軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

優しい日々と、戻れない夜

キャンベル家の屋敷は、大きくて静かな場所だった。

磨き上げられた長い廊下。

朝になると光が差し込む広い窓。

季節ごとに花が咲く庭。

その屋敷で、私は九歳まで暮らしていた。

父は忙しい人だった。

仕事で家を空けることも多かったけれど、帰ってくると必ず頭を撫でてくれた。

母は穏やかな人で、いつも静かに微笑んでいた。

侍女たちも優しかった。

特にマーサは、私が転べばすぐに駆け寄ってきて、

「お嬢さま、またそんなに走って」

と笑いながら膝を拭いてくれた。

屋敷の中では、誰もが私を大事にしてくれていた。

だから、私は信じていた。

私は愛されている。

このまま大きくなって、両親のそばで暮らしていくのだと。

そんな日々の中でも、ときどき、ふと不思議なことを思い出すことがあった。

この世界にはないはずのもの。

パンの香り。

大きな鉄の塊がすごい速さで移動していく。知らない街。

でも、それは夢のようなもので、困るほどではなかった。

だから、気にも留めなかった。

ただ、毎日が穏やかで、私はそれで十分幸せだった。

ある日の午後。

庭に出て、蝶を追いかけていた。

白い蝶がふわりと舞い上がる。

私はそれを追いかけて、芝生の上を走った。

そのとき。

「リル、リルフィーナ」

振り返ると、母が庭に立っていた。

手には、小さな帽子。

「こんなに暑い日なのだから、しっかり帽子をかぶりなさい」

「お母さま、私は大丈夫よ」

そう言うと、母は少し困ったように笑った。

「駄目よ。この可愛いお顔が、日に焼けて真っ赤になってしまうわ」

母は私の前にしゃがむと、そっと帽子を被せる。

「その髪飾り、とてもあなたに似合っているわ」

「へへっ」

髪に留めていた赤いリボンの髪留めは、私の髪色に合わせてお母さまが注文してくれた品だ。

私は毎日のように、それをつけていた。

慈しむように、母の手が私の頬を撫でる。

指先はひんやりとしていて、やさしかった。

母は私を見つめて、満足そうに微笑んだ。

「リルは本当に可愛い子ね」

その言葉が嬉しくて、私はまた走り出した。

母はその様子を、少し離れたところから眺めている。

優しい目で。

あの頃の私は、ただ嬉しかった。

母に可愛いと言ってもらえることが。

撫でてもらえることが。

でも――

今になって思えば。

あのとき母が気にしていたのは、本当に日焼けだけだったのだろうか。

この顔に、傷が残らないように。

――あの侯爵に、見せるためだったのではないかと。

そんな考えが浮かぶのは、ずっと後になってからのことだった。

その日、私は両親に呼ばれた。

応接室は、いつもより少しだけ静かだった。

私は父の前まで歩いていく。

「お父さま?」

父は私を見ると、ゆっくり頷いた。

「リルフィーナ。婚約者が決まった」

その言葉は、とても落ち着いた声だった。

私は首を傾げる。

婚約。

貴族の家に生まれた子供なら、珍しい話ではない。いつかそうなるのだろうと、なんとなく思っていた。

「そうなの?」

それだけ聞き返すと、母が優しく微笑んだ。

「ええ。とても立派な方よ」

父も満足そうに頷く。

「由緒ある家柄だ。リルフィーナにとっても、よい話だ」

私はよくわからないまま頷いた。

きっと、大人が決めることなのだろう。

それ以上、深く考えることはなかった。

数日後。

私は、その婚約者に会うことになった。

応接室の扉が開く。

入ってきたのは、ひとりの男だった。

見上げる。

大きい。

そして、ずいぶんと太っていた。

腹が前に突き出ており、頬は赤く、脂ぎっている。

年齢も、すぐにわかった。

父より、ずっと上だ。

私は思わず、固まった。

男は笑う。

口の端が大きく上がる、油っぽい笑顔だった。

「ほう。この子が」

じろじろと、私を見る。

値踏みするような視線だった。

その視線に、少しだけ居心地の悪さを感じた。

でも。

私はすぐに、自分に言い聞かせる。

人は見た目で判断してはいけない。そう教えられてきたから。

きっと、この人は立派な人なのだと、そう思おうとした。

少しして、父と母は席を外した。

部屋には、私とその男だけが残る。

重い沈黙が落ちた。

私は椅子に座ったまま、膝の上で手を握る。

そのとき。

男が、こちらへ歩み寄ってきた。

足音が、床の上で重く響く。

目の前で止まる。

次の瞬間。

太い手が、私の太ももに触れた。

撫でるように、ゆっくりと。

指が、服の上を滑る。

私は息を止めた。

男の顔が、近づいてくる。

口元が歪む。

そのとき。

頭の奥に、突然言葉が浮かんだ。

――ペド。

意味はわからない。

でも。

それが、嫌悪すべきものだということだけは、はっきりとわかった。

体が、勝手に動いた。

男の胸を、両手で思いきり押す。

「さわらないで!」

椅子が大きく軋む。

男の体が、少しだけ後ろによろめいた。

私はそのまま立ち上がる。

胸が、どくどくと鳴っていた。

怖い。

でも、それ以上に。

どうしようもない嫌悪が、体の奥から込み上げてくる。

男の顔が、みるみるうちに赤くなった。

目が、吊り上がる。

「な、なにをする!」

怒鳴り声が、部屋に響いた。

さっきまでの油っぽい笑顔は消えている。代わりに浮かんでいたのは、むき出しの怒りだった。

