作品タイトル不明
帰ってきた場所と、温かな人たち
フォルネアの南門が見えてきたとき、リラは思わず足を止めた。
見慣れた石壁が、ゆるやかに視界の中へ広がっていく。
門の前では、人々がそれぞれの歩幅で行き交い、荷を運ぶ者も、立ち話をする者も、どこか肩の力が抜けている。
胸の奥にあったものが、ゆっくりとほどけていく。
張りつめていたわけでもないのに、気づけば、どこかに力が入っていたのだと気づいた。
「……帰ってきた」
こぼれるように呟くと、肩の上でオモチが小さく鳴いた。
「きゅ」
それを合図にしたように、リラは一歩、前へ踏み出す。
門をくぐる。
石の内側に入った、その瞬間だった。
空気が、ふっと変わる。
森の木々と建物の匂いが混ざったこの街特有の香りがふっと漂う。
どこかの店からは、煮込みのやわらかな香り。
遠くで交わされる聞き慣れた声と、軽い笑い。
ひとつひとつは小さなものなのに、それらが重なって、確かな輪郭を持つ。
フォルネアだ。
そう思った途端、胸の奥にじんわりと温かさが広がった。
リラは、少しだけ歩く速度を上げる。
見慣れた店の看板が、視界の中をゆっくりと流れていく。
そして――
木陰のベーカリー。
扉の前で、足が止まり、そっとドアノブに手をかける。
その瞬間、ほんのわずかに、胸が縮んだ。
ほんの数日離れていただけなのに。
それでも、ここに戻ってきたという事実が、急に現実味を帯びてくる。
もし、明日からお客さんが来なかったらどうしよう。
そんな考えが、かすかに浮かんで、すぐに消えきらずに残る。
鍵を差し込む指先に、ほんの少しだけ迷いが混じった。
けれど――
「お、リラ!」
声は、あっけないほど近くから飛んできた。
振り向くと、常連の男が、いつもの調子で手を上げている。
「なんだ、帰ってきたのか! 待ってたよ」
その言葉は軽くて、気負いもなくて。
だからこそ、まっすぐに胸へ落ちてきた。
さっきまでそこにあった小さな不安が、ほどけるように消えていく。
その声に気づいたのか、通りにいた人たちが次々と顔を向けた。
「やっと戻ったか」
「明日からまた開けるのか?」
「パン、買えるな」
笑い混じりの声が重なって、通りにやわらかく広がる。
特別な言葉は、ひとつもない。
それだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。
リラは思わず笑った。
「ただいま」
言葉は、考えるより先にこぼれていた。
「ああ、おかえり。また店に寄るからな」
軽く手を振る背中を見送りながら、リラは小さく息を吐く。
自然と、頬がゆるんでいた。
そのあとは、店の中へ入り、軽く様子を整える。
棚に手を触れ、布でなぞる。
道具の位置を確かめ、水を流す。
ひとつひとつを戻していくうちに、店の空気がゆっくりと馴染んでくる。
明日の仕込みを頭の中でなぞり、足りないものがないかだけを確認する。
扉を閉めるころには、空はすっかり夜になっていた。
向かったのは、トヨのお店。
暖簾をくぐった瞬間、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
焼いた油の匂いと、出汁のやさしい香り。
「お、帰ってきたのかい」
カウンターの向こうで、トヨが顔を上げた。
「おかえり」
その一言で、肩の力が抜ける。
「ただいま」
「疲れただろ。何食べる?」
いつも通りの声。
それが、少しだけうれしい。
「ふふっ、ずっとトヨさんのご飯が食べたかったんです。これ、頼まれていた買い物です」
袋を手渡すと、トヨは中身を確かめ、満足そうに頷いた。
「いいの持ってきたねぇ」
その声に、ほっと胸がゆるむ。
「きゅう」
オモチが手を上げるように鳴く。
「オモチもおかえり」
トヨが笑いながら頭を撫でると、オモチは満足そうに目を細めた。
そのまま厨房へ飛び、親父さんの肩にひょいと乗る。
強面の顔が、わずかに緩む。
その様子に、リラは小さく手を振った。
「日替わり、いいですか? すごくお腹が空いてて」
「待っときな。すぐ出すよ」
席に座ると、ほどなくして湯気の立つ料理が運ばれてくる。
野菜と豚肉の煮込みが今日のメイン料理だ。
箸を入れて、ひと口。
「……」
思わず、息がこぼれた。
「……美味しい」
ひと口ごとに、温かさが体の奥へゆっくりと広がっていく。
舌に残るやさしい味と一緒に、どこか張っていたものがほどけていくようだった。
言葉にしなくても、体が分かっている。
ここに戻ってきたのだと。
「きゅう」
オモチも煮込みを口に運びながら、満足そうに頬に手を添えている。
その様子に、思わず頬がゆるんだ。
トヨが小さく笑った。
「だろ」
それだけ。
それ以上の言葉はいらない。
リラは静かに息を吐き、もうひと口、料理を口に運んだ。
ふと思い出し、食事の手を止め、頼まれていたものとは別の袋からお土産を取り出す。
「これ、ラトリアのお土産です」
「ほう」
干し栗や菓子を並べると、トヨが興味深そうに覗き込む。
「いい香りだね」
「向こう、すごく賑やかでしたよ。料理も美味しくて」
少しだけ考えてから、続ける。
「……でも、やっぱりトヨさんのご飯が一番です」
「ははっ、そりゃ嬉しいね!」
豪快な笑い声。
けれど、そのやり取りが妙に心地よかった。
そこからは、自然と旅の話になった。
森のこと。
馬車での旅。
市場の喧騒。
トヨは相槌を打ちながら、ときどき短く問いを挟む。
それに答えるうちに、言葉が少しずつ軽くなっていく。
店の灯りが、やわらかく揺れていた。
湯気と一緒に、時間もゆっくり流れていく。
気づけば、自然と笑っていた。
食事を終え、店を出る。
夜のフォルネアは静かで、どこかやさしい。
冷たい空気が頬を撫でるのに、不思議と寒くはなかった。
見慣れた通り。
いつもの灯り。
変わらない夜の気配。
そのとき。
「あ、リラさん?」
後ろから声がかかる。
振り向くと、近所の人がこちらを見ていた。
「帰ってたんだね。待ってたよ」
また同じ言葉。
けれど今度は、静かに、深く胸に落ちてきた。
リラはやわらかく笑う。
「ただいまです」
少しだけ空けていた時間の隙間は、もうどこにも残っていなかった。
ここには、変わらない日常がある。
自分の場所がある。
リラは小さく息を吐いた。
肩の上では、オモチが大きなあくびをしている。
「きゅ」
満足そうに目を細めているその頭を、そっと撫でる。
「帰ってきたね」
その言葉は、静かに自分へも返ってきた。
静かな夜だった。
けれど、胸の奥は、やわらかくあたたかかった。