軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

南の森と、静かな足音

ヴェロスという魔獣は、人の目を引く。

いや、オモチが、と言ったほうが正しいかもしれない。

魔獣研究をしている者であっても、ヴェロスの姿をはっきり見たことがある者は多くない。

その速さゆえ、記録は曖昧で、目撃談も断片的だ。

影のように駆け、気づいたときにはいない。

捕まえるなど、まず不可能。

そんな魔獣が街なかにいたら、当然目立つ。

もっとも——

のんびりと肩に乗り、甘い匂いに釣られてきゅいきゅい鳴くあの姿から、オモチと“ヴェロス”を結びつける者は、そう多くはないだろう。

フォルネアは穏やかな街だ。

だが、穏やかであることと、悪人がいないことは別の話だ。

噂というものは、思いがけず転がる。

そして、ときに——妙な耳に届く。

「捕まえるぞ。あのパン屋の猿魔獣」

薄暗い路地裏で、男が低く言った。

「本当にあれがヴェロスなのかよ?」

「あぁ。粘糸を使ってるのを見た。間違いねぇ。あの糸を売れば相当な値がつく」

男は口元を歪める。

「従魔の首輪を嵌めて、速さを活かして盗みをさせるのも悪くねぇ」

「でもよ、速ぇんだろ。捕まえられねぇんじゃ」

仲間の一人が不安げに言う。

男は鼻で笑った。

「だから、あの女ごと攫うんだよ」

小さく感嘆の声が漏れる。

「あの猿はいつも女の肩だ。猿を追っても無理だが、女ならいける」

「でもよ、あの女も冒険者だって聞いたぜ」

「この街の冒険者なんざ、普段は魔物相手だ。人間相手に、しかも三人でかかりゃどうにでもなる」

確かに、と誰かが呟く。

「じゃあ家にいるところを襲うのか?」

「いや、下見はした。防犯魔道具があった。あの店は無理だ」

「それじゃあ……」

男は少し考え、にやりと笑う。

「金の日に森へ出ることが多い。あそこなら人目も少ねぇ。そこを狙う」

森は静かだ。

悲鳴も、叫びも、木々に吸い込まれる。

そう思い込んだ男たちは、知らない。

静かな森ほど、耳がいいことを。

そして、木陰のベーカリーの店主が、ただパンを焼くだけの女ではないことも。

金の日。

木陰のベーカリーが見える路地の影に身を潜める。

しばらくして、店の扉が開いた。

「オモチ、忘れ物ない?」

「きゅいっ!」

肩の上で小さな魔獣が弾む。

「今日も南の森でいいよね。ハーブと、マロニタケとか採りたいなー」

戸締りを確かめ、女はいつも通りの足取りで南門へ向かった。

「門を抜けてからだ」

俺の声に、二人が頷く。

息を殺し、一定の距離を保って後をつける。

森へ入ってすぐ、ヴェロスが女の肩から離れた。

木々の間を白い影が走る。

だが慌てることはない。どうせ戻る。

何度か姿を見失うが、女さえ見張っていればいい。

やがて、大きな岩が乱立する場所へ差しかかった。

そのとき、ヴェロスがひょいと肩に戻る。

今だ。

俺は目で合図を送る。

女が岩の向こうへ入った瞬間、三人で駆け出した。

岩を越える。

「おい、どこだ——」

仲間の一人が周囲を見回す。

何してやがる、さっさと——

「!?」

いない。

女の姿が、ない。

「なっ、女は——」

言い終わる前だった。

上から風が落ちてきた。

ドゴッ。

岩の上から、影が降る。

女だ。

重力を乗せた一撃が、仲間の頭頂へ叩き込まれる。

鈍い衝撃音。膝が折れる。

女は着地と同時に半歩踏み込み、体勢を崩した仲間の顎を、迷いなく剣の柄で跳ね上げた。

白目を剥き、仲間はそのまま倒れた。

速い。

迷いが、ない。

そこでようやく気づく。

こいつは、偶然うまく動いたんじゃない。

最初から、こっちが来ると分かっていたみたいな動きだ。

「クソっ!」

捕縛網を投げ捨て、慌てて剣を抜く。

だが、その頃には、女はもう距離を詰めていた。

両手剣を軽々と握り、まっすぐに駆ける。

「らぁっ!」

