作品タイトル不明
九歳のまま、置き去りにしたもの
しばらく街道を歩いていると、やがて遠くに街の影が見えてきた。
ゆるやかな丘の向こうに、石造りの城壁が横たわっている。高くはないが、煤けた灰色の壁には、長い年月をそのまま積み重ねてきたような重みがあった。
門の上には、アルヴェイン王国の紋章。
その内側に広がる街を見つめ、リラは足を止めた。
国境都市――グラディス。
ここから来たはずなのに、懐かしいという感情は浮かぶことはなく、ただ、どこか色の薄い街だと感じた。
肩の上で、オモチが小さく鳴く。
「きゅ」
リラはわずかに頷いた。
「……いこうか」
門をくぐった瞬間、街の空気が肌にまとわりついた。
通りは石畳だが、ところどころ欠けている。建物は古く、壁は煤け、窓枠の木も色あせていた。酒場の前では男たちが言い争い、別の通りでは酔っ払いが壁にもたれている。
荒い言葉。低い笑い声。
ルミナールの街とは違う。フォルネアの賑やかさには、明るさと温かさがあった。けれど、ここにはそれがない。
人々の顔に、余裕がないように見える。
少し歩くと、巨大な倉庫街が見えてきた。
石造りの倉庫が並び、木箱や麻袋が積み上がっている。荷を運ぶ男たちが足早に行き交い、役人が帳簿を手に叫ぶように指示を飛ばしていた。
「そっちは北行きだ!」
「こっちは検品まだだ!」
人が休むためではなく、物が流れるための街。
そう思いながら、リラは露店を眺め、値段を聞き、世間話を交わしながら噂を拾っていく。急いでいる様子は見せない。ただの旅人として、街の空気に紛れ込む。
肩の上で、オモチが小さく鳴いた。
「きゅ」
リラはわずかに頷く。
この街には、噂が溢れている。その中にきっと、両親の話もある。
夕方、倉庫街から少し離れた小さな酒場に入った。板張りの扉は半分開き、中から酒と油の匂いが流れてくる。
リラは奥の席に腰を下ろし、簡単な食事と薄い酒を頼んだ。オモチは鞄の中でじっとこちらを見上げていた。
しばらくすると、近くの席の会話が耳に入った。
「そういや知ってるか? 元貴族の夫婦がいるだろ、この街に」
「ああ、キャンベル家だろ」
その名に、リラの指先がわずかに止まる。
視線は皿に落としたまま、静かに耳を澄ます。
「娘が誘拐されたんだってさ」
「それで悪事に巻き込まれて、今は平民落ちだろ」
「気の毒な夫婦だよなぁ」
同情めいた言葉が並ぶ。けれど、その声色は軽かった。遠くの出来事を酒の肴にしているだけだ。
リラは何も言わず、酒を口にする。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
――そういうふうに、語られているのか。
「今は倉庫の仕事してるらしいぞ」
「まぁ、都落ちしたならしっかりと働いてもらわないとなぁ」
げらげらと笑う声が耳に入り、そっと息を吐きだした。
酒を飲み干し、席を立つ。
外へ出ると、夜風が少し冷たい。鞄から這い出したオモチが肩へ上がり、そのまま頬へ身を寄せてきた。
「きゅ?」
「……見つかったね」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
マーガレットの情報通り、両親はこの街にいる。もう、居場所も分かった。
リラはそのまま倉庫街へ足を向けた。
夜でも倉庫は完全には眠らない。灯りのともる建物のあいだを荷車が行き来し、木箱が開けられ、また閉じられていく。
人目につかない場所へ身を寄せ、しばらくその光景を見つめていた。
そして――視線がある一点で止まる。
帳簿を手に、淡々と作業を続ける女性。
顔はほとんど動かず、指先だけが忙しなく動いている。
母だ、とすぐに分かった。
記憶の中の母とは、まるで違っていた。顔には疲れが滲み、立ち姿にも余裕はない。
視線を少し横へ移すと、木箱を抱え、荒い手つきで運んでいる男。誰かに声をかけられるたびに顔をしかめ、短く言葉を返している。
父だった。
リラはしばらく何も言わず、二人を見つめていた。
「きゅ……」
肩の上で、オモチが小さく鳴く。
その声に、ようやく息を吐いた。
やっと見つけた。
会いたかったのかと聞かれると、答えに迷う。それでもこうして二人の姿を見ていると、胸の奥に、九歳のまま取り残された自分がいる気がした。
