軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

帰らない夜と、ひとつの異変

窓際には夕方の光が差し込み、木の床に長く影を伸ばしていた。

扉を閉めたあとの静けさの中で、まだほんのりと温もりを帯びた空気がゆっくりと落ち着いていく。

つい先ほどまで賑わっていた店内は、嘘のように穏やかだ。

棚を整え、売れ残りを確認し、布巾で台を拭く――そんな一つ一つの動きが、いつもの終わりを告げていく。

その“変わらない日常”の中で。

「あっ、オモチ。これ、ノラのところに届けてもらってもいい? 注文票」

店の営業を終え、片づけをしながら明日の仕込みの段取りを確認していたリラは、書き上げた依頼表をひらりと持ち上げた。

最近は冷え込みが増してきたせいか、客からはポタージュ系のスープの注文が続いていた。明後日は白菜のポタージュにしようと決めている。

そのための牛乳やチーズ、小麦――必要なものを書き込んだ依頼表をまとめ、農場に届けてもらう準備を整える。

「きゅきっ」

オモチは軽やかに鳴き、差し出された紙を受け取ると、任せて、とでも言いたげに小さく前足を上げた。

そのままくるりと身を翻し、開け放した窓から外へと飛び出していく。夕方の空気に白い毛並みが溶けるように消えていった。

「ふぅ……さてと。明日の仕込み、しちゃおうかな」

ひと息ついて、気持ちを切り替える。

明日は梨のデニッシュを出す予定だ。デニッシュ生地は手の空いた夕方のうちに仕込んであるから、今は惣菜系の準備を進める。

鶏肉を一口大にそぎ切りにし、甘辛い調味液に漬け込む。朝になれば、香ばしい照り焼きチキンとして焼き上ける予定だ。

そういえば――と、ふと思い出す。

ユリウスは、相変わらず二回に一回は照り焼きチキンパンを買っていく。

飽きないのかな……

他人事ながら少し心配になるが、あの穏やかな顔で「美味しい」と言われると、つい頬を緩めてしまう自分もいる。

そんなことを考えながら手を動かしていると、壁にかけた時計が小さく音を立てた。

思わず顔を上げる。

「……もうこんな時間」

窓の外は、すでに薄暗い。

「いつもなら、オモチはもっと早く帰ってくるのに」

ぽつりと漏らした、その直後だった。

店の裏口が、ばたん、と勢いよく開かれる。

静かな空気が、一瞬で破られた。

驚いて振り返ると、そこには――

息を切らしたノラと、その父親が立っていた。

「リラさんっ!」

駆け込んできた二人は、明らかにただ事ではなかった。ノラの父親は額から血を滲ませ、頬にははっきりと殴られた跡が残っている。

「どうしたんですか?!」

思わず声が強くなる。

駆け寄った瞬間、ノラが手を伸ばし、そのままリラの腕にしがみついた。指が食い込むほど強い力に、わずかに眉が寄る。

震えている。

それだけで、胸の奥がざわついた。

「ごめんなさい! 僕が、僕が……!」

ぼろぼろと涙が零れ落ちる。言葉は途切れ、呼吸も乱れていた。

何があったのか問いかけようとした、その前に。

「そんなこと言ってる場合じゃないだろう!」

父親がノラの肩を引き、叱るように声を上げる。

そして、リラへ向き直った。

「すまない。リラちゃん……オモチが、連れていかれた」

一瞬、全ての音が遠のいた。

「……オモチが?」

言葉だけが、遅れて口から出る。

連れていかれた――その意味が、うまく飲み込めない。

そんなはずはない。

オモチが、そんな簡単に。

それでも、胸の奥がじわりと冷えていく。

ノラの鼻をすする音だけが、静かな店内に響いていた。

「待って、待ってください。オモチがそう簡単に連れていかれるとは思えません。……いったい、何があったんですか?」

声は落ち着いている。

けれど、指先が冷たくなっていくのを感じた。

父親は短く息を吐き、言葉を選ぶように続ける。

「簡潔に話す。秋祭りの時に、ノラがオモチと一緒にいただろう。その頃から目をつけられていたらしい。それ以降、うちに何度もチーズやミルクを買いに来る客がいてな……そのうち、こいつがオモチのことを話しちまった」

