、民衆から政財界に至るまで比類なき支持を集める存在となっていた。

和也の執務室の机には、目前に迫る貴族院選挙に向け、政財界の有力者たちからの推薦状が山のように積まれている。

窓から歓喜に沸く街を見下ろしながら、和也は黙って煙草の煙を吐き出し、表舞台の頂点へと続く階段を真っ直ぐに見据えていた。