軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「王太子の鎖」

夕暮れの学園棟に、鐘の音が落ちた。

卒業パーティー前日。学園の廊下は明日の準備で慌ただしく、生徒たちが飾り付けの資材を運び、教師たちが会場の配置を確認している。その喧騒から離れた旧館の一角に、図書室はいつも通り静かにあった。

私はカウンターで、最後の書類整理をしていた。

昨夜まとめた告発書類の束。証拠の時系列リスト、文書番号の対応表、ヴィオラの調査メモとギルベルトの資料を突合した全体図、エレーヌの証言の要点、カティアが集めた証言者のリスト。すべてを一つの書類にまとめ、番号を振り、読み上げる順序を整えた。

前世の図書館で、レファレンス資料を作るときと同じ手順だった。事実を並べ、出典を明記し、誰が読んでも同じ結論に辿り着けるように構成する。

この書類が、明日の卒業パーティーで使われる。

私の手元を離れた後、この書類がどう使われるかは、もう私の仕事ではない。表舞台に立つのはギルベルトであり、王太子アレクシスだ。

書類の最後のページを確認し、綴じ紐で束ねた。

これで、図書室管理係にできることは終わりだ。

今日、ギルベルトは図書室に来ていない。

彼は学園棟の面談室で、王太子アレクシス・ルーヴェンと会っている。宰相家次男の立場で面会を申し入れた。学園内の面談室での私的な面会は、近衛が室外で待機する規則になっている。二人きりで話ができる場所だ。

私がそれを知っているのは、ギルベルトが昨日の閉館後にカウンターで書類を受け取ったとき、明日の予定を話してくれたからだ。

「王太子に、すべてを見せる。試験記録の補正のことも」

「補正?」

「王太子選定試験のとき、神殿が魔力測定の数値を補正していた。アレクシス殿下ご本人は知らなかった。だが聖女はそれを不正として脅迫材料に使っている」

「殿下は脅迫されていた——」

「そうだ。だから断罪を実行させられている。自分の意志ではなく、聖女の筋書き通りに」

ギルベルトの声は平坦だったが、目には怒りがあった。母を冤罪に追い込んだ聖女への怒りと、同じ仕組みで縛られている王太子への共感が混在していた。

「殿下に、補正の記録を見せる。補正は神殿が勝手に行ったもので、殿下に不正の意図はなかったことを、資料で証明する。脅迫材料が無効であることを理解してもらえれば、殿下は自分の意志で動ける」

「ギルベルト様」

「何だ」

「殿下がそれを受け入れなかったら、どうするんですか」

「受け入れる。あの人は公正な人間だ。真実を知れば、正しい選択をする」

迷いのない声だった。ギルベルトがアレクシスを信じている。復讐のためではなく、正義のために動いている。それが伝わってきた。

面談室でのことを、私は知らない。

書類を渡した後、私は図書室に戻った。あとは待つだけだ。

閉架書庫の棚を確認し、返却された本を戻し、目録帳の最後のページに今日の日付を記入した。三年間かけて作り直した目録帳は、もう一冊では収まらず、三冊に増えていた。

棚の間を歩いた。薬学の棚。エレーヌが最初に本を手に取った場所。神殿制度の棚。ギルベルトがいつも座っていた席の近く。歴史の棚。ヴィオラに時系列の整理を頼まれたあの日、資料を広げたテーブル。

三年間の記憶が、棚の一つ一つに染みついていた。

カウンターに戻ると、図書室の扉が開いた。

ギルベルトだった。

表情を見て、わかった。うまくいったのだと。

「殿下は、公表すると決めた」

ギルベルトはカウンターの前に立ち、静かに言った。

「試験記録の補正を自ら公表する。聖女の脅迫材料を、自分の手で無効にする」

「それは——王太子としての地位を危うくする選択では」

「殿下はこう言った。『補正を知らなかったとはいえ、それを黙っていた期間がある。公表すれば王太子の資格を問われるかもしれない。だが、脅迫に屈し続けることのほうが王族の名を汚す』と」

ギルベルトの声が、わずかに揺れた。

「僕が証拠を見せたとき、殿下は長い間黙っていた。それから、こう言った。『ヴァイス。お前の母上の件も、私が断罪の場で使われたことも、全てあの者の策略だったのか』」

「……」

「僕は答えた。『はい。ですがこの証拠は、正当な手段で集めたものです。殿下が自らの意志で公表されれば、それは不正ではなく誠実さの証明になります』」

ギルベルトが目を伏せた。

「殿下は、立ち上がって窓の外を見ていた。長い時間だった。それから振り返って、『準備を進めろ』と」

鎖が切れた。

王太子を縛っていた脅迫が、無力化された。

「宰相——お父様からの連絡は」

「ある。神殿監査局の再稼働を手配したと。監査官を卒業パーティーに派遣する準備が整っている」

すべての歯車が噛み合った。

王太子の告発。神殿監査局の公的裏付け。エレーヌの証言。カティアの証言者。ヴィオラの状況証拠。そして、それらを一つの書類にまとめた私の仕事。

「書類は、殿下に渡した」

「はい」

「殿下は読み終わった後、一言だけ言った。『これを整理した者は誰だ』と。僕は答えなかった」

「……なぜ」

「名前を出せば、君が標的になる。まだ聖女の目が光っている間は」

ギルベルトは鞄を肩にかけた。

「明日、すべてが終わる。それまでは、君は目立たない存在のままでいてくれ」

「目立たない存在のまま、ですか」

「最後の一日だけだ。明日が終われば——」

言いかけて、止まった。いつもの癖だ。言葉を飲み込んで、別のことを言う。

「明日が終われば、君はもう透明でいなくていい」

それだけ言って、ギルベルトは図書室を出た。

一人になった。

窓の外は暗い。星が見えていた。明日は晴れるかもしれない。

カウンターの上には何もない。書類はギルベルトに渡した。目録帳は棚に戻した。返却台は空だ。

三年間の仕事が、全部終わった。

明日、卒業パーティーで何が起きるか。王太子が演壇に立ち、聖女の不正を告発する。私が整理した書類が証拠として読み上げられる。エレーヌが証言台に立つ。カティアの冤罪が晴れる。ヴィオラの名誉が回復する。ギルベルトの母の再審が決まる。

そのすべてを、私は客席の後方で見ることになる。子爵令嬢が座る席から。モブとして。

それでいい。

私の仕事はここまでだ。あとは、みんなが動く番だ。

図書室の灯りを消した。鍵をかけた。最後にもう一度、扉に手を触れた。

三年間、毎日この扉を開けて、閉めた。古い木の感触は、手に馴染んでいた。

「おつかれさま」

誰もいない廊下で、小さく呟いた。

図書室に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。

寮への道を歩いた。星が多かった。明日の空も、きっと澄んでいるだろう。

足を止めて、空を見上げた。

三年前の入学の朝、鏡の前で「モブになる」と決めた自分を思い出した。あの日の私に、今の状況を教えたら何と言うだろう。

たぶん、「なんでそうなる」と言う。

少しだけ笑った。

歩き出した。明日は、卒業パーティーだ。