ちらりとノラを見る。

目が合った瞬間、さらに涙が溢れた。

「ごめんなさい……僕……ただ、オモチがすごいって、仲良いって言われて……嬉しくて……」

言葉が崩れる。

「メモを運んでくれることとか……言っちゃって……自慢したかっただけなのに……」

――なるほど。

点と点が、繋がる。

ラトリアから戻ってきてから、何度か感じていた視線。すぐに消えたからと気に留めなかったあの違和感――あれは、下見だったのだ。

店では手を出せない。森では捕まえられない。

だから、外で。

子どもを使って、油断を引き出す。

そこまで考えが及んだ瞬間、胸の奥で何かがぎしりと軋んだ。

(……私のせいだ)

一瞬だけ、はっきりと思う。

この街に来て、日々を積み重ねるうちに、どこかで気を抜いていたのかもしれない。先日、魔物の密猟者を一人捕縛したことで、安心してしまった部分もあったのだろう。

その結果が、これだ。

喉の奥がわずかに熱を帯びる。苛立ちと恐怖が、遅れて実感として押し寄せ、じわじわと体の内側を締め付けていく。

――でも。

そこで立ち止まるわけにはいかない。

ぎゅっと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、揺れかけていた思考を無理やり切り替える。

やることは一つだ――そう決めた瞬間、迷いは消えた。

リラはそっと手を伸ばし、ノラの震える手を包み込む。

「大丈夫」

できるだけやわらかく、声を落とす。

「ノラは悪くないよ。教えてくれてありがとう」

顔を上げさせるように、声を落とす。

それから父親へと視線を向ける。

「おじさんも……ありがとうございます。守ろうとしてくれたんですよね」

男は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。

「……ノラを人質にされて。俺にはどうにもできなかった。オモチが自ら付いていってくれたんだ」

「大丈夫です」

はっきりと、言い切る。

「絶対、オモチは取り戻します」

そう言い切ると同時に、リラはもう動き出していた。

ノラたちには一度帰るよう伝えたが、ノラは首を振った。

「ここで待たせてください。オモチが戻ってきたら、すぐ分かるように」

その言葉に、胸の奥がわずかに痛む。

父親もそばに残ると言い、リラは短く頷いた。

「じゃあ……先にお医者さんを呼んできてください。手当てを」

声は落ち着いている。

けれど、内側では時間が削られていく感覚が消えない。

階段を上がる足が、自然と速くなる。

部屋に入り、魔物討伐用の服に着替える。布を結び、装備を整える手つきは迷いなく動くが、指先にはわずかに力が入りすぎていた。

(遅れるな)

頭の中で、何度も同じ言葉が響く。

オモチは今も、居場所を探知できる腕輪をつけている。

棚からプレート型の魔道具を取り出し、起動する。

淡く光が浮かび上がり、方角とおおよその距離が示された。

――動いている。

一定の速度。

馬車。

そう判断できた瞬間、喉の奥がひりつく。

(……まだ間に合う)

そう思おうとする。

年季の入った密猟者なら、すぐに傷つけることはない。価値のある個体ほど、丁寧に扱うはずだ。

理屈では、そう分かっている。

それでも。

胸の奥に居座る恐怖が、じわりと形を持つ。

見えないところで、何かが起きていたら。

間に合わなかったら。

その想像が、わずかに呼吸を乱す。それと同時に、別の感情がせり上がる。

遅れた自分への苛立ち。

見逃した違和感。

守りきれなかった現実。

ぐっと奥歯を噛みしめる。

……取り返す。

剣を腰に下げ、ポーチを固定する。

すべての準備を終えたときには、もう迷いはなかった。

リラはそのまま踵を返し、階段を駆け下りた。

向かう先を考える。

騎士団――。

頭に浮かんで、すぐに消す。

きっと時間がかかる。

使い魔一匹の誘拐で、どこまで優先して動いてくれるか分からない。

手続きの間に、距離は開く。

その“正しさ”が、今はひどく遠く感じた。

……だったら。

向かうべきは――冒険者ギルド。

一階へと駆け降り、そのまま店を飛び出した。

夕暮れが落ちきり、街は夜の気配に包まれている。

石畳には昼の熱がわずかに残りつつも、空気はひやりと冷えていた。

人通りの減った通りを一気に駆け抜け、足音だけが乾いた音を響かせる中、迷いなく進んだ先――勢いのまま扉に手をかけ、石畳を蹴りつけるように踏み込み、重たい扉を押し開けた。

