作品タイトル不明
別格の肉と、焼き立ての朝
「おぉう……」
肉屋の軒先に足を止めた瞬間、思わず声が漏れた。
台の上に鎮座しているそれは、見るからに“別格”だった。
深い赤。ただ赤いのではない。陽の光を受け、濡れた宝石のように艶を帯びている。細やかな筋が白く柔らかく入り込み、その一本一本がきれいに走っている。
――ブラッドリッジ・カウだ。
強い個体は尾根沿いに縄張りを持つという魔獣。滅多に市場に出ない。出ても、大きな宿か貴族の厨房に先に押さえられてしまう。
それが今、私の目の前にある。
……誘っている。間違いなく、私を。
思わず身を乗り出し、匂いを確かめる。血の匂いは強くない。鮮度がいい証拠だ。
色味、弾力、脂の入り方。
いい。
実に、いい。
この森はボア系の魔獣は多いけれど、カウ系は少ない。ましてやブラッドリッジ・カウなど、年に何度見られるか。
今を逃したら、次はいつになるか分からない。
「おぅ、リラ!どうだこれ!」
肉屋の親父さんが得意げに腕を組む。
「一昨日、ダルク達と最近来た冒険者の兄ちゃんが倒したらしい。こんな品、滅多に出ないぞ」
最近来た冒険者。きっとユリウスだろう。最近は複数人の依頼でダルク達と組むことが多いと言っていた。
「一昨日……」
そりゃ、鮮度がいいはずだ。
ごくり、と喉が鳴る。
「どうだ。今を逃すともう買えないかもしれないぞ」
――やめてほしい、その煽り。
頭の中で素早く計算する。ここ数日の売上。仕入れ。粉の在庫。チーズの発注。
これを買っても、店は回るか。
……回る。たぶん。きっと。
私は大きく息を吸い込んだ。
「買います!」
ここ最近で一番大きな声だったと思う。
親父さんがにやりと笑った。
◇
厨房に戻ると、まずは吸水用の紙を何重にも巻く。余分な水分を抜き、旨味を閉じ込める。
念入りに包んだそれを、魔道保冷庫にそっと入れる。
食べ頃は、来週。
思わず口元が緩む。
「んふふ、ふふふふ」
一人、保冷庫に向かって笑っていると、チーズの注文で牧場まで行っていたオモチが戻ってきた。
台にちょこんと乗り、じっとこちらを見る。
水色の澄んだ目と目が合う。
「んへへへ」
「きゅききき」
……笑いが止まらない。
◇
一週間後の朝。
この日の朝は、気合が違った。
もちろん、普段から手を抜いているわけではない。でも今日は特別だ。
早起きして、ブラッドリッジ・カウのひき肉とグレイボアのひき肉を合わせる。
卵、パン粉、刻んだ玉ねぎ、塩、胡椒。
捏ねる。
捏ねる。
捏ねる。
粘りが出るまで、丁寧に。
成形し、表面に焼き目をつけてからオーブンへ。
じゅわ、と立ち上る香りに、オモチがそわそわと近づいてくる。
バンズは昨夜焼いておいた。今日はこれが主役だから。
レタスを刻みながら改めて計算をする。
朝に二十個。昼に二十個。それが限界だろう。
残した肉は今夜ステーキに。筋は煮込んで牛すじに。
それでもまだ少し残るな……牛カツサンドなんてどうだろうか。
……考えるだけでよだれが出そう。
もちろん、いつものパンも忘れない。
食パン、サンドイッチ、ホットドッグ、クリームパン、ビスコッティ、旅菓子。
今日は肉系を少し減らし、森のベリーのマフィンとチーズフランスパンを増やす。
時計を見る。
そろそろ開店だ。
最後の仕上げ。
持ち歩きやすいよう油と水分は控えめ。トマトは抜き、ソースは固めに。ノラに頼んでいた濃厚なチーズを重ねる。
焼き上がった肉とともに挟み、蝋紙で包む。
思わず満足気なため息が漏れてしまった。
窓を開けると、すでに数人の冒険者が並んでいた。
「リラ!今日やたらといい匂いしないか!?」
ダルクが鼻を鳴らす。
「ちょうど良かったです。今日は先週ダルクさん達が倒したブラッドリッジ・カウのパン、用意しています」
「マジか!? あのカウの!?」
見本用に包まず置いていたものを見せると、三人が同時にごくりと喉を鳴らした。
「これ、ぜってーうまいやつじゃん」
ロイが呟く間に、ダルクとセインは無言で籠へ。
ロイは値札を見て一瞬止まる。
「高っ」
「ですよね……」
いつものフランクの三倍。安くはない。
ロイの反応に、少しだけ不安になる。
「ブラッドリッジ・カウの肉だぞ。安いわけないだろ」
ダルクが当然のように言い、
「店で食べたらこの五倍はする」
セインが静かに続ける。
ロイは悩んだ末、意を決したように籠へ入れた。
朝の分は、一時間少しで完売した。
◇
昼前、私は見本のハンバーガーを手に取り、オモチには小さく焼いたものを渡す。
「いただきます」
「きゅいっ」
敢えて温めない。お客様と同じ状態で。
かぶりつく。
「んむっ!」
「にゅ!」
冷めているのに、旨味が爆ぜる。
赤身の力強さ。脂はしつこくなく、甘みだけを残す。ボアのコクが重なり、チーズがそれを抱きしめる。
パンが、すべてを受け止め、一つに纏め上げていた。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
オモチが頬を押さえ、目を細める。
「また、食べたいね」
「きゅきゅい」
次も、誰かがブラッドリッジ・カウを倒してくれますように。思わず、そう願わずにはいられなかった。
◇
数日後、日が傾きかけていた頃に、ユリウスが来店した。その表情は何故か冴えない。
「そういえば、この間ブラッドリッジ・カウのパン出したの?」
「そうなんです!冷めてもすごく美味しくて。ステーキも最高でしたけど、ミンチにすると旨味が増して……驚きました」
「そうなんだ」
彼はどこか哀愁のある笑みを浮かべ、背中を丸めながら店を後にした。
後日、ダルクから聞いた。
ユリウスが血眼になってブラッドリッジ・カウを探している、と。
……食べたかったんだ。
少し申し訳なく思いながらも、ぜひとも捕まえてきてくれと内心祈る。
私たちもまた食べたいから。
どうか無事に見つかりますように。
そんなことを願った、麗らかな昼下がりだった。