軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第26話:帝都の密約と、凍土への出立

大正七(一九一八)年、一月二十日。

開け放たれた窓から、冬の湿気を帯びた海風が吹き込む。机上に広げられた分厚い白地図の端が、風に煽られて微かに音を立てた。

台湾の執務室。康政の視線は、広大なロシア領土に打たれた一つの点、西シベリアのトボリスクという地名に落ちていた。

彼の脳裏には、まだ誰も知らない恐ろしい記憶が焼き付いている。

一九一八年の夏。ウラルの工業都市エカテリンブルク。イパチェフ館と呼ばれる館の暗い地下室。無数の銃弾が壁を穿ち、歴史ある帝室の命が 理不尽(りふじん) に途絶える、あの 凄惨(せいさん) な光景。

康政の指先が、地図上のトボリスクからエカテリンブルクへと伸びる線の上で止まる。夏が来れば、彼らはそこへ移送される。一度その街に入れば、いかなる手を尽くそうとも、歴史の濁流から彼らをすくい上げることは叶わない。

窓の外で、港湾の 喧騒(けんそう) が遠く響いている。

季節は冬。ロシアの広大な大地は今、極寒の雪と氷に閉ざされている。だが、康政が見据えているのは、その後に訪れる短い季節だ。

「……春の 泥濘(ぬかるみ) だけが、唯一の活路だ」

雪解けの泥が陸路を麻痺させ、モスクワの監視すら行き届かない「陸の 孤島(ことう) 」となるトボリスク。

康政は地図をなぞっていた指を、北へと向ける。トボリスクから連なるイルティシュ川、そしてオビ川。厚い氷が割、雪解け水が猛烈な勢いで北極海へと注ぎ込む大河。

これこそが、針の穴を通すような唯一の脱出経路。康政は目を閉じ、遠く凍てつく大地へと思いを馳せた。

同時刻、帝都。

芝の小高い丘に建つ料亭の奥座敷は、微かな香の匂いに満ちていた。庭先の 手水鉢(ちょうずばち) から落ちる水音だけが、静寂を際立たせている。

和也は行儀よく正座し、目の前に座る二人の男と対峙していた。

伊藤博文と児玉源太郎。大日本帝国の行く末を担う 元勲(げんくん) たちは、和也の静かな語り口に、瞬き一つせずに耳を傾けていた。

「独自に張り巡らせた情報網から、一つの事実が浮かび上がってまいりました」

和也の声は淡々としていた。感情の起伏を見せず、ただ冷徹な事実だけを卓上に並べる。

「現在の革命政府は、遅くとも今年の夏までに、トボリスクに留め置かれている皇帝一家をウラル方面へ移送する 腹積(はらづも) りのようです。……そこが、彼らの最期の地となります」

伊藤が手元の茶碗をゆっくりと置いた。その深い皺に刻まれた目が、和也の真意を探るように細められる。九年前、ハルビンの駅で新城の力に命を救われた老政治家は、和也がもたらす情報の重さを誰よりも知っていた。

「夏までに、か。時間は残されていないな」

「はい。ですが、春には雪解けの土が陸の交通を麻痺させます。モスクワの目も届きませぬ。動くなら、川の氷が割れるその瞬間です」

児玉が顎をさすりながら、鋭い視線を向けた。

「その隙を突き、川を下る。そういう寸法か」

「御意に御座います」

和也は深く頭を下げた。そこに誇張や気負いはない。ただの実務の報告のように、淡々と続ける。

「救い出した一家の身柄は、将来の帝国にとって、極めて重い『外交の札』となり得ましょう。同盟国であるイギリスへ恩を売るため。あるいは、帝国の極東政策における新たな選択肢として」

和也はそれ以上踏み込まなかった。国家を樹立するだの、軍を動かすだのといった不遜な言葉は口にしない。ただ、日本政府が将来握るべき強大な札を、財団が手に入れてくるという事実のみを提示した。

伊藤と児玉の間に、言葉を介さない視線が交わされる。

長きにわたり、互いの命と 矜持(きょうじ) を懸けて国難を乗り越えてきた者同士の、静かな暗黙の了解。財団が再び、誰にも知られることなく、この国のために重荷を背負おうとしている。

