軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「兄の影」

ギルベルトの母が修道院に送られたのは、八年前のことだった。

宰相府の廊下を歩きながら、その事実の重さを改めて考えていた。八年。ギルベルトが十三歳の頃だ。母を奪われた少年が、八年間かけて証拠を集め、再審にまで辿り着いた。

その再審を、今、私は手伝っている。

神殿記録庫から持ち帰った文書の写しを、再審用の書式に整える作業。宰相府の書庫で、ギルベルトと二人で進めていた。

書庫に向かう廊下の途中で、足音が聞こえた。

前方からではない。横の通路から。

「ギルベルト」

低く、抑えた声だった。

クラウス・ヴァイスが、通路の角に立っていた。

宰相家の長男。ギルベルトの兄。灰色がかった黒髪は父親に似ているが、顔立ちはもう少し鋭い。宰相府の正装をきっちりと着こなし、胸元には宰相家の紋章。

以前、宰相府を初めて訪れたときに応対した人物だった。あのとき、彼は私を「弟の学友の方ですか」と呼んだ。丁寧だが冷淡な声で。

クラウスの視線が、ギルベルトの後ろにいる私を捉えた。

「また、連れてきたのか」

ギルベルトの足が止まった。

「兄上。トーレス嬢は再審の書類整理を——」

「知っている」

クラウスが遮った。声は低いまま、廊下に響かないよう抑えられていた。だが、その抑え方自体が威圧だった。

「お前のやっていることは、家門の名を使った私的な調査だ」

「私的な調査ではありません。再審は宰相府が正式に——」

「正式に進めているのは宰相府だ。お前個人ではない。まして、部外者を巻き込んで」

部外者。

その言葉が、私に向けられていることは明白だった。

クラウスが私を見た。目が合った。彼の目は宰相に似ていた。感情を読ませない目。だが、宰相の目が政治的な計測だったのに対し、クラウスの目には別のものがあった。

苛立ちだ。

宰相家の長男としての、体面への苛立ち。弟が子爵令嬢を宰相府に出入りさせていることへの、明確な不快感。

「トーレス嬢」

名前を呼ばれた。クラウスの声は丁寧だった。だが、その丁寧さは距離を示すためのものだった。

「弟を惑わせないでいただきたい」

一礼した。深く。子爵令嬢から宰相家長男への礼。

「ご不快をおかけしております」

それしか言えなかった。

子爵令嬢が宰相家長男に意見できる立場ではない。身分が違う。格が違う。クラウスの言葉がどれほど不当であっても、この廊下で私が反論することは、社会の秩序を無視する行為になる。

「兄上」

ギルベルトの声が変わった。穏やかさが消えていた。

「彼女は部外者ではない。僕が信頼している人だ」

廊下の空気が凍った。

ギルベルトの目がまっすぐクラウスを見ていた。学園時代、脅迫メモを見つけたときの目に似ていた。静かだが、引かない目。

「信頼?」

クラウスの眉が、わずかに動いた。

「お前がどう思おうと自由だが、宰相家の人間として言っておく。子爵家の令嬢が宰相府に出入りしている。それだけで、社交界では十分な噂になる。母上の再審に水を差すつもりか」

「再審に水を差しているのは、兄上の方だ」

ギルベルトの声が鋭くなった。

クラウスの目が細くなった。兄弟の間に、亀裂が入る音が聞こえたような気がした。

「ギルベルト様」

私は口を開いた。

二人が同時にこちらを見た。

「あなたのご家族の問題を、私のせいで悪化させたくありません」

それは本心だった。ギルベルトが兄と対立している。その原因が私であることは明白だ。宰相家の兄弟関係を壊してまで、私がここにいる理由があるのか。

ギルベルトが首を振った。

「君のせいではない」

「しかし——」

「君のせいではない」

二度、同じ言葉を繰り返した。静かだったが、絶対に譲らない声だった。

クラウスはそれ以上何も言わなかった。私を一瞥し、ギルベルトを一瞥し、踵を返して廊下を去った。

足音が遠ざかっていく。規則正しく、硬い足音だった。

書庫に入った。

ギルベルトは何も言わなかった。私も何も言わなかった。書類を広げ、作業を再開した。だが、さっきの廊下の空気がまだ消えていなかった。

弟を惑わせないでいただきたい。

クラウスの言葉が、耳に残っていた。

惑わせている。私がいることで、ギルベルトは兄と対立し、宰相家の中での立場が悪くなっている。それは事実だ。

書類を整理する手は止めなかった。手を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。通し番号を確認し、日付順に並べ、書式に転記する。

