作品タイトル不明
枝豆とエール、遠くの街の話
夕方の木陰のベーカリーは、昼の賑わいがすっと引いたあとで、どこか静かだった。
焼き上がりのパンはほとんど棚から消えていて、残っているのは食パンが数本と、硬めのパンがいくつかだけ。
空いた棚には、粉の気配と、わずかな温もりがまだ残っている。
窓から差し込む光も、昼より少し柔らかい。
木陰を抜けてきた光が、床に細長く落ちていた。
揺れる葉の影が、ゆっくりと形を変えている。
私は空いた棚を整えながら、ゆっくり店内を見回す。
甘さと、少しだけ焦げたような香ばしい香り。
それが、静かな空気の中にやわらかく溶けていた。
でも、昼の慌ただしさはすっかり遠くへ行ってしまったみたいだった。
そのとき。
扉の鈴が、カランと鳴る。
顔を上げると、ミレイが立っていた。
――あれ。
思わず目を丸くする。
ミレイが来るのは、だいたい早朝だ。
店が開く前、裏口からひょいと顔を出してくるのがいつものパターン。
表の扉から、しかも夕方に来るのは珍しい。
「こんにちは」
いつもの軽い調子で手を振る。
けれどその声は、どこか少しだけ力が抜けている気がした。
「いらっしゃい」
そう返しながら、私は首を傾げた。
「……珍しいね」
ミレイはくすっと笑う。
「でしょ?」
どこか楽しそうで、いたずらめいたゆるい笑い方だった。
そう言いながら店の奥へ入り、いつもの席へ腰を下ろした。
慣れた動きで椅子を引いて、すとんと座る。
椅子に背を預け、くるくると指先で金の髪をいじる。
その仕草も、今日はどこかゆっくりしている。
「今日はさ、タバーン、急に休みになっちゃって」
「え、そうなの?」
思わず声が出る。
フォルネアの商業区にあるあのタバーンは、めったなことでは休まない。
多少のトラブルのときにも、なんだかんだ言いながら、だいたい開いている店だ。
だからこそ、その言葉が少しだけ意外で。
同時に、ミレイがこうしてふらりと来た理由も、なんとなくわかる気がした。
「なんかね、仕入れミスったみたいでさ」
ミレイは肩をすくめる。
大げさに、というより、少しだけ呆れたような仕草だった。
「お酒が満足な本数届かなかったんだって」
私は棚を片付けながら、思わず手を止めた。
指先に残っていた粉が、ぱらりと落ちる。
「それは困るね」
「でしょ?」
ミレイは苦笑する。
けれど、その表情はどこか楽しんでいるようでもあった。
「昨日までは市場で買って、なんとかしのいでたんだけどさ」
「うん」
「でもさ、うち、お偉方も来るじゃない?」
フォルネアのあのタバーンは、冒険者だけの店ではない。
商人や役人。
ときどき貴族の使いまで顔を出す。
そういう客が来る店では、酒の質も大事だ。
「高いお酒ってさ、さすがに市場じゃ簡単に手に入らなくて」
ミレイは両手を広げる。
諦め半分、仕方ないよね、という軽さ半分。
「今日はもう、諦めて休み」
「なるほど」
それは仕方ない。
酒のないタバーンなんて――
パンのないパン屋みたいなものだ。
私がそう言うと、ミレイは吹き出した。
「それは大問題だね」
「でしょ?」
「想像しただけで怖い」
二人で笑う。
さっきまで静かだった店の空気が、少しだけやわらいだ。
笑い声が、パンの残り香に混じって、すぐに静けさへ溶けていく。
「だから今日は、完全に暇人」
ミレイは椅子の背にもたれながら言った。
体の力を預けて、ほんの少しだけ肩を落とす。
「たまにはこういうのもいいでしょ」
言葉どおり、どこか楽しそうだった。
窓から入る夕方の光が、ミレイの髪をやわらかく照らしている。
金の髪が、光を受けて淡く色を変えた。
外では、通りを行き交う人の足音がゆっくり流れていた。
昼よりも間隔のあいた、穏やかなリズム。
私は小さく笑って、棚の奥からティーポットを取り出す。
「紅茶、飲む? それともコーヒー?」