伊藤は短く息を吐き、ゆっくりと頷いた。

「汚れ役を被るのは、また君たちか」

「我々の性に合っておりますゆえ」

和也の微かな微笑みに、児玉が鼻を鳴らして笑った。

「よかろう。外務省と海軍のしかるべき部署には、こちらからそれとなく網を張っておく。表沙汰にはできんが、港の風通しくらいは良くしておこう」

和也は畳に手をつき、深く一礼した。部屋には再び、手水鉢の水音だけがかすかに響き始めた。

数日後、台湾総督府。

重厚な執務机越しに、康政は台湾総督である乃木希典と向き合っていた。乃木は背筋を真っ直ぐに伸ばし、康政の語る計画の全容を、厳しい表情のまま聞き終えた。

「没落したとはいえ、一国の君主とその幼き子らを見殺しにするは、武士の道に 悖(もと) る」

乃木の声には、揺るぎない信念が宿っていた。かつて戦場で多くの血を流し、康政たちに救われた命。その義理と、人としての純粋な 義憤(ぎふん) が、乃木の心を動かしていた。

「この台湾の地は、私が責任を持って押さえる。いかなる干渉も撥ね退け、彼らの安らぎの場を用意しよう」

乃木の力強い言葉に、康政は深く頭を下げた。 権謀術数(けんぼうじゅっすう) ではなく、ただ純粋な「義」の共鳴が、そこに存在していた。

総督府を後にし、財団の台湾本部へと戻った康政を、翠玲が落ち着いて迎えた。

「二年前、瑞月様がチュメニの 運送組合(アルテリ) に打たれた布石は、今も強固に機能しております。霧島様が合法的に貸与を受けた駅の倉庫群にも、木材運搬の 隠(かく) れ 蓑(みの) として、すでに川舟用の石炭の備蓄を完了いたしました」

翠玲の声は落ち着き払っていた。二年前の冬、チュメニの雪降る酒場で瑞月が飢えた労働者たちを買い上げ、霧島が皇帝の威光で現地の司令官を沈黙させたあの日の実務。凍土に打ち込まれた楔は、この日のためにひっそりと保たれていたのだ。

「ご苦労さまです。見事な手配ですね」

康政は深く頭を下げ、労いの言葉を口にした。

一月三十日、基隆港。

冬の 潮騒(しおさい) が響く 埠頭(ふとう) から、不凍港である 関東州(かんとうしゅう) の大連を目指す快速船が、音もなく 舫(もやい) を解こうとしていた。

その甲板に立つ高柳少佐の足元には、精巧な外科医療器具と薬品一式が収められた頑丈な革鞄が置かれている。特務班の負傷、あるいは極寒の逃走劇における一家の衰弱や凍傷。そのすべてに対応し、命を繋ぐための重い備えであった。

「前線からの長旅、お疲れ様でした。大隊の引き継ぎは、よろしかったのですか」

背後に音もなく立ち並んだ燕が、控えめに問う。

欧州の戦海で稼働し続ける病院船から、人員交代の輸送船に乗って台湾へ帰還したばかりの高柳は、海風に目を細めて頷いた。

「ああ。優秀な後任に医療部門の指揮を任せてきた。過酷な海だが、彼らが立派に船を守り抜いてくれるだろう」

高柳は足元の革鞄へ視線を落とし、その分厚い革の表面をそっと撫でた。

「それに、二年前の冬宮で私が処置したあの少年の体質は、私が一番よく知っている。極寒の逃走劇となれば、必ず私の手が必要になるはずだ」

皇帝一家を、歴史の濁流には決して呑ませない。口には出さずとも、軍医としての強い矜持が、海風に吹かれる横顔に滲んでいた。

「……春まで、二ヶ月しかありませんね」

高柳の覚悟に、燕はただ黙って頷き、遥か北の空を見据えた。

「ええ。焦る必要はありませんが、立ち止まる余裕もありません」

二ヶ月。それは決してのんびりと待つための猶予ではない。大国の歴史を無傷で書き換えるという途方もない事業の、盤石な土台を組み上げるために必要な、最低限の砂時計だった。