ばん、と乾いた音が響き、室内の視線が一斉にこちらへ向いた。

受付の前には、ちょうど報酬の手続きをしているのだろうか、ダルクたちの姿があった。

扉の音に振り向いた彼らの顔には驚きが浮かび、そのまま状況を測りかねるような視線が向けられる。それでもリラはためらわずその中へ踏み込み、気がつけばユリウスの腕を掴んでいた。

「助けてください」

自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

その一言で空気が変わる。ダルクたちの表情は一瞬で引き締まり、周囲にあったざわめきも、すっと消えていった。

リラは短く、しかし要点を外さずに説明する。言葉は自然と早くなり、途中で一度だけ息が詰まりかけるが、無理やり押し込んで続けた。

それを聞いた受付の職員が顔色を変え、すぐに奥へと駆けていく。

視線を追う間もなく、奥から重い足音が近づいた。

「こっちだ」

やがて奥から現れたギルド長は、状況を一目で察したようにリラを見据え、短く「こっちだ」とだけ告げて奥の部屋を示した。

無駄のない動きと判断に、それでも胸の奥はいまだにジリジリと焦りを抱えていた。

通された部屋でも、リラは椅子に腰を下ろすことなく立ったまま言葉を続けた。座っている余裕など、今の自分にはなかった。

「おそらく相手は馬車で移動しています。できれば、今すぐ馬を使って追いかけたいです」

言い終えると同時に、ギルド長は頷いた。

「馬を用意しろ」

振り返りざまに職員へ指示を飛ばす。

その速さに、わずかに息を吐く。

「おそらくそいつは、先日の“魔物研究員”を名乗ってた連中の仲間だな。取り締まり中に、仲間の存在は吐いてる。狙いにヴェロスが入ってるって話もな」

ギルド長の低い声は感情を挟まず、ただ事実だけを淡々と並べていく。

その内容を聞いた瞬間、リラは奥歯を噛みしめた。やはり――と胸の内で呟く。

越冬のために来るヴェロスは森の中では捕まえにくい。

だからこそ、人に慣れた個体――オモチが狙われたのだ。

理屈としては理解できる。それでも、理解できてしまうからこそ、腹の奥がじわりと冷えていく。

思わず目を閉じると、似たような出来事が過去にもあったことを思い出した。

だからこそ分かっている。やるべきことは一つだと。

――取り戻す。

その思いだけを胸に、リラはゆっくりと視線を上げた。ちょうどそのとき、ダルクが口を開いた。

「でも、どこに行ったか分かるのか?」

「はい。オモチは居場所の分かる腕輪をつけています。おおよその方角と距離は追えます。それを頼りに追いかけます」

言い切ると同時に、ギルド長は短く頷いた。

「なるほどな……うまくいけばアジトも割れるかもしれねぇ。追跡魔道具を持っていけ。騎士団にも連絡を回して、後から追わせる」

淡々とした判断。

正しい。

分かっている。

それでも――

――オモチは、おとりじゃない。

喉まで出かかった言葉を飲み込み、ぐっと奥歯を噛みしめてから、静かに息を吐いた。

騎士団が来るなら助かるのも事実だ。頭では理解している。今は、感情よりも速さだ。

そのとき、肩にそっと手が触れた。

ユリウスだった。

何も言わない。ただそこにいるというだけで、少しだけ呼吸が整う。

「なら、さっさと行くか」

ダルクが口角を上げる。

「リラ、ちゃんと頼って来たな。えらいぞ」

その言葉に、わずかに目を瞬かせる。

返す余裕はなかったけれど、胸の奥に何かが落ちた気がした。

ダルクは追跡魔道具を受け取り、そのままリラの頭をぽんと軽く叩いて部屋を出る。

ロイもセインも、そしてユリウスも、同じように軽く頭に触れていった。

その仕草に、張りつめていた肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。

――一人じゃない。

そう思えた。

外へ出ると、すでに馬が用意されていた。

迷いなく手綱を掴み、鞍に足をかける。

軽く息を吸って、前を向く。

胸の奥で、熱が静かに燃えている。

(待っててね、オモチ)

次の瞬間、馬を走らせた。