「コーヒー飲んでみたい」
即答だった。
少しだけ前のめりになる仕草に、思わず目を細める。
ミレイはいつも、店に寄ったあと家に帰って寝ることが多い。
だからコーヒーは、あまり飲まないらしい。
私はコーヒーメーカーに豆を入れ、スイッチを入れる。
しばらくすると、ぽたり、ぽたりと落ちる音が店内に響き始めた。
静かな店の中で、その音だけがやけにくっきりと聞こえる。
独特の香りが、ゆっくりと空気に広がっていく。
「いい匂い……」
ミレイが目を細める。
さっきよりも、少しだけ表情がやわらいでいた。
カップを差し出すと、ミレイはそれを受け取り、両手で包むように持った。
指先が、自然とカップの温もりを確かめる。
湯気がゆらりと立ちのぼる。
細い線になって、すぐに空気へ溶けていく。
ミレイはそのまま、店内をゆっくり見回した。
「夕方のパン屋も、いいね」
ぽつりとした言い方だった。
窓の外では、通りを歩く人の影が長く伸びている。
石畳の上に、ゆっくりと重なっていく。
昼の忙しさが落ち着いて、街が少しだけ息をつく時間。
ミレイは一口コーヒーを飲み、ほっとしたように息を吐いた。
そのまま、もう一口。
「なんか、ちょっと得した気分」
私は思わず笑う。
そのままミレイは、カウンター席でのんびりカップを傾けていた。
急ぐ様子もなく、時間を味わうみたいに。
コーヒーの湯気が、ゆっくりと空気に溶けていく。
店の中も、すっかり落ち着いていた。
夕方は、買い物帰りの客がぱらぱらと寄るくらいだ。
パンを袋に入れて手渡す。
お釣りを渡して、また棚を整える。
紙袋が触れ合う音や、小さな硬貨の音が、静かな店内に軽く響く。
そんな穏やかな時間が続いていた。
扉の鈴が、また軽く鳴る。
顔を上げると、いつもの常連さんだった。
手には、大きめの籠を抱えている。
「リラちゃん、まだやってる?」
「はい。いらっしゃいませ」
常連さんは、カウンターの上に籠をどん、と置いた。
木の擦れる音が、少しだけ重く響く。
「畑で採れたんだけどさ。形が悪くて売れ残っちゃってね」
籠の中には、枝豆とかぼちゃが入っていた。
どちらも、ずいぶんと立派だ。
かぼちゃは少しだけ歪な形をしているけれど、表面はしっかりと張っている。
枝豆も、青々としていて、さやがぴんと張っていた。
「よかったら、もらってくれない?」
思わず声が弾む。
「わぁ!こんなにいいんですか?ありがとうございます!」
籠を覗き込みながら、顔には笑みが浮かぶ。
これは、嬉しい。
頭の中に、すぐにいくつかの料理が浮かんだ。
枝豆フォカッチャ。
かぼちゃパン。
枝豆チーズパン。
それから、スープ。
かぼちゃのポタージュもいいし、
玉ねぎと一緒に煮た、優しいスープもいい。
明日のパンに使えそうだ。
自然と、段取りまで思い浮かんでくる。
「助かります。本当に」
「売れ残りだから気にしないでよ」
「あっ!待ってください。これよかったら。今日はもうこれ以上売れそうにないし」
そう言って、食パンを紙袋に詰めて渡す。
「あら、悪いわね。じゃあありがたく」
常連さんはそう言って、パンを抱えて帰っていった。
扉の鈴が、軽く鳴る。
外の空気が一瞬だけ入り込んで、また閉じる。
籠をカウンターの下に置く。
横を見ると、ミレイが楽しそうにこちらを見ていた。
「パン屋さんって、こういうのもあるんだね」
「うん。ありがたいよね」
こういう差し入れは、たまにある。
野菜や果物。
畑の余りもの。
店をやっていると、街の人と食べ物がぐるぐる回る。
誰かの畑から来て、パンになって、また誰かの家へ行く。
その流れが、なんだか好きだった。
そのあとも、何人か客が来て、パンを買っていく。
ミレイはのんびりコーヒーを飲みながら、それを眺めていた。
客と話す私を見たり、棚を見たり。
