軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

冒険者の街で、今日もパンを焼いています

家へ戻ると、扉を開けてすぐの所にノラとその父の姿があった。

夜通し待っていたのだろう、二人とも目の下にうっすらと影が落ち、肩には疲れがにじんでいる。それでも、扉が開いた音に気づいた瞬間、はっと顔を上げた。

「リラさん……!」

ノラが駆け寄ってくる。気持ちがまだ整っていないのか、言葉が少し揺れていた。

リラは、ほんの少しだけ口元を緩める。

「大丈夫。オモチも無事だよ」

「きゅ」

オモチは小さく鳴くと、ひょいとノラの肩へ飛び乗り、その頬へすり寄った。柔らかな毛並みが触れた瞬間、ノラの表情が崩れる。張りつめていたものが、一気にほどけたようだった。

「よかった……ほんとに……」

安堵の言葉と一緒に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。隣で見ていた父親も、深く頭を下げる。

それに、リラも静かに頭を下げた。

「ありがとうございました。私たちを待っていてくれて。でも、二人も疲れただろうから、帰って、ちゃんと休んでくださいね」

やわらかくそう告げると、ノラは何度も振り返りながら、それでもようやく足を向けた。父親に促されるようにして、ゆっくりと離れていく。

その背を見送り、リラはそっと扉を閉めた。

外は、すでに空が白み始めている。夜の冷たさがまだ残る中、遠くの空だけが淡く色を変えていた。

長い夜が、終わったのだと実感する。

そのまま玄関へと回り、臨時休業の札を掛ける。張り紙を添えながら、指先に残るわずかな震えが、ようやく静まっていくのを感じていた。

――今日は、無理だ。

そう判断した瞬間、張りつめていた糸がふっと緩む。遅れて、肩の力が抜けた。

二階へ上がり、浴室へ入る。

扉を閉めると、外の気配が遠のいた。湯気がやわらかく空間を満たし、ほのかに温かい湿り気が頬に触れる。魔導具に手をかざせば、浴槽に満ちた湯がわずかに揺れた。

ゆっくりと身を沈める。

温もりが肌を包み、冷えきっていた体の奥まで染みていく。体の力が、少しずつほどけていくのが分かった。

しばらく、何も考えずに呼吸を整える。

静けさの中で、ようやく口を開いた。

「……オモチ」

肩に乗った小さな体へ、そっと視線を向ける。

「これから、どうする?」

言葉を選びながら、続ける。

「前はさ、短絡的な犯行だった。でも今回は違う。組織で動いてる。……まだ仲間がいるかもしれない」

湯の中で、指先がわずかに震える。

その揺れは、冷えのせいではなかった。

「この街にいたら、また危険があるかも」

湯の表面に小さな波紋が広がるのを見つめながら、リラは言葉を選ぶように続けた。

「……出る?」

問いかけは、思っていたよりも静かに落ちた。

オモチはきょとんとした顔でリラを見上げ、それからゆっくりと手を持ち上げ、リラを指さした。

「え?」

もう一度、指す。

今度は少し強く。

さらに、もう一度。じれたように。

「……私?」

問い返すと、オモチは大きく頷いた。

「私がどうしたいかってこと?」

「きゅきっ」

迷いのない肯定。

その真っ直ぐさに、リラはわずかに息を詰める。

「私は……」

言葉が、すぐには出てこない。

湯の中で肩が揺れ、わずかな波紋が広がる。

これまでは、迷うことなんてなかった。オモチが狙われた時点で、その街を離れる。それが当たり前だった。

だって、オモチが――オモチだけが、すべてだったから。

けれど、今は違う。

この街には、他にも大事なものがある。大切なお店があって、大切な人がいて、初めて「帰る場所」と呼べるものができた。

……だから、悩んでいる。

その迷いこそが、きっと答えなのだと、どこかで分かっていた。

「……ここに、居たい」

