作品タイトル不明
南の森と、静かな足音
ヴェロスという魔獣は、人の目を引く。
いや、オモチが、と言ったほうが正しいかもしれない。
魔獣研究をしている者であっても、ヴェロスの姿をはっきり見たことがある者は多くない。
その速さゆえ、記録は曖昧で、目撃談も断片的だ。
影のように駆け、気づいたときにはいない。
捕まえるなど、まず不可能。
そんな魔獣が街なかにいたら、当然目立つ。
もっとも——
のんびりと肩に乗り、甘い匂いに釣られてきゅいきゅい鳴くあの姿から、オモチと“ヴェロス”を結びつける者は、そう多くはないだろう。
フォルネアは穏やかな街だ。
だが、穏やかであることと、悪人がいないことは別の話だ。
噂というものは、思いがけず転がる。
そして、ときに——妙な耳に届く。
◇
「捕まえるぞ。あのパン屋の猿魔獣」
薄暗い路地裏で、男が低く言った。
「本当にあれがヴェロスなのかよ?」
「あぁ。粘糸を使ってるのを見た。間違いねぇ。あの糸を売れば相当な値がつく」
男は口元を歪める。
「従魔の首輪を嵌めて、速さを活かして盗みをさせるのも悪くねぇ」
「でもよ、速ぇんだろ。捕まえられねぇんじゃ」
仲間の一人が不安げに言う。
男は鼻で笑った。
「だから、あの女ごと攫うんだよ」
小さく感嘆の声が漏れる。
「あの猿はいつも女の肩だ。猿を追っても無理だが、女ならいける」
「でもよ、あの女も冒険者だって聞いたぜ」
「この街の冒険者なんざ、普段は魔物相手だ。人間相手に、しかも三人でかかりゃどうにでもなる」
確かに、と誰かが呟く。
「じゃあ家にいるところを襲うのか?」
「いや、下見はした。防犯魔道具があった。あの店は無理だ」
「それじゃあ……」
男は少し考え、にやりと笑う。
「金の日に森へ出ることが多い。あそこなら人目も少ねぇ。そこを狙う」
森は静かだ。
悲鳴も、叫びも、木々に吸い込まれる。
そう思い込んだ男たちは、知らない。
静かな森ほど、耳がいいことを。
そして、木陰のベーカリーの店主が、ただパンを焼くだけの女ではないことも。
◇
金の日。
木陰のベーカリーが見える路地の影に身を潜める。
しばらくして、店の扉が開いた。
「オモチ、忘れ物ない?」
「きゅいっ!」
肩の上で小さな魔獣が弾む。
「今日も南の森でいいよね。ハーブと、マロニタケとか採りたいなー」
戸締りを確かめ、女はいつも通りの足取りで南門へ向かった。
「門を抜けてからだ」
俺の声に、二人が頷く。
息を殺し、一定の距離を保って後をつける。
森へ入ってすぐ、ヴェロスが女の肩から離れた。
木々の間を白い影が走る。
だが慌てることはない。どうせ戻る。
何度か姿を見失うが、女さえ見張っていればいい。
やがて、大きな岩が乱立する場所へ差しかかった。
そのとき、ヴェロスがひょいと肩に戻る。
今だ。
俺は目で合図を送る。
女が岩の向こうへ入った瞬間、三人で駆け出した。
岩を越える。
「おい、どこだ——」
仲間の一人が周囲を見回す。
何してやがる、さっさと——
「!?」
いない。
女の姿が、ない。
「なっ、女は——」
言い終わる前だった。
上から風が落ちてきた。
ドゴッ。
岩の上から、影が降る。
女だ。
重力を乗せた一撃が、仲間の頭頂へ叩き込まれる。
鈍い衝撃音。膝が折れる。
女は着地と同時に半歩踏み込み、体勢を崩した仲間の顎を、迷いなく剣の柄で跳ね上げた。
白目を剥き、仲間はそのまま倒れた。
速い。
迷いが、ない。
そこでようやく気づく。
こいつは、偶然うまく動いたんじゃない。
最初から、こっちが来ると分かっていたみたいな動きだ。
「クソっ!」
捕縛網を投げ捨て、慌てて剣を抜く。
だが、その頃には、女はもう距離を詰めていた。
両手剣を軽々と握り、まっすぐに駆ける。
「らぁっ!」
上段から叩きつける。