ときどき、外の通りをぼんやり眺めたり。
カップを持つ手も、急ぐ様子はまったくない。
そして、最後の客が帰る。
扉の鈴が鳴って、静かな店内が戻ってきた。
さっきよりも、さらにひと段落した静けさ。
私は小さく息を吐く。
そろそろ閉店の時間だ。
カウンターの下から、さっきの籠を引き寄せる。
枝豆とかぼちゃが、ぎっしり入っている。
少し土の匂いがして、外の気配を連れてきたみたいだった。
それを見て、ミレイが身を乗り出した。
「いっぱいだね」
「うん」
かぼちゃをひとつ持ち上げると、ずっしりと重い。
そのとき、ふと思いついた。
「ミレイ」
「ん?」
「今日、晩ご飯食べていきなよ」
ミレイが、ぱちっと目を瞬かせる。
「え?」
少しだけ間があく。
そのままこちらを見て、それからゆっくりと表情が動いた。
「あ、ごめん。用事あった?帰らなきゃダメ?」
「いや、ないけど」
少し考えてから、ミレイは笑った。
「今日は完全に休みだし」
それを聞いて、私は籠の中の枝豆を指でつつく。
指先に、さやの張りがしっかりと返ってくる。
「じゃあ、この枝豆でエール飲もうよ」
「おお」
間髪入れずに返ってくる声に、思わず笑う。
「店に出しても余っちゃいそうだし。それに、ちょうど牛筋煮込みもあるんだよね」
ミレイが一瞬、眉を上げる。
「メニュー渋くない?」
思わず聞き返す。
「え?嫌だった?」
ミレイは首を横に振った。
「ううん。超好き」
少しだけ目を細めて言うその顔に、ほっとする。
私は笑って、手をぱん、と叩いた。
「じゃあ決まり。ちょっと片付けよう」
閉店後の店内は、昼間よりずっと静かだ。
外の音も、もう遠い。
ミレイも自然に立ち上がり、食器や籠を集め始める。
「手伝うよ」
「ありがとう」
カップを洗って、テーブルを拭いて、パン棚を軽く整える。
水の流れる音と、布巾の擦れる音だけが、ゆっくりと重なる。
その足元を、白い影がちょろりと横切った。
「きゅ」
オモチが、いつの間にか戻ってきている。
椅子の脚に軽く体をこすりつけてから、ぴょんとカウンターに飛び乗った。
「おかえり」
声をかけると、くるりとこちらを見て、また「きゅ」と鳴く。
どうやら匂いで、何か始まるのを察したらしい。
ミレイが、その様子を見て小さく笑う。
「ほんとに、いるだけで空気変わるね」
「ね」
オモチはカウンターの端に座り、じっとこちらを見ている。
目だけが、期待でわずかにきらきらしていた。
ミレイは慣れない手つきながら、楽しそうだった。
「夕方のパン屋って、裏側こんな感じなんだね」
「そんな大したことしてないよ」
「でも、なんかいいね。お仕事体験気分」
そう言いながら、ミレイは布巾をぎゅっと絞る。
水がぽたぽたと落ちて、小さな音を立てた。
片付けが終わるころには、店の中はすっかり夜の空気になっていた。
外の光も、だいぶ落ち着いている。
私は籠を持ち上げた。
「じゃあ、まず仕込みからかな」
かぼちゃをまな板に置く。
包丁を入れると、固い皮が、こつん、と音を立てた。
手に、しっかりとした抵抗が返ってくる。
半分は明日のスープ用。
皮を削って、種を取り、ざくざくと大きめに切る。
包丁の音が、静かな店に心地よく響く。
鍋に入れておけば、明日はポタージュにできる。
残りは、晩ご飯。
豚肉と一緒にグリルにすることにした。
ミレイは横で枝豆を洗っている。
「これ、けっこう量あるね」
「だね。たくさん食べられるよ」
枝豆をざらざらと水に落とすと、軽い音が弾ける。
指でこすると、うぶ毛が水に浮かんだ。
鍋に湯を沸かして、塩を入れる。
枝豆をざらりと落とすと、ぱっと青い香りが広がった。
さっきまでのパンの匂いに、少しだけ夏の気配が混ざる。
その横では、牛筋煮込みを温め直す。
ぐつぐつと、小さな泡が浮かぶ。
とろりとした香りが、ゆっくりと立ち上ってくる。