小さく落とした声が、湯気の中に溶けていく。

次の瞬間だった。

オモチが勢いよく跳び上がり、そのまま頭の上に飛び乗る。

「ごぼぼっ」

思わず湯を飲み、リラはむせた。

「なにするの?!」

「きゅきっ!!」

抗議の言葉を遮るように、オモチが顔へと抱きついてくる。腕でしがみつきながら、忙しなくあちこちを指し示した。

外を指し、家を指し、そしてリラを指す。

そして、そのまま、ぎゅっと抱きついた。

「……オモチも、ここが好きってこと?」

「きゅぃ!」

迷いのない、即答だった。

その勢いに、リラは少しだけ目を細める。

「でも、また狙われるかもよ……?」

問いかける声は、わずかに揺れていた。

「きゅきゅっ」

けれど、オモチはまったく気にした様子もなく、小さな拳を突き出してみせる。ぎゅっと構えたその姿は、どこか誇らしげで、まるで「任せろ」と言っているようだった。

思わず、笑みがこぼれる。

「……強いね」

「きゅ」

得意げに胸を張るその様子に、胸の奥がやわらかくほどけていく。

リラはそっと息を吐き、言葉を重ねた。

「私ね、この街が好きなの」

「きゅい」

短く返る声。

「ここにいてもいいかな?」

問いかけは、確認のようでもあり、願いのようでもあった。

「きゅぅぅぅ」

オモチは頬をふくらませ、満面の笑みを浮かべる。そのまま、ぐいっと顔を寄せてくる。

「オモチ。大好きよ」

「きゅ」

鼻先を合わせる。

自然と、笑みがこぼれた。

気づけば、頬を伝うものがあった。湯気のせいか、それとも――自分でも分からないまま、ただその温かさだけが残った。

風呂から上がると、ようやく二人とも空腹に気づいた。体は軽くなっているのに、腹の奥だけがぽっかりと空いている。

外はすでに朝の光に満ちていた。夜の気配は消え、窓の向こうにはやわらかな明るさが広がっている。

玄関の向こうから、かすかなざわめきが聞こえた。臨時休業に申し訳なさを覚えながら、それでも何か口にしようと一階へ降りる。

そのとき――

裏口が、強く叩かれた。

静まり返っていた店の中に、その音だけがやけに大きく響く。まだ朝の気配が残る時間で、外の光はやわらかく差し込んでいるのに、空気はどこか張りつめていた。

トヨだろうかと考えながら扉を開ける。だが、そこに立っていたのはユリウスだった。

息が白くかすかに揺れる。ここまで走ってきたのだろう、上着はわずかに乱れ、肩で息をしている。普段の落ち着いた佇まいは影を潜め、その代わりに焦りがそのまま表情に浮かんでいた。

朝の光が横から差し込み、少しだけ影を落とす。その中で、ユリウスの視線だけがまっすぐにリラへ向けられていた。

「ごめん」

短くそう言って、息を整える。

「さっきのことが気になって。……もしかして、この街を出るのかと思って」

まっすぐな言葉だった。迷いも、飾りもない。

リラとオモチは、思わず顔を見合わせる。そのわずかな間を、ユリウスは見逃さなかった。

空気が、静かに張りつめる。

「もし、出るなら」

ユリウスは一歩だけ踏み込む。石畳の冷えた空気が、足元から伝わるようだった。

「俺も一緒に行っていいかな。……二人と、これからも一緒にいたい」

その言葉は、驚くほど真っ直ぐで、朝の光の中で、時間が一瞬止まったように感じる。

もう一度、リラとオモチは顔を見合わせる。

短い沈黙。

それから――ふっと、同時に笑った。

迷いがほどけるような、やわらかな笑みだった。

リラはそのまま一歩踏み出す。朝の光の中へ、迷いなく。

そして、ユリウスの胸へ、そっと身を預けた。

「大好きです、ユリウスさん」

まっすぐに、迷いなく。

「きゅい」

オモチも肩の上で小さく鳴き、二人にすり寄る。

その瞬間、張りつめていた空気がほどけ、ゆっくりと日常へと戻っていく。遠くで人の気配が動き始め、朝の匂いが街に広がっていく。変わらない一日が、また始まろうとしていた。

