軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「聖女の条件」

聖女の条件は、神託を受けた実績だった。

それが、変わろうとしている。

エレーヌからの手紙は、いつも丁寧な筆跡で書かれている。だが、今回の内容は丁寧さとは裏腹に、私の心臓を一拍止めるものだった。

「存続派が新聖女の候補選定を開始しました。ただし、従来の条件である『神託を受けた実績』では候補者が見つからないため、女官長イルメラが新たな基準を提案しています。『神託の実績ではなく、神殿の正義に貢献した人物』を聖女とする、という内容です」

ここまでは、政治の話だった。存続派が制度を維持するために基準を変える。理解できる。

問題は、次の一文だった。

「この新基準の文脈で、ロゼリアさんの名前が候補として挙がっています」

手紙を持つ手が、止まった。

私が聖女?

想像したこともなかった。完全に想定外の事態。

子爵令嬢で、前世は図書館司書で、学園ではモブだった私が、聖女候補。どこをどう間違えばそうなるのか。

だが、考えてみれば筋は通る。再審の証拠整理者として神殿法廷に名前が残っている。冤罪を覆し、不正を暴いた。それを「神殿の正義に貢献した」と読み替えれば、新基準に合致する。

合致してしまう。

最初の反応は明確だった。辞退する。

聖女になるつもりはない。聖女の座に興味はない。私が望んでいるのは、ギルベルトの隣に立つことだ。聖女になれば、宰相家との婚約はなくなる。聖女は神殿に属する存在であり、特定の貴族家に嫁ぐことは制度上許されない。

辞退する。それだけの話だ。

そう思った。だが、エレーヌの手紙にはさらに続きがあった。

「聖女候補の推挙は神殿が行い、王が裁可します。推挙段階で本人の意志は考慮されますが、政治的に推挙された候補を辞退することは、推挙者の面子を潰すことになります。存続派を敵に回す可能性があります」

面子。政治。

また、この種類の問題だ。

カティアに相談したのは、翌日の午後だった。

ヴァレンシュタイン公爵家の別邸。いつもの応接間。ヴィオラも来ていた。

エレーヌの手紙の内容を伝えた。

カティアの表情は変わらなかった。予想していたのかもしれない。

「聖女候補の辞退は簡単ではないわ」

紅茶を注ぎながら、カティアが言った。

「安易に辞退すれば、改革派に利用される。『子爵令嬢でさえ聖女にはなりたくない。制度に価値がない証拠だ』と。存続派を敵に回せば、宰相家との婚約にも影響する。存続派には神殿内部の人脈があり、宰相府との関係にも口を出せる立場の人間がいる」

「辞退しても問題。受諾しても問題」

「そういうこと」

ヴィオラが腕を組んだ。

「受諾したらどうなるの」

「聖女になれば、ギルベルトとの婚約はなくなるわ。聖女は神殿に属する。特定の貴族家に嫁ぐことはできない」

「じゃあ、受諾なんてあり得ないでしょ」

「そうよ。だから、辞退も受諾もできない」

ヴィオラが眉を上げた。

「どっちもできないって、じゃあどうするのよ」

カティアが私を見た。

「ロゼリア。あなたはどうしたい」

どうしたい。

聖女になりたくない。それは確かだ。ギルベルトの隣に立ちたい。それも確かだ。

だが、聖女制度の問題から目を逸らすことはできない。制度に問題があることは知っている。ルドヴィクの言葉は否定できなかった。存続派が新基準を提案していること自体が、従来の制度が機能していない証拠だ。