オモチが、その鍋をじっと見つめていた。
「きゅ……」
「これはまだだよ」
軽く指で押し戻すと、名残惜しそうに一歩下がる。
でも、視線はしっかり鍋のままだ。
最後に、フランスパンを切る。
さくり、と軽い音。
断面から、ほんのりと温もりが立ちのぼる。
軽く焼き直して、オリーブ油と刻んだ野菜を乗せる。
簡単なブルスケッタ。
気づけば、テーブルの上にはいろいろ並んでいた。
色も匂いもばらばらで、それが少し楽しい。
枝豆。
牛筋煮込み。
かぼちゃと枝豆のマッシュサラダ。
かぼちゃと豚肉のグリル。
ブルスケッタ。
テーブルの上に並んだ皿は、統一感があるような、ないような。
匂いも色もばらばらで、それが妙に楽しい。
私は並んだ皿を見て、思わず苦笑する。
「なんか、何料理?って感じだね」
ミレイはすぐに言った。
「いいじゃん。美味しいもの詰め合わせ」
「確かに」
私は笑う。
「これは家じゃないとできない」
店でも出せるけど、こういう気楽さは難しい。
エールを二杯。
それから、小さなカップにミルクを注ぐ。
白い泡がふわりと立つ。
オモチは、すでにテーブルの上にワクワクした様子で座っていた。
尻尾をぱたぱたさせながら、料理を順番に見ている。
私はジョッキを持ち上げる。
「じゃあ――」
ミレイもジョッキを持つ。
オモチはミルクのカップを両手で抱える。
「「かんぱーい」」
「きゅきゅい」
エールとエール。
それから、ミルクのカップ。
軽く音がぶつかる。
オモチはさっそく枝豆に手を伸ばした。
器用にさやを開き、豆だけをぽん、と口に入れる。
「きゅ」
満足そうな声。
ほっぺたが、ほんの少しだけ膨らんでいる。
それを見て、思わず二人で笑った。
エールを一口飲む。
喉を通る苦味が、すっと落ちていく。
少しだけ体の力が抜ける。
「タバーンでも、こんな感じなの?」
ミレイに聞くと、彼女は肩をすくめる。
「うーん、一般席はもっと騒がしいかな。でも特別席のほうは貴族とか役人が多いし、もっと気取った感じ」
「そうなんだ。ちょっと行ってみたい」
「来ても何にも楽しくないわよ」
枝豆をつまみながら、ミレイが言う。
さやを軽くしごいて、ぽん、と口に運んだ。
「でも、ミレイが歌う日もあるんだよね?」
「んーまぁね」
少しだけ視線を逸らして、あっさりと答える。
「それはいつかお金貯めて絶対行こう」
「女の子だけのお客さんなんか居ないから、新しい店員と間違われるわよ」
そう言ってから、ミレイはいたずらっぽく笑った。
「まぁ、でも『 炎猪殺し(えんじしごろし) のリラ』なら多少酔っ払いに絡まれても大丈夫か」
その一言に。
ゴフッ、と。
飲んでいたものを思いきり咽せた。
「ちょっ……まって!何それ!?」
慌てて口元を押さえるも、ミレイは楽しそうに肩を揺らした。
「冒険者達が酔っ払って話してたわよ。絶対怒らせちゃダメだって」
「嫌すぎるー!」
思わず頭を抱えそうになる。
オモチが、その様子を不思議そうに見上げていた。
「きゅ?」
「何でもないよ……」
ため息をつきながら、エールをもう一口。
そんな話をしながら、料理をつまむ。
牛筋は、よく煮えていて柔らかい。
箸を入れると、ほろりと崩れる。
かぼちゃも甘い。
口の中で、じんわりと広がる優しい味。
ブルスケッタの香りが、ふわっと立ち上る。
オリーブ油と野菜の香りが、軽く鼻に抜ける。
どれも、気取らない味だった。
のんびりした雑談が続く。
話題はあちこちに飛んで、また戻って。
特に意味のないことばかりなのに、時間はゆっくり流れていく。
その流れで、私はふと思い出した。
「そういえば」
「ん?」
「なんか、今年は栗が豊作なんだって」
ミレイが顔を上げ、少し首をかしげる。
「なんて言ったっけ。有名なとこ」
「ラトリアだよ。辺境の街ラトリア」
私の言葉に、ミレイは枝豆をひとつつまみながら頷いた。