けれど、その中で。

確かに、何かが変わった。

選んだ場所に、選んだ人とともにいるということ。

それが、静かに積み重なっていく。

やがて季節が巡り、冷たい風はやわらぎ、街の空気も少しずつ色を変えていく。

冬の名残がほどけるように消えていき、日差しはやわらかくなり、木々の先に小さな芽がのぞく頃――

フォルネアに春が来た。

夜のあいだに湿った葉と土が息を吐き、石畳をやわらかく包むように広がっていく。

その匂いの中で、リラは今日も窯の前に立っていた。

ぱち、ぱち、と薪がはぜる音が、朝の静かな店内にやわらかく響く。窯の前に立つリラの頬は、火の熱でほんのりと温まっていた。

手に残った粉を払うと、まとめていた赤茶の髪がさらりと肩に落ちる。

軽く指で整えながら、焼き加減を確かめるために窯の扉を開けた。

その瞬間、香ばしい匂いがふわりと広がる。焼きたてのパンの香りが、空気に溶けるように店の隅々へと行き渡っていく。

そのまま窓の方へ向かい、販売の準備をしようと手をかけたとき――

軽い重みが、肩に乗った。

「おかえり。配達してきたの?」

「きゅきゅい」

振り返らずとも分かる声に、自然と笑みがこぼれる。オモチは得意げに胸を張り、小さな手に丸めた粘糸を握っていた。

秋に訪れたヴェロスの群れは、そのままこの地に残った。安全を確かめたのか、それともこの土地が気に入ったのかは分からない。

けれど今では、オモチが時折森へ出向き、粘糸と引き換えに豆パンやビスケットを届けるようになっている。

どうやらすっかり気に入られているらしく、戻ってくるたびに満足げな顔をしていた。

友達が増えたことが、嬉しくてたまらないのだろう。

窓を開けると、外にはいつもの顔ぶれが並んでいた。朝の光の中、どこか気の抜けた笑顔が並ぶ。

「よう、リラ」

「おはようー」

「おはようございます。今日はコエル・トプスが手に入ったので、チキンたっぷりサンドもありますよ」

「じゃあそれ!」

「俺もー」

いつも通りのやり取り。焼きたてのパンを手渡しながら、短い会話が行き交う。笑い声と、紙袋の擦れる音と、パンの香ばしい匂いが、朝の空気にゆっくりと溶けていく。

そのとき、背後から足音が近づく。

気づけば、腰にそっと手が添えられていた。

「俺も行ってくるね。今日は早く帰れると思う」

「はい、行ってらっしゃい。気を付けて」

振り返らなくても分かる声に、自然と返す。何気ないやり取り。けれど、その距離はもう迷いのないものだった。

ふと横目に入る、銀色の髪。少しだけ伸びたそれが、朝日に触れてやわらかく揺らめく。その光景を、リラは何気なく、けれど確かに目に焼きつけた。

窓の向こうでは、人の流れがゆっくりと動き始めている。開き始めた店の扉、交わされる挨拶、どこかで鳴る小さな笑い声。朝の光は少しずつ強さを増し、街は静かに、今日という一日へと移り変わっていく。

リラとオモチは、この街に来て店を出した。

その選択が正しかったのかどうかなんて、きっとこれからも分からない。

でも。

今日もパンが焼けて、

誰かがそれを手に取って、

無事に一日が終わる。

そして、大切な人に「おかえり」と言える。

それだけで、十分だと思えた。

窓の向こうから、風がふわりと入り込む。焼きたてのパンの香りを乗せて、街の奥へと流れていく。

その先にも、きっと誰かの日常がある。

リラは小さく息をつき、もう一度窯へと向き直った。

隣で、オモチが「きゅ」と鳴く。

それに頷くように、そっと微笑んだ。

――ここで、生きていく。

その選択を、今日も重ねていく。

フォルネアの朝は、明日もきっと、パンの匂いから始まる。