空。
女は半身をわずかにずらしただけだった。
そのまま踏み込み、胴へ横薙ぎ。
鈍い衝撃が入る。
胴鎧越しでも、内臓が揺れた。
呼吸が乱れる。
重い。強い。
心体強化はしているはずだ。
なのに、打ち合いにならない。
剣を振るう。
突きに変える。
切り返す。
当たらない。
わずかに先へ動かれ、刃が空を裂く。
無駄がない。
守りが崩れたところを待つでもない。
崩れる前に、こっちの次を潰してくる。
……こいつ、対人慣れしてやがる。
女だと。
魔物相手しかしていないと。
三対一なら余裕だと。
そう思い込んでいた。
その前提が、音もなく崩れていく。
打ち合いながら、必死に視線を走らせる。
もう一人は——
いない。
いや。
いた。
木々の間で、白い粘糸に絡め取られ、無様にもがいている。
ヴェロス。
小さな体で、的確に急所を押さえてやがる。
クソっ。
「らぁっ!」
力任せに振り下ろす。
重さで押し潰すつもりだった。
だが。
女は半歩踏み込み、懐へ滑り込む。
近い。
視界から消える女の姿。
次の瞬間——腹に衝撃。
斬られていない。
叩き込まれた。
剣の腹で、芯を打ち抜く一撃。
肺の空気が強制的に押し出される。
息が、できない。
体が浮き、足の裏が地面を失う。
次いで、頭を掴まれた。
視界がぶれ、空と岩と木々が混ざり——
顎に、膝がめり込んだ。
頭の奥で、鐘が鳴る。
世界が裏返った。
◇
「……くださーい」
遠くで、間の抜けた声。
「起きてくださーい」
女の声だと理解した瞬間、跳ね起きようとするが、体が動かない。
目を開けると、空。岩。木々。
そして、岩の上に腰掛ける女。
「おはようございます」
「テメェ……」
俺たちは三人まとめて、粘糸でぐるぐる巻きにされていた。
女は淡々とこちらを見る。
「率直に聞きます。目的は?」
「答えるかよ。騎士団に突き出すなら、さっさとやれ」
「私が聞きたいのは目的です」
「言ってどうする。解放でもするってか?」
「良いですよ」
「はぁ?」
表情が読めない。
冷えた、静かな目。
「騎士団に突き出しても、未遂なら数カ月で釈放されることが多いです。怪我人もいなくて、何も取られていなければ尚更」
さっきまで剣を振るっていた相手と、同じ人物には見えなかった。
「何をしたかったのか。それから、もうしないと約束してくれたら、解放してあげます」
はっ。
ついてる。
とんだ甘ちゃんだ。
仲間と目配せをする。
「……あんたが気になってただけだ。もうしない」
解放されりゃ、それでいい。
女は、肩のヴェロスを見る。
小さな魔獣は、やれやれとでも言うように、首を左右に振った。
……なんだ?
「嘘ですね」
女の声が、少しだけ低くなる。
さっきまでと同じ声なのに、温度だけが違った。
粘糸を持つ手に力がこもり、小さく光る。
その先は——俺たちだ。
バチッ。
次の瞬間。
全身に電流が走り、視界が白く弾ける。
「もう一度聞きます。目的は? 二度としないと誓いますか?」
淡々と。
「私たちも、こういうことは初めてじゃないので。後が面倒ですから、徹底的にいきますね」
にこり。
初めて、女が笑った。
……可愛い。
そう思ったところで、意識が落ちた。
◇
「リラ、知ってるかい?」
翌朝。
トヨがパンを受け取りながら言う。
「南の森で体が痺れて動けなくなってた男たちがいてね。憲兵が助けたらしいんだけど、目ぇ覚ました瞬間、やってきた悪事を勝手にぺらぺら喋りだしたって話だよ」
「へぇ、そうなんですね」
「何があったかは知らないけどさ。あんたも森に行くだろ。気をつけな」
「ありがとうございます。気をつけますね」
窓辺で、オモチがのんびりと丸くなる。
陽の光が、白い毛並みに落ちていた。
いつもの、木陰のベーカリー。
焼きたての匂いが、静かに広がっていた。