二人は大連から南満州鉄道で北上し、かつての因縁の地・ハルビンへと足を踏み入れた。

九年前の記憶が息づく極寒の街。革命の余波でひどく運行の乱れた駅舎は、難民と兵士たちでごった返していた。

だが、その喧騒の中を、燕はただの地味な旅行者に 擬態(ぎたい) して音もなくすり抜けていく。彼女は行き交うロシアの鉄道委員とすれ違いざまに、視線一つ合わせることなく、相手の分厚い外套のポケットへ莫大な 外貨(がいか) を収めた封筒を滑り込ませた。

わずか数秒の無言の交差。それだけで、彼らを西シベリアへと運ぶ貨物列車の暖房車両が確実に手配される。風景に溶け込み、他者の欲を操る、卓越した諜報員としての洗練された実務だった。

三月。

まだ分厚い氷に覆われた西シベリアの要衝・チュメニの地に、一行の姿があった。

かつて霧島が手に入れた川沿いの巨大な倉庫群。その薄暗い空間の奥には、一隻の蒸気船がひっそりと 係留(けいりゅう) されていた。

船体の塗装は剥げ落ち、無骨な外輪と 煤(すす) けた煙突を持つ、どこにでもある薄汚れた木材運搬船。革命軍の 臨検兵(りんけんへい) が乗り込んできたとしても、ただの労働船にしか見えないよう、徹底した 偽装(ぎそう) が施されている。

だが、船倉の奥へ降りた高柳は、手提げ 洋灯(ランプ) の灯りを頼りに木箱の山を押しのけ、隠された分厚い 隔壁(かくへき) の扉を開いた。

そこに広がっていたのは、外観の粗末さからは想像もつかない空間だった。

床には分厚い 絨毯(じゅうたん) が敷き詰められ、上質な石炭ストーブが柔らかな熱気を放っている。寝台には清潔な白麻のシーツと 羊毛(ようもう) の毛布が整然と積まれていた。極寒の川を二千キロ下る間、衰弱した皇帝一家、とりわけ血友病を患う幼い皇太子を寒さと感染症から守り抜くための、快適性と防寒に特化した「隠し部屋」である。

高柳はストーブの燃焼具合を確かめ、持参した医療鞄を戸棚に収めると、長く息を吐いた。二年前から財団に忠誠を誓う運送組合の男たちも、川舟の機関部を黙々と磨き上げ、いつでも最高出力で回せるよう整備を続けている。

倉庫の外では、燕が手袋を外し、凍てつくイルティシュ川の氷の表面に直接、素手を押し当てていた。

刺すような冷たさの奥から、分厚い氷の下を流れる濁流の微かな 振動(しんどう) が、掌を通して伝わってくる。

「……氷の下の水流が、早くなっています」

白く濁る息を吐きながら、燕はゆっくりと立ち上がった。

彼らはただ黙々と己の役割を果たし、現地の風景へと溶け込んでいた。

歴史のタイムリミットまで、一日も無駄にすることなく布石を点検し、ただその瞬間を待ち構える。

そして、四月初旬。

深夜の静寂を切り裂くように、川の至る所で「みしり」という巨大な地響きが鳴り始めた。

一冬の眠りを終えた大河の氷が、内側からの膨大な水流に耐えきれず、悲鳴を上げ始めたのだ。

高柳が医療鞄の留め金を確かめ、無言で立ち上がった。

燕は懐から、かつて雪の上で光を反射した 燕(つばめ) の形の古い髪飾りを取り出し、髪に挿した。

二年前の冬宮。幼い皇女たちに告げた言葉が、凍てつく空気に蘇る。

『どんなに長く寒い冬でも、ツバメは必ず春に帰ってくる』

汽笛の代わりに、氷の割れる 轟音(ごうおん) がシベリアの空に響き渡る。

数年をかけた周到な準備のすべてが、今、たった一つの目的のために動き出す。

凍土に幽閉された一家を奪還するための、静かなる進撃が始まった。