軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

20.今になって

幼いころの記憶はおぼろげにしか残っていない。

ルシアンはいつも母ユミラと一緒にいた。

父アルバンは広大な公爵領の管理に忙しそうにしていて、食事時に家族三人が揃うこともあまりなかった。

なにより、ユミラはアルバンがルシアンと関わることを嫌がった。

家庭教師はユミラが決めた。

同じくらいの年齢の子どものうち、交流を持ってよい相手もユミラが決めた。

クラヴェル家の者やその親類、親しい相手には近づいてはいけません、とユミラは口を酸っぱくして教えた。

「人には生まれつきの身分とそれにふさわしい生き方があります」

というのがユミラの口癖で、それは信条でもあった。

「公爵家は臣下のうち最上の家格です。あなたは公爵家の一人息子なのだから、いずれ公爵家を継ぐ者として、恥ずかしくないふるまいをせねばなりません」

ルシアンはそんな母の期待を裏切らずに育ったといえる。

年頃の少年が嵌まるような無謀な冒険心にも、節操のない誘惑にも無関係だった。儀礼や領地の経営について学び、馬術や剣術も修めた。

あとから思えばその動機は、ユミラではわからない分野に手を出すことで、アルバンの気を惹きたかったのだ。

アルバンは妻の怒りを恐れルシアンを避けていたが、研鑽を口実にすれば丁寧に教えてくれた。

「父上、グアソンはオーバル湖の南です。都市から物資を運ぶには船がいるのではありませんか」

「ああそうだ。馬だけでなく船も手配しなければならないね。ルシアンはわたしと違って物覚えがいいな」

アルバンは目を細めてルシアンを褒め、ときどきは頭を撫でてくれた。

ユミラにされれば「もうそんな歳じゃない」と拒絶したであろうが、ルシアンは黙ってされるがままになった。

大きな手はぎくしゃくと動き、親子の隔たりを感じさせたけれども、同時にそれを埋めてくれるような気がした。

整った顔立ちと次期公爵という地位とで、社交界に出たルシアンは令嬢たちからもてはやされるようになった。

だがユミラはルシアンに彼女たちとの交際を禁じた。

「ルシアンには王家から妻をいただきましょう。ちょうど年頃の王女殿下がいらっしゃいますもの」

決定事項のように言うユミラに薄ら寒いものを感じたのは、ルシアンが成長した証であっただろう。

「ルシアンにはそれだけの権利があります」

反対をしない父親に倣い、ルシアンも口をつぐみ、これまでと同様に母の決定に任せた。

数年のあいだ、母は王家に働きかけをしていたようだったが――。

「……クラヴェル家との縁談が決まった」

ある日、アルバンは憂鬱そうな面持ちでそう告げた。

「ありえませぬ!! あんな……あんな下賤の家と!!」

ユミラのように悲鳴をあげることはなかったが、ルシアンも表情をこわばらせる程度には衝撃を受けた。

ルシアンには王家から妻を、と繰り返していた母の言葉は、いつのまにか心に刷り込まれ、いまさら伯爵令嬢、おまけに敵の家の娘などと言われては、

(王家は、ド・ブロイ公爵家を軽んじているのではないか……)

そんな疑念が浮かんでもくる。

「もう決まったことだ。公爵家だからこそ、王家の命には逆らえぬ。下の者に示しがつかぬであろう」

「あの家は、いったいどんな無恥な顔をして娘を差し出してくるというのです。伯爵家が! 公爵家に! むこうから辞退するべきでしょう」

「……そうした反目が引き金になったのではないか」

父であり当主であるアルバンの冷静な態度がルシアンをどうにかつなぎとめた。そうでなければユミラとともに激昂していたかもしれない。

「むこうは娘一人だ。くれぐれもそれを忘れてやるなよ」

そう釘を刺されたものの、結局のところルシアンはアルバンの忠告を忘れた。

なぜなら婚礼の式が終わりやってきたマルグリットは、ほとんど荷物もなく、まるで家出娘のような格好をしていたからだ。

(そこまで不満ならば縁談を辞退すればよいものを)

自分たちを棚に上げて、ユミラとルシアンは腹を立てた。

――それが、まさか、その娘に恋をしてしまうとは。

ルシアンには思ってもみなかったことだった。

***

はじめに突き放したのは、マルグリットの態度がド・ブロイ家に取り入ろうとするものだと思い込んだからだ。

だが「わたしもあなたを愛する気はありません」と同じ言葉を返されて、ルシアンは自分の態度が抱える矛盾に気づいた。

愛する気はないと言ったくせに、マルグリットはド・ブロイ家のために動く。

みすぼらしい身なりでみすぼらしい部屋に住みながら、彼女は生活を楽しんでいる。

マルグリットは海が見たいと顔を輝かせる。ユミラが低俗だと言い捨てた小説を読んで、涙を流して感動している。

そんな彼女を見ていたら、今になって、自分にはなにもないのだと気づかされてしまった。

言いつけどおりに生きてきただけで、恋心すら指摘されるまでわからなかった自分。

恋を自覚してなお、どうすればいいのかもわからない。

なのに、頭の中ではマルグリットの笑顔を求めている。

――やっぱりルシアン様は、やさしいお方ですね。

――ルシアン様と結婚できて、わたしはとっても幸せです。

マルグリットの言葉を真実にしてやりたい。

それはついこのあいだ脆くも崩れ去った決意であったが、今やルシアンの願いになっていた。