「……まだ、そんなこと考えてたんだ」
自嘲するように呟く。
近づこうと思えば、すぐにでも行ける距離だった。けれど、その足は動かなかった。
◇
翌朝、リラは再び倉庫街へ足を運んだ。
朝の倉庫はすでに熱を帯びていた。荷馬車から木箱が降ろされ、麻袋を担いだ男たちが行き交い、役人が忙しなく歩き回っている。
その中に、二人の姿がある。
母は検品台の前で、黙々と作業を行う。必要な言葉だけを短く交わし、すぐ作業へ戻る。その視線はまるで何も映してはいないようだった。
一方で、父は違った。
「重すぎるだろこれ」
木箱を下ろし、顔をしかめ、苛立った声を漏らす。
「人手が足りねぇんだよ。なんで俺がこんなことを……」
周囲はほとんど反応しない。慣れているのだろう。父も周囲を気にする様子もなく、ぶつぶつと文句を続けている。
昼の鐘が鳴るころ、作業は一度止まった。
父はその場を離れ、小さな安酒場へ入っていく。
リラは少し迷い、それでも距離を保ったまま後を追った。
通り過ぎるふりをして、そっと中を覗く。
父はすでにカウンターに座っていた。
カウンター近くの窓へと移動し、父の声を拾う。
「一杯くれ」
出された酒をぐいと飲み干し、すぐに話し始める。
「俺の人生はよぉ、ほんと苦労ばっかりだ。娘が誘拐されるなんてなぁ」
声は大きく、よく通った。
「貴族だったのに、全部奪われてよ。俺はほんと可哀想な男だよ」
同情の言葉が飛ぶ。その声に満足したのか、父はまた笑って酒を飲み始めた。
「人生ってのは不公平なんだよ」
杯を置き、ぼそりと零した。
「あいつがいりゃ、俺はもっと上に行けたはずなんだ」
リラの呼吸が、ほんのわずかに止まる。
「計画だってあったのに、いきなり消えやがって」
肩をすくめる。
「全部、狂った」
酒場の空気はすぐにざわめきへ戻っていった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ、長年の疑問が形になる。
『計画があったのに、全部狂った。』
その言葉が何を指しているのか、言葉にされずともリラにはわかってしまった。
父の姿に、娘を失った悲しみはどこにも見つからなかった。
何も言わず、その場を離れる。
外へ出ると、昼の光がまぶしかった。
「きゅ……」
肩の上で、オモチが小さく動く。
リラは人通りの少ない路地へ入り、そこでようやく足を止めた。ずるずると石壁に背を預け、膝を抱える。
雲がゆっくり流れていく。
――もう、会わなくてもいいんじゃないか。
両親は生きている。どこで働いているのかも分かった。
わざわざ顔を合わせる必要なんて、きっとない。
そのとき、ポケットの中で指先に触れるものがあった。
色あせた髪飾り。
昔、母がくれたもの。
『似合うわよ』
あの声は、確かに優しかった。
リボンを指でつまんだまま見つめる。布は少し擦り切れていて、長い時間を持ち歩いてきたことが分かる。
「……どうしようかな」
ぽつりと呟いた、そのときだった。
「きゅ」
オモチが膝の上で体勢を変え、ひょいと顔を寄せてくる。
かぷり、と鼻先を軽く噛まれた。
「……っ」
痛くはない。けれど、まるで何かを諭すような噛み方だった。
「ちょっと……何?」
オモチは離れ、じっと見上げてくる。丸い瞳が、まっすぐ向けられていた。
「きゅ」
短く鳴く。
ここにいるよ、とだけ伝えてくるように。
リラは、かすかに笑った。
「……ありがと」
ふわふわの頭を撫でると、胸の奥の重さが、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
今日一日で、父が、どんな人間なのかが大体掴めた。子供のころに見ていた姿は夢だったのかと感じてしまう。
まだ完全には割り切れない。
それでも、もう一度だけ、最後に一度だけ会っておきたい。
――せっかくここまで来たんだから。
ポケットの中の髪飾りを、そっと握る。
「……もう一日だけ付き合ってくれる?」
「きゅ!」
迷いのない返事だった。
その声に、少しだけ笑う。
明日、もう一度だけ。
それで決める。
会うのか。
それとも、このまま去るのか。
夕暮れの光の中で、リラはゆっくりと立ち上がった。