上段から叩きつける。

空。

女は半身をわずかにずらしただけだった。

そのまま踏み込み、胴へ横薙ぎ。

鈍い衝撃が入る。

胴鎧越しでも、内臓が揺れた。

呼吸が乱れる。

重い。強い。

心体強化はしているはずだ。

なのに、打ち合いにならない。

剣を振るう。

突きに変える。

切り返す。

当たらない。

わずかに先へ動かれ、刃が空を裂く。

無駄がない。

守りが崩れたところを待つでもない。

崩れる前に、こっちの次を潰してくる。

……こいつ、対人慣れしてやがる。

女だと。

魔物相手しかしていないと。

三対一なら余裕だと。

そう思い込んでいた。

その前提が、音もなく崩れていく。

打ち合いながら、必死に視線を走らせる。

もう一人は——

いない。

いや。

いた。

木々の間で、白い粘糸に絡め取られ、無様にもがいている。

ヴェロス。

小さな体で、的確に急所を押さえてやがる。

クソっ。

「らぁっ!」

力任せに振り下ろす。

重さで押し潰すつもりだった。

だが。

女は半歩踏み込み、懐へ滑り込む。

近い。

視界から消える女の姿。

次の瞬間——腹に衝撃。

斬られていない。

叩き込まれた。

剣の腹で、芯を打ち抜く一撃。

肺の空気が強制的に押し出される。

息が、できない。

体が浮き、足の裏が地面を失う。

次いで、頭を掴まれた。

視界がぶれ、空と岩と木々が混ざり——

顎に、膝がめり込んだ。

頭の奥で、鐘が鳴る。

世界が裏返った。

「……くださーい」

遠くで、間の抜けた声。

「起きてくださーい」

女の声だと理解した瞬間、跳ね起きようとするが、体が動かない。

目を開けると、空。岩。木々。

そして、岩の上に腰掛ける女。

「おはようございます」

「テメェ……」

俺たちは三人まとめて、粘糸でぐるぐる巻きにされていた。

女は淡々とこちらを見る。

「率直に聞きます。目的は?」

「答えるかよ。騎士団に突き出すなら、さっさとやれ」

「私が聞きたいのは目的です」

「言ってどうする。解放でもするってか?」

「良いですよ」

「はぁ?」

表情が読めない。

冷えた、静かな目。

「騎士団に突き出しても、未遂なら数カ月で釈放されることが多いです。怪我人もいなくて、何も取られていなければ尚更」

さっきまで剣を振るっていた相手と、同じ人物には見えなかった。

「何をしたかったのか。それから、もうしないと約束してくれたら、解放してあげます」

はっ。

ついてる。

とんだ甘ちゃんだ。

仲間と目配せをする。

「……あんたが気になってただけだ。もうしない」

解放されりゃ、それでいい。

女は、肩のヴェロスを見る。

小さな魔獣は、やれやれとでも言うように、首を左右に振った。

……なんだ?

「嘘ですね」

女の声が、少しだけ低くなる。

さっきまでと同じ声なのに、温度だけが違った。

粘糸を持つ手に力がこもり、小さく光る。

その先は——俺たちだ。

バチッ。

次の瞬間。

全身に電流が走り、視界が白く弾ける。

「もう一度聞きます。目的は? 二度としないと誓いますか?」

淡々と。

「私たちも、こういうことは初めてじゃないので。後が面倒ですから、徹底的にいきますね」

にこり。

初めて、女が笑った。

……可愛い。

そう思ったところで、意識が落ちた。

「リラ、知ってるかい?」

翌朝。

トヨがパンを受け取りながら言う。

「南の森で体が痺れて動けなくなってた男たちがいてね。憲兵が助けたらしいんだけど、目ぇ覚ました瞬間、やってきた悪事を勝手にぺらぺら喋りだしたって話だよ」

「へぇ、そうなんですね」

「何があったかは知らないけどさ。あんたも森に行くだろ。気をつけな」

「ありがとうございます。気をつけますね」

窓辺で、オモチがのんびりと丸くなる。

陽の光が、白い毛並みに落ちていた。

いつもの、木陰のベーカリー。

焼きたての匂いが、静かに広がっていた。