「辞退も受諾もしない」

声に出した。自分でも驚いた。考えがまとまる前に、口が動いていた。

「保留する。今は判断しない」

カティアが少し目を細めた。

「保留は、時間稼ぎにはなるわ。だけど、いつまでも持たない」

「分かっています。だから、保留している間に状況を見極めます」

「何を見極めるの」

「イルメラの真意です。存続派が本当に私を聖女にしたいのか、それとも別の目的があるのか」

カティアが紅茶のカップを置いた。

「鋭いわね」

ヴィオラが首を傾げた。

「別の目的って?」

「まだ分かりません。だから、保留して観察します」

その日の夕方、ギルベルトが子爵家を訪ねてきた。

応接間で、エレーヌの手紙とカティアとの会話の内容を伝えた。

ギルベルトは黙って聞いていた。表情は動かなかった。だが、目の奥に、何かが走ったのを見た。

「聖女候補か」

低い声だった。

「聖女になる必要はない」

「分かっています」

「だが」

ギルベルトが少し間を置いた。

「この状況を、政治的に見れば」

「見れば?」

「聖女候補という立場は、婚約の障壁を取り除ける可能性がある」

政治的に。

その言葉に、胸の中で何かが引っかかった。

「どういう意味ですか」

「聖女候補に推挙されるほどの人物が、宰相家に嫁ぐ。それは宰相家にとって政治的な利益になる。父が求めている『政治的合理性』の一つになり得る」

理屈は分かった。聖女候補という肩書きが、子爵令嬢という身分の低さを補う。宰相家が私を迎える理由になる。

だが。

「利用するのは嫌です」

声が硬くなった。自分でも分かるほどに。

「聖女候補という立場を、婚約のための道具にするのは。ルドヴィクに名前を使われたのと、何が違うんですか」

ギルベルトが一瞬、言葉を止めた。

沈黙が落ちた。応接間の時計が秒を刻む音が聞こえた。

「すまない。配慮が足りなかった」

ギルベルトの声は静かだった。

「君の言う通りだ。利用するという発想は、ルドヴィクと同じだ」

「ギルベルト様が悪いわけではありません。政治的に考えれば、あなたの分析は正しいです」

「正しくても、君を傷つけたなら意味がない」

目が合った。ギルベルトの目には、悔いがあった。先回りして政治的な計算をしてしまう癖。それを自覚している目だった。

「ただ」

私は続けた。

「政治的な現実を無視できないことも分かっています。聖女候補という状況を、どう扱うか。それは自分で決めます」

「決める、とは」

「まだ分かりません。でも、誰かに利用されるのではなく、自分で選びたい」

ギルベルトが、小さく頷いた。

「君は、いつもそうだ」

「そうですか」

「自分で選ぶ。それが君だ」

その言葉が、静かに胸に落ちた。

学園時代は、選ぶことさえなかった。モブだった頃の私には、選択肢がなかった。図書室で本を並べ替えるだけの日々に、選ぶべきものなどなかった。

社交界に出て、名前を出した。再審で証拠を整理した。ルドヴィクに直接会い、自分の名前を守った。

一つずつ、選んできた。

今度は、聖女候補という想定外の状況で、何を選ぶか。

まだ答えは出ない。

だが、選ぶのは私だ。

ギルベルトが帰った後、書斎に戻った。

窓の外は暗くなっていた。秋の夜。月が細く光っている。

机の上にエレーヌの手紙を広げた。もう一度、最後まで読み返す。

手紙の末尾に、一文が添えられていた。

「なお、イルメラ女官長がロゼリアさんを公式に聖女候補として推挙する動きがあるとの情報があります。ただし、イルメラ女官長の真意については、神殿内部でも見方が分かれています。ロゼリアさんを本当に聖女にしたいのではなく、辞退を引き出すことで『子爵令嬢には聖女の資格がない』と印象づけるのが目的ではないか、という見方もあります」

辞退を引き出す。

読み終えて、椅子の背にもたれた。

もしエレーヌの情報が正しければ、イルメラは私を聖女にするつもりはない。推挙して、辞退させて、「やはり子爵令嬢には無理だった」と社交界に印象づける。身分による否定。それがイルメラの狙い。

辞退すれば罠にかかる。受諾すれば婚約を失う。

二つの選択肢。どちらも不利。

だが、選択肢は二つだけとは限らない。

カティアに言った。「保留して観察する」と。だが、観察だけでは足りない。イルメラが動けば、保留は許されなくなる。

自分で選ぶ。

ギルベルトの言葉が、耳に残っていた。

まだ、何を選ぶか分からない。でも、また駒にされるのは嫌だ。学園のときは目立たない存在だった。社交界では名前を出した。今度は、聖女候補という想定外の場所に立たされている。

でも、今回は違う。

前は、巻き込まれるだけだった。流されるだけだった。

今は、自分で選べる。

選ぶための材料が足りないなら、集める。事実を整理して、判断する。それが私にできることだ。

机の上の便箋に手を伸ばした。

エレーヌに返事を書く。イルメラの動きについて、もう少し詳しい情報がほしい。

ペンを取った。

窓の外の細い月が、書斎の机をわずかに照らしていた。

また駒にされるかもしれない。でも、今度は自分で選ぶ。

それだけが、学園にいた頃の自分との、一番大きな違いだった。