「あぁ、そんな名前だったね」
さやを軽く押して、豆をぽん、と口に放り込む。
「栗好きなんだよね。食べたかったなー」
……だめだ。手が止まらないみたいだ。
その様子に、思わず少し笑う。
「ダルクさん達が行くらしいし、お願いしようかなとは思ってるんだけどさ」
ラトリアの栗は格別らしい。
粒が大きくて、甘くて、香りがいい。
パンにしても、お菓子にしても美味しいと聞く。
「でもね」
私は少し肩をすくめる。
「川魚も食べてみたかったなー」
ラトリアは川が近い。
魚料理も有名らしい。
ミレイは、へえ、と小さく声を出した。
「気になるなら、行ってきたら良いんじゃない?」
あっさりとした言い方だった。
私は少し驚いて、ミレイを見る。
「ミレイは行ったことあるの?」
「ないよ」
即答だった。
「この街から出たことないし」
枝豆をまたも口に放り込みながら、ミレイは笑う。
「森にも行ったことない」
「そうなの?」
「うん」
ミレイはエールのジョッキを軽く回した。
中の液体が、静かに揺れる。
「冒険者の楽園とか言われてるけどさ」
肩をすくめる。
「一般人からしたら、Cランクの魔獣でも普通に怖いよ」
言ってから、くすっと笑った。
どこか遠くを見るような、少しだけ力の抜けた笑み。
確かにそうだ。
冒険者にとっては討伐対象でも、普通の人にとっては、命に関わる存在だ。
ミレイは、少しだけ真面目な顔になった。
「そのうちさ」
枝豆のさやを皿に置く。
小さな音が、静かに響く。
「体力なくなったら、いやでもこの街から出られなくなるよ」
静かな声だった。
軽く言っているようで、どこか現実的な重さがある。
「行けるなら、行けるうちに行きな」
ミレイは軽く笑う。
さっきより、少しだけやわらかい顔に戻っていた。
「パン屋はさ、年取ってもできそうじゃない?」
私は少し考える。
確かにそうかもしれない。
パン屋は、街にいれば続けられる。
けれど。
森を歩くこと。
遠くへ行くこと。
それは、体力があるうちしかできない。
私はエールの泡を見つめながら、ふと思う。
私は、行こうと思えばどこにでも行ける。
それは、生きるために身につけた技術だった。
森を歩くこと。
魔獣を避けること。
剣も、魔法も。
全部、必要だったから覚えた。
でも。
そういう力を持っているのは、少しだけ恵まれていることなのかもしれない。
そんなことを考えていると。
ミレイが、ふっと笑った。
「なんかさ」
ジョッキを軽く揺らす。
光が、ゆらりと反射する。
「お酒飲んでて、楽しいと思ったの初めてかも」
私は思わず笑う。
「そうなの?」
「うん。だいたい仕事だから」
言って、また一口飲む。
その横で。
オモチは枝豆を真剣に吟味したあと、ひとつ選び出した。
少し大きめで、形のいいやつ。
それを、ぽん、とミレイの皿の上に乗せる。
「きゅ」
満足そうな声。
一瞬、間があって。
私とミレイは顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
笑い声は小さく、すぐに夜の静けさに溶けていく。
店の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていく。
空の色が、ゆっくりと変わっていく。
金の日の夜は、静かだった。
穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。
私はエールを飲みながら、ぼんやり思う。
――ラトリア。
行ってみようかな。
そんな気持ちが、胸の奥に小さく芽生えていた。
まだ、形にもならないくらいの、小さな思いつき。
けれど。
そのときは、まだ。
数日後に届く手紙が、その考えを、思いがけない形で後押しすることになるとは。
思ってもいなかった。