軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

お餅の記憶と、しょっぱい涙

朝の仕込みは、いつも同じ順番で進む。

粉を量り、塩を混ぜ、水を加える。

手のひらに伝わる生地の感触で、その日の湿度がわかる。

窓の外では、まだ人の声はまばらだ。

フォルネアの朝は静かで、森の匂いが残っている。

私は生地をこねながら、ふと呟いた。

「お餅、食べたいな」

記憶のなかのお餅は、白くてやわらかくて、のびる。

きな粉をまぶしてもいいし、あんこもいい。

磯辺も捨てがたい。

もっちり、のびのび。

あの食感は、パンともケーキとも違う。

「この世界で、お米っぽいのは見たことあるけど……」

モチ米、あるのかしら。

そんなことを考えながら、生地を丸める手は休まない。

まさか。

後ろで、その一言に衝撃を受けている存在がいるとは知らずに。

――ボクは、たしかに聞いた。

リラが言ったんだ。

「オモチ食べたい」

って。

ボクの耳は間違っていない。

冗談かと思った。

でも、付き合いが長いからわかる。

あれは、マジのやつだ。

ボクは固まった。

胸の奥がざわついて、そのまま後ずさった拍子に、横に置いてあった粉袋にぶつかった。

ばさっと白い粉が床に広がる。

こんなの、普段は絶対にしないのに。

「あっ! オモチ、何してるの!? 大丈夫!?」

リラが振り向く。

慌てた顔。

でも、ボクの頭はさっきの言葉でいっぱいだ。

食べたい。

ボクを?

なんで?

