軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「誓いの朝」

「ロゼリア、起きているか」

ギルベルトの声が、扉の向こうから聞こえた。

起きていた。夜明け前から目が覚めていた。子爵家ではなく、宰相府の客間。昨日の夜、子爵家の書斎で灯りを消した後、宰相府に移った。婚姻式の当日は宰相府から出発する慣例だった。ギルベルトの母が教えてくれた慣例の一つ。

「起きています」

「朝食は、母が用意している。時間があるうちに食べておけ」

足音が遠ざかった。

窓の外を見た。冬の朝。空がまだ暗い。東の端だけが、かすかに白み始めていた。

今日だ。

今日、名前が変わる。

客間の鏡に向かった。昨夜のうちにカティアが届けてくれた衣装が、部屋の隅に掛けてある。まだ着ていない。まず顔を洗い、髪を整える。

髪を結い上げる手が、震えなかった。

宰相家の茶会で初めて髪を結い上げたときは、四度やり直した。今日は一度で決まった。ギルベルトの母に教わった結い方。宰相家の正式な場にふさわしい形。

衣装に袖を通した。

トーレス家の紋章が入った正装。白を基調とした、子爵家の婚姻衣装。宰相家の婚姻ではなく、トーレス家の娘としての最後の正装だった。ギルベルトの母と相談して決めた。宰相家に嫁ぐのだから宰相家の衣装を着るべきだという意見もあったが、母が「トーレス家の娘として来てほしい」と言ってくれた。

手には何も持っていない。

証書も、報告書も、記録も。今日は何も持たない。必要なものは全て、ここに来るまでに集めてきた。

宰相府の大広間。

冬の朝の光が、高い窓から差し込んでいた。白い光。冷たく、澄んでいた。

大広間は既に整えられていた。長いテーブルは片付けられ、代わりに椅子が並んでいた。正面に宰相家の紋章。その隣に王国の紋章。壁には冬の白い花が飾られていた。ギルベルトの母が選んだ花。

列席者が入り始めていた。

公爵家。侯爵家。伯爵家。王府の高官。神殿の要職者。社交界の主要な人物たち。招待客リストに載っていた全ての名前が、ここにいた。

上席に、父が座っていた。

トーレス子爵。正装。背筋を伸ばして、前を見ていた。「堂々と座らせてもらう」と言った通りだった。隣の席は空いている。本来なら母が座る席だが、子爵家には母はいない。空席のままにしてある。それも父が決めたことだった。

カティアが前列の端に座っていた。目が合った。小さく頷いた。大丈夫、という合図。公爵令嬢としての落ち着きと、友人としての温かさが、その目にあった。

ヴィオラがカティアの隣にいた。笑っていた。口だけ動かした。「泣くな」と言っている。

エレーヌが静かに一礼した。伯爵令嬢の礼。神殿の情報を届けてくれた友人。穏やかな目だった。

アレクシス王太子の姿があった。大広間の上座。王家の列席を示す場所。護衛の騎士が二名、控えていた。王太子の表情は穏やかだった。政治的な列席であると同時に、報告書への評価の延長。その二つが重なる表情だった。

宰相が正装で立っていた。大広間の正面。宰相家の当主として、婚姻式を執り行う立場。表情は厳しかった。だが、厳しさの中に、かすかな柔らかさがあった。「よろしく頼む」と言ったときの声を思い出した。

クラウスがギルベルトの隣に立っていた。宰相家の長男。弟の傍に立つ兄。表情は硬かった。だが、あの応接間で「弟を頼む」と言ったときの目と同じだった。硬さの奥に、信頼があった。

ギルベルトの母が前列に座っていた。穏やかな顔。修道院から帰還した人。「完璧である必要はない。誠実であればいい」と言ってくれた人。目が潤んでいた。涙を拭おうとして、拭わなかった。そのままにしていた。

ギルベルトが、正面に立っていた。

宰相家の次男。正装。黒を基調とした宰相家の礼服。背が高い。いつもより少しだけ緊張した顔をしていた。

目が合った。

ギルベルトが微笑んだ。小さく、だが確かに。

私は大広間に入った。

足音が響いた。

白い衣装が、冬の朝の光に照らされていた。トーレス家の紋章。子爵令嬢として、最後に歩く道。

列席者の視線が集まった。社交界の目。政界の目。友人の目。家族の目。

全ての目の中を歩いた。

正面まで来た。

ギルベルトの隣に立った。

近い。いつもの距離。茶房で隣に座ったときの距離。宰相府の廊下で手を繋いだときの距離。だが、今日は違う意味を持つ距離だった。

宰相が前に出た。

婚姻の誓約。宰相家の当主が執り行う形式。王国の法に基づく正式な手続き。

宰相の声が、大広間に響いた。婚姻の誓約の文言。王国の慣例に従った、古い言葉。私の名前が呼ばれた。

「ロゼリア・トーレス」

子爵令嬢として、最後に呼ばれる名前。

心臓が鳴った。大きく、一度。

次に呼ばれるときは、違う名前になる。

ギルベルトの名前が呼ばれた。

「ギルベルト・ヴァイス」

二つの名前が、大広間の空気の中で並んだ。

誓約の言葉。ギルベルトが先に述べた。宰相家の慣例に従い、婚姻の誓いを。声は落ち着いていた。だが、手がわずかに震えていた。私だけが気づいた。隣に立っているから。

私の番が来た。

誓約の言葉を述べた。声が震えなかった。一度も。ギルベルトの母に教わった言葉。何度も練習した言葉。だが、練習のときとは違った。言葉に、重さがあった。

誓約が終わった。

ギルベルトが私を見た。

「ロゼリア」

名前を呼ばれた。婚約者としてではなく、妻として。初めての呼び方ではない。いつもと同じ「ロゼリア」。だが、今日からその名前の意味が変わった。

「はい」

答えた。

それだけだった。名前を呼ばれて、答えた。婚約公表の日と同じ。だが、今日は違った。今日は、「ロゼリア・ヴァイス」として答えた。

宰相が二人の前に立った。

短い祝辞。

「よくここまで来た」

宰相の声は低く、静かだった。政治家の声ではなかった。父親の声だった。再審の結果を聞いたときよりも。報告書を読んだときよりも。婚約を承認したときよりも。短く、だが重い言葉だった。

クラウスが小さく頷いた。口元がわずかに動いた。言葉にはならなかった。だが、頷きの中に、全てがあった。

ギルベルトの母が涙を拭った。今度は、拭った。静かに、穏やかに。

ギルベルトの手が、私の手を取った。

温かかった。

何度も繋いだ手。茶房で。宰相府で。子爵家の前で。大広間で。

今日からは、同じ家で。同じ名前で。

名前が変わっても、自分は変わらない。

その確信が、手のひらの温かさと一緒に、胸の奥に沁み込んでいった。