男は椅子を乱暴に押しのける。

「この小娘が!」

吐き捨てるように言い、扉へ向かう。

そして、出ていく直前に振り返った。

「きちんとしつけをしておけ!」

その言葉を残し、男は乱暴に扉を開けて出ていった。

重い扉が、ばたん、と閉まる。

私はその場に立ったまま、動けなかった。

胸がどくどくと鳴っている。

怖い。

どうしよう。

でも――

大丈夫。

両親に話せばいい。

きっと、わかってくれる。

あの人が変だっただけだ。

そう思って、扉の方を見る。

ほどなくして、父と母が戻ってきた。

私はほっとして、駆け寄る。

「お父さま……!」

怖かった、と言おうとして――

そう言おうとして、手を伸ばす。

その瞬間。

頬に、強い衝撃が走った。

ぱん、と乾いた音が響く。

視界がぐらりと揺れ、体が横に倒れ、壁にぶつかった。

何が起きたのか、わからない。

ただ、頭の中が真っ白だった。

床に崩れたまま、ゆっくり顔を上げる。

そこにいた父は――

今まで見たことのない顔をしていた。

怒り。

それも、ただの怒りではない。

何か、もっと恐ろしいもの。

父は拳を握りしめていた。

「相手を怒らせたのか!」

怒鳴り声が、部屋に響く。

「何をした!」

母の声も重なる。

「リルフィーナ、なんてことを……!」

慰めはなかった。

優しい声も。

抱きしめる腕も。

あるのは、怒鳴り声だけだった。

頭の奥で、何かが崩れる音がした。

さっきまで確かにあったものが、音もなく崩れていく。

そのとき。

また、頭の中に言葉が浮かんだ。

――親ガチャ失敗。

意味はわからない。

でも。

なぜか、はっきり理解してしまった。

ここに、いてはいけない。

この家に、いてはいけない。

私は部屋に閉じ込められた。

反省しろ、と父は言った。

重い扉が閉まり、鍵の音がする。

しばらくして、母の声が聞こえた。

「顔に傷が残ったらいけないわ」

扉の外で、母が侍女に命じている。

「すぐに治療を。痕が残っては困るもの」

マーサの声が、小さく返事をした。

私はベッドの上に座ったまま、そのやり取りを聞いていた。

心配しているわけではない。

それは、すぐにわかった。

顔に傷が残ると困る。

その理由は、私のためではない。

侯爵のためだ。

しばらくして、侍女が部屋に入ってくる。

頬に薬を塗り、冷たい布を当てられる。

マーサは何度か口を開きかけたけれど、結局何も言わなかった。

きっと、会話を禁じられているのだろう。

治療が終わるころ。

廊下で、父と母の声が聞こえた。

「来週、もう一度侯爵を呼ぶ」

父の低い声。

「それまでに、きちんとしつけ直せ」

その言葉を聞いた瞬間。

私は、決めた。

逃げよう。

九歳の子供が普通はしない決断だっただろう。

愛する父母の元を離れるなど、普通は考えもしないはずだ。

でも、迷いはなかった。

ここにいたら終わる。

侍女が部屋を出ていき、扉が閉まり、足音が遠ざかる。

私はゆっくりとベッドから降りた。

そして、クローゼットへ向かい、カバンを引っ張り出す。

机の上にあったビスケットをハンカチで包んでいると、ぽたり、と何かが落ちた。

白い布に、小さな染みが広がる。

お母さまとおそろいのハンカチだった。

以前、母が笑いながら言った言葉を思い出す。

「同じ柄なのよ。リルフィーナはこのお花が好きでしょう?」

その声が、ふと頭に浮かぶ。

もう一度、ぽたり。

染みが、少しずつ広がっていく。

私は何も言わず、棚の中のハンカチを何枚かつかみ、そのまま鞄に入れた。

次に、水差しを見る。

部屋に置かれている陶器の水差し。

朝になると、いつもマーサが新しい水を入れてくれていた。

「お嬢さま、お水を替えておきましたよ」

その声を思い出しながら、水差しを布で包む。

陶器だから、割れるかもしれない。

でも、ないよりはいい。

それも鞄に入れる。

鞄は小さかった。

貴族の子供が荷物を持つことはほとんどない。

だから、この鞄もほとんど飾りのようなものだ。

それでも、ぎゅうぎゅうに押し込む。

押し込むたびに、布に小さな染みが増えていく。

最後に、頭につけていた髪飾りも外す。

ほんの少しだけ指先を止めてから、それをかばんの底へ押し込み、鞄を閉じた。

私は一度、部屋を見回した。

本棚。机。ベッド。

すべて、昨日までと同じなのに。

もう、ここにはいられない。

夕方になり、食事が運ばれてきた。

いつもよりずっと質素だった。パンと、少しのスープ。

侍女は私の顔を見て、少し驚いたようだったが、何も言わなかった。

食事が終わると、灯りが落とされる。

今日は湯浴みもない。

簡素な寝間着に着替えさせられ、部屋はすぐに暗くなった。

私は布団に入り、体を丸めて、じっと待つ。

廊下の灯りが消える音。

足音が遠ざかる。

屋敷が、ゆっくりと静かになっていく。

どれくらい時間が経ったのか。

私は、そっと布団から抜け出した。

鞄を抱え、窓を開ける。

夜の空気が流れ込んできた。

少し冷たい。

外は暗い。

見たことのない夜の庭。

震える足で、窓枠に手をかける。

小さな体を、外へ押し出す。

芝生に降りると、膝がわずかに震えた。

でも、止まらない。

屋敷の裏へ向かう。

そこには、森がある。

父が昔、言っていた。

あの森は、隣の領地につながっていると。

夜の森は、黒く、深かった。

それでも。

私は、歩き出す。

振り返らなかった。