ギルベルトが書架の前で立ち止まっていた。書類を手にしたまま、動かない。

何かを考えている。

クラウスとのやり取り。兄が宰相に何を報告するか。それが再審にどう影響するか。政治的な計算を、今この瞬間にも走らせているのだろう。

「ギルベルト様」

「はい」

「作業を続けましょう」

「……ええ」

声が、少し遠かった。ここにいるのに、遠い。

学園の図書室では、こんなことはなかった。二人で書類を並べ、時系列を突き合わせ、気がつけば日が暮れていた。あの頃は、宰相家も兄も関係なかった。

ここは宰相府だ。

二人の間にあるのは書類だけではない。家門と身分と、兄の影がある。

宰相府を出る頃には、日が傾いていた。

正門を出たところで、見覚えのある馬車が停まっているのに気づいた。ベルクハルト伯爵家の紋章。

馬車から降りてきたのは、エレーヌ・ベルクハルトだった。

栗色の髪を控えめにまとめた伯爵令嬢は、学園を卒業してからやや頬がふっくらとしていた。弟の治療が安定して、食事がまともに摂れるようになったのだろう。

「ロゼリアさん」

エレーヌの声は、学園時代と変わらなかった。穏やかで、少しだけ控えめで、けれど芯がある声。

「エレーヌ様。どうしてこちらに」

「あなたに会いに来ました。子爵家のお屋敷にお伺いしたら、宰相府にいらっしゃると聞いたので」

子爵家の屋敷に来た。わざわざ。

エレーヌが私の前に立った。背筋が伸びていた。学園の閉架書庫で、怯えた目で薬学書を読んでいた頃とは違う。

「弟の治療経過が安定しました。先月、治療院の先生から、日常生活に支障がない状態まで回復したと」

「よかった」

心からそう思った。エレーヌの弟。マリアンヌの脅迫によって安全が脅かされ、学園時代に五人で移送を実行した。あの夜のことは忘れていない。

「ロゼリアさん」

エレーヌの目が、まっすぐ私を見た。

「あなたに恩を返したい」

「恩など——」

「あります」

遮られた。エレーヌの声は穏やかだったが、有無を言わせなかった。カティアの「断ることは許しません」とは違う種類の強さだった。静かで、深くて、折れない。

「再審に必要なら、わたしが証言者として動きます。神殿での脅迫の経験があります。神殿内部の手続きも、ある程度は分かります」

エレーヌは学園時代、マリアンヌの側にいることを強いられた。神殿の内部事情に、望まない形で詳しくなった。その知識が、今は武器になる。

「保守派の司祭がいると聞いています。記録庫の管理司祭が非協力的だと」

どこでその情報を。

「カティアさんから聞きました。あの方は情報が早いですから」

カティアの情報網。公爵家の人脈は、社交界だけでなく政務にも及ぶ。

「わたしは神殿法廷に証言者として出廷した経験があります。脅迫の事実を証言しました。その際に、神殿内部の手続き——証拠の保全手続きや、記録の正式な持ち出し方を学びました」

エレーヌが一歩近づいた。

「保守派の司祭が文書の持ち出しに難色を示すなら、手続き上の根拠を突きつければいい。わたしには、その根拠を作れます」

私は黙って聞いていた。

「一人で抱え込まなくていいんですよ」

その言葉に、息が詰まった。

学園の閉架書庫で、エレーヌが初めて本を借りに来た日を思い出した。怯えた目で、薬学書を胸に抱えていた。あのとき、私は何も言わなかった。ただ、書庫に薬学書を増やしただけだ。

そして今、エレーヌがここにいる。

恩を返したい、と言っている。

かつて私がエレーヌにしたことを、エレーヌが私に返そうとしている。

「エレーヌ様」

「はい」

「ありがとうございます」

それだけ言った。それ以上は、声にならなかった。

エレーヌが帰った後、宰相府の前の通りに一人で立った。

夕暮れの王都。石畳が橙色に染まっている。何度目かの、同じ色だった。

今日、二つのことがあった。

一つは、クラウスの壁。宰相家の長男が、私を部外者と呼び、弟を惑わせるなと言った。ギルベルトは反論した。兄弟の間に亀裂が入った。

もう一つは、エレーヌの手。証言者として動く、と申し出てくれた。神殿内部の手続き知識が、保守派司祭の妨害を突破する助けになる。

壁と手。

宰相家の中からは排除の力が働き、友人たちからは支える手が差し伸べられる。

ギルベルトは「君のせいではない」と言った。

そうかもしれない。でも、私がいなければクラウスとギルベルトは対立しなかった。それも事実だ。

友人たちに支えられている。カティアが茶会で守ってくれた。ヴィオラが引き留めてくれた。エレーヌが手を差し伸べてくれた。

でも、ギルベルトは。

彼は家族と私の間で引き裂かれている。兄に反論し、父の沈黙に耐え、それでも私を書庫に招き続けている。

その重さを、私は彼に背負わせている。

背負わせたくてそうしているわけではない。でも、結果としてそうなっている。

馬車に乗った。

窓の外を流れる夕暮れの街並みを見ながら、考えた。

引くべきか。

宰相府に通うのをやめれば、クラウスの不満は収まる。ギルベルトが家族と対立する理由がなくなる。再審の書類整理は、ギルベルトが一人でもできる。私の手順書があれば。

でも。

エレーヌの言葉が耳に残っていた。

一人で抱え込まなくていい。

それは、私に向けられた言葉であると同時に、かつて私がエレーヌに示したことでもあった。閉架書庫に薬学書を並べたとき、私は無言でそう伝えたのだ。一人で抱え込まなくていい、と。

引けない。

エレーヌが来てくれた。カティアとヴィオラがいてくれる。私は一人ではない。

なら、ギルベルトも一人にしてはいけない。

彼が家族との間で引き裂かれているなら、せめて再審の仕事で支える。書類を整理し、証拠を揃え、手続きを固める。それが私にできることだ。

壁は高い。

でも、手を伸ばしてくれる人がいる。

馬車が子爵家の門を潜った。鞄の中の書類と、エレーヌの言葉を抱えて、私は馬車を降りた。

明日、エレーヌと連絡を取る。神殿の手続きについて、詳しく聞かなければならない。保守派の司祭が文書の持ち出しに難色を示すなら、その前に手を打つ必要がある。

やることは、まだある。