リラはしゃがみ込み、粉をかき集めながらボクの足をさっと確認する。

「怪我してない? 火の近くで暴れちゃだめだよ」

心配してくれている。

それが余計に混乱を深める。

粉を片付けるリラの背中を見ながら、ボクの胸はぐるぐるする。

ボクは、そっと壁際の小窓へ向かった。

ここは、ボク専用の通り道だ。

振り返らない。

振り返ったら、たぶん止められる。

ひょい、と外へ飛び出す。

朝の光がまぶしい。

スネた気持ちと、怒りと、ほんの少しの寂しさ。

――ボクがいなくて困ればいいんだ。

そう思いながら、街の大木へ向かって走り出した。

ふて寝してやる。

ボクは絶対、簡単には食べられない。

……たぶん。

街なかの大木は、朝の光をたっぷり浴びていた。

ボクは枝の上にどすんと座り込むと、腕を組んで鼻を鳴らす。

いなくなってやる。

……でも、そうなると、リラはちょっとは泣くはずだ。

そう思いついてしまうと、胸の奥がもやもやする。

ほんとに、食べるつもりだったのかな。

ボクは枝の上でごろんと寝転がり、空を見上げた。

青い。

風が森の匂いを運んでくる。

その匂いに、ふと昔の記憶が混ざった。

森の奥。

ボクはあのとき、足を怪我して動けなかった。

もうだめだと思っていた。

そこに現れたのが、小さなリラだった。

ひらひらの服は薄汚れていて、腕や足には引っかき傷。

森をさまよっていた。

ボクを見つけて、驚いた顔をして。

それから、なぜか隣に座った。

夜になって。

リラのお腹が、ぐう、と鳴った。

静かな森に、はっきり聞こえるくらい大きな音だった。

そして、ボクを見て言ったんだ。

「猿って、食べられるのかな」

あれは衝撃だった。

つかみ上げられて、ああもう終わりだと覚悟したのに。

なぜか、服の中に入れられた。

「温かい」

そう呟いて、リラはそのまま眠ってしまった。

……なんなんだ、この人。

そう思いながら、ボクもいつの間にか寝ていた。

目を覚ますと、ひっくひっくと泣く声。

鼻をすする音。

顔を上げると、ぐしゃぐしゃのリラがいた。

目が合うと、息を止めたみたいに固まって。

それから、小さく笑った。

「良かった」

ボクはまだ足が痛くて、ろくに動けなかった。

それでも手を伸ばして、リラの頬に触れた。

涙に口を寄せる。

久しぶりに飲んだ水は、とても、しょっぱかった。

――あのときも。

リラはお腹が空いていた。

だから言ったんだ。

猿って、食べられるのかな、って。

枝の上で、ボクはがばっと起き上がる。

そうだ。

リラはお腹が空いてるんだ。

昨日は忙しかった。

晩ごはんも、あまり食べていなかったし。

だから今朝も、まだお腹が減ってたんだ。

オモチ食べたい、ってつい言っちゃったんだ。

つまり。

ボクを食べたいわけじゃなくて。

お腹が空いてるってことだ。

……たぶん。

でも、空腹は危険だ。

あのときみたいに森で倒れられたら困る。

ボクは立ち上がる。

ボクがなんとかしなきゃ。

リラはボクがいなくちゃだめなんだから。

お腹いっぱいにしてやればいいんだ。

そうすれば、もう“オモチ食べたい”なんて言わないはずだ。

ボクは枝から飛び降り、森へ向かって走り出した。

森へと駆け込む。

枝から枝へ、幹から幹へ。

ボクは速い。

速いのだけが取り柄だ。

そのとき、茂みの向こうで草が揺れた。

ぴくり、と耳が動く。

スネルラビットだ。

尻尾が蛇になっている、ちょっと厄介な魔獣。

でも、あれの肉は美味しい。

旅の途中で、リラが嬉しそうに食べていた。

あれなら喜ぶ。

ボクは粘糸を放つ。

びゅっ。

ぐるぐるぐる。

一発で見事に絡まる。

スネルラビットはもがくが、もう遅い。

ふふん。

完璧だ。

さすがボク。

地面に降り立ち、獲物を持ち帰ろうと押す。

……動かない。

押し方が悪かったのかな。

次は引いてみる。

……動かない。

押しても、引いても、びくともしない。

そういえば。

いつもはリラが運んでいた。

ボクは速いだけだ。

力は、そんなに……ない。

ガーン……!

いや、まだ諦めない。

運べないなら、分解すればいいんだ。

そう思って、じっとスネルラビットを見た。

どうやって?

ボクは速いのと粘糸が得意なだけだ。

切る技も、解体の知識もない。

うーん、と唸っていると。

するり。

粘糸の隙間から、蛇の尻尾部分が抜け出し、しゅるりとこちらに伸びてくる。

えっ。

慌ててひゅん、と横に跳ぶ。

ボクがいた場所に、ばちんと蛇のしっぽが叩きつけられる。

地面がへこんでいた。

むり!

ボクは即座に撤退した。

命あっての養いだ。

獲物は、また今度にしよう。

作戦変更。

リラはフルーツも好きだ。

なら、フルーツを山ほど持って帰ればいい。

森の奥で、赤い実を見つけた。

野イチゴだ。

ひょい、ひょい、と美味しそうなのを選びながら摘むが、

……二個で両手がいっぱいになった。

あれ?

ボクの手はリラの手より、うんと小さい。

どうする。

どうする、ボク。

そのとき、ふとリラの姿が浮かぶ。

布で荷物をきゅっと包んでいた。

あれだ。

ボクは大きめの葉っぱを引きちぎり、野イチゴをのせる。

そのまま、くるんと包んだ。

完璧だ。

ボクは葉っぱ包みを抱え、街へと戻った。

店の前に来ると、ちょうど忙しそうな時間帯だった。

人の声。

パンの匂い。

リラの声。

……よし。

正面からは入れない。

ボクはいつもの二階の小窓から、こっそり侵入する。

窓辺に着地し、そっと葉っぱを広げると。

……。

中には、野イチゴが二つ。

だけ。

葉っぱには、小さな穴があいていた。

たぶん途中で落ちたんだ。

ガーン……!

これでは足りない。

全然、足りない。

これではリラのお腹は満たされない。

ボクは葉っぱをぎゅっと握りしめる。

まだ大丈夫。

もう一回行けば、暗くなる前に帰ってこれる。

ボクは再び窓から飛び出した。

日は、少しだけ傾きはじめていた。

それに押されるようにして、ボクは森へとひた走った。

朝の仕込みがひと段落して、窯の火を落とす。

手についた粉を払いながら、ふと視線を上げた。

……あれ。

オモチがいない。

さっきまで、そこにいたはずなのに。

「まあ、大丈夫だよね」

忙しいときは散歩に出ることもある。

窓からひょいっと出て、街のどこかで昼寝しているのだろう。

街の人たちから、オモチの目撃情報を聞くことも少なくない。

「お昼には戻るよね」

誰に言うでもなく、つぶやく。

それでも、胸の奥にほんの少しだけ空白ができた。

昼前。

窓販売の列が落ち着いて、店内で午後の仕込みに入る。

オモチは、まだ戻らない。

粉を計量しながら、ふと思い出す。

今朝、粉をぶちまけてたよね。

あんなこと、普段はしないのに。

もしかして、どこか怪我でもした?

……いや。

でも、怪我をしていたら外には出ないはずだ。

オモチは、過去に何度か狙われたことがある。

粘糸目当て。

そして、その存在自体の珍しさ。

理由はいくつもあった。

普通なら、そもそも姿を見つけることすら難しい魔獣だ。

でも、私と一緒にいることで、人目に触れる機会が増える。

そのせいで、何度か面倒なことに巻き込まれたこともあった。

だから私とオモチは、冒険者ギルドで身を守る方法を模索した。

一緒にいるために。

そして、自由を得るために。

依頼を受け、戦い方を覚え、逃げ方も覚えた。

それでも――

一度、大きな怪我をしたことがある。

その後を狙われた。

弱っていると踏んだのだろう。

その経験があってから、私たちは決めた。

怪我をしているときは、外に出ない。

それが、今まで生き残ってきたやり方だった。

怪我をしていないのなら、戻って来るだろう。

……たぶん。

商会にいたころは、旅先で何日も顔を合わせないことだってあった。

……考えすぎだよね。

魔獣を連れ込めない場所もあったし、オモチだって自分の都合で動いていた。

それなのに。

いつのまにか、ここでの生活が当たり前になっていた。

窓の向こうに、あの白い影があるのが当然になっていた。

昼を過ぎても、姿は見えない。

まだ大丈夫。

そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが残った。