軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

深淵卿の夏休み編 勝利の代償

「……悪い夢でも見てんのか」

激しい戦闘音が響き渡る教会内に、震える声音が微かに響く。

リチャード警部だ。

テニスコートより少し広いくらいの空間。天井までは二階建てくらいの高さ。十字架や聖人の像などは一切飾られていないが、元は一般的な教会と同じように整然と並んでいただろう長椅子と祭壇の残骸が散乱する石造りの屋内。

その中央付近で尻餅を突いたまま、ただ呆然と目の前の光景を眺めている。

あまりの衝撃に、まるで脳と手足の神経が切れてしまったみたいにピクリとも動かず。

無理もない。半世紀以上オカルトなんて欠片も信じてこなかった男の目の前では、どうあっても理屈をつけられない超常的な戦いが繰り広げられていたのだから。

「ふははははははっ、残念! それは分身だ!!」

「変わり身の術というやつだ――ぐわぁあああっ!? こいつ、また俺の腕を!! 酷いじゃないっ、何すんのヨォ!!」

「大丈夫か、俺! 流石に三回目は飽きられるぞ!!」

大型犬くらいの大きさの黒い靄のベールで正体を隠した〝何か〟が、黒い影の如き青年達に襲いかかっていた。

それを事も無げにかわす青年――深淵卿もさることながら、おそらく四足歩行型の獣であろう怪物も尋常ではない。

着地と同時に消えたのだ。と認識した刹那には、回避した直後の青年の片腕が食い千切られていた。

背後からの奇襲か? どうやって移動した? というか、なんで腕がないのに血が出ない? そもそも同一人物か?

分からない。リチャード警部には何も分からない!! 頭がおかしくなりそうだ!

ただ青年が、本来は喉笛を狙っただろうそれを、どうやってか察知して食いつかれる寸前に〝分身〟とやらと入れ替わって回避したらしいことだけは、直後の言動や体勢からなんとなく推察できた。

そんな馬鹿な……という感想しか出てこないが。

困惑を超えて混乱している。やはり悪夢でも見ているのではないか。

だが、長年の刑事としての冷静な部分が違うと伝えてくる。何より、圧倒的リアリティが現実逃避を許してくれなかった。

「……いったい、なんだってんだ」

食い千切った腕を咥えている獣。その恐るべき戦闘能力以上に、ただ存在していること自体にどうしようもなく忌避感が湧き上がる。

食い千切られた腕が、独りでに動いて獣をナデナデしている。そのあり得ない事態以上に、ただただどうしようもない気持ち悪さが湧き上がる。

獣もそう感じたのだろうか。咥えた腕をペッした。

「はぁ!? 我、怒り心頭ッッ。そっちの方が汚いでしょうがっ!!」

深淵卿的に大変遺憾らしい。落ちた腕がファ○キューと言わんばかりに中指を立てている。そして、ボフンッと消えた。

獣は気にした素振りも見せず、本体の卿を正確に狙って飛びかかる。

同時に、腕を復元した分身体もまた怒りそのままに飛びかかった。

空中で火花が散る。獣と思しき怪物の、おそらく牙か爪と分身体が手に持つクナイが衝突したのだ。

傍目にも二メートル以上の高さで。オリンピック選手も真っ青の跳躍だ。身体能力だけでも常人のそれでないことは明白。リチャード警部の顔に乾いた笑みが浮かぶ。

その間にも弾かれた黒い靄は離れた場所に着地し、分身体もきっちりヒーロー着地を決めた。

直後、文字通り目にもとまらぬ超高速の戦闘が再開された。

入れ替わり立ち替わり、双方共に瞬間移動したとしか思えないような速度感だ。

実際、卿と分身体はクナイやコイン型のアーティファクトを利用した位置入れ替え系の転移移動も併用しているが……

果たして黒い靄が見せる超スピードはいったいなんなのか。

いずれにしろ常人からすれば、どちらも異常だ。

しかも、ダメ押しとばかりに、だ。

無数の黒いナイフが虚空に出現したかと思えば銃弾の如き速度で投擲され、それどころか敵を追尾し、あるいは飛んで戻ってくる。挙げ句の果てには火炎が噴き上がり、石畳から槍衾が突き出し、砲弾の如き突風が吹き荒れ、電撃が迸る始末。

「……はは、どっちも怪物じゃねぇか」

影の薄い男だった。職業柄、人を覚えるのは得意だというのに、自己紹介までされてなおうっかり存在を忘れてしまう。いったい何度、不意に存在を示されてギョッとしたことか。

刑事人生の中でもとびっきり奇妙な日本の青年。

それが複数人に分裂するなど……奇妙の極致だ。だが、その極致さえ置き去りにする光景が目の前に広がっている。

避難しなければ……そんな意識も働かなかった。

オカルトなんてレベルじゃない。もはやファンタジーである。

ただただ圧倒され、気圧されて、馬鹿みたいに呆然と座り込むことしかできない。

と、その時だった。

「警部殿、ここは危険ですよ」

「おわっ!?」

いきなり耳元に 囁(ささや) かれて、思わず飛び上がるリチャード警部。

いつの間にか四人目が背後にいた。

まだ増えることが出来たらしい。と思いつつも確信が持てない。

だって、おかしな話なのだ。この距離で見ても顔がよく分からない。長めの前髪のせいもあるが、なんか不自然に窓から光が差し込んで酷く見えづらいのだ。

いや、待て。そう言えば、今日は曇りでは? 日中だが不気味なくらい薄暗かったはず……

思わず一歩後退るリチャード警部。

そうすれば当然、見える角度も変わるのだが……

今度は舞う埃に光が反射してやっぱり判然としない!!

「お、俺に近寄るんじゃねぇ!!」

「ひどいっ、我を怪物みたいに!!」

ワッと両手で顔を覆う深淵卿。そのせいで、やっぱり顔が見えない!! わざとなのか!? そんなに顔を見られたくないのか!? なぜ!?

自分がビビっていることを明確に自覚する。

だが虚勢も張れない。どんな凶悪な犯罪者を前にしても、むしろ不敵に笑ってきたというのに!

無意識に腰のホルスターに手を伸ばす。しかし、三十年以上、己を守ってきた頼りになる相棒はなく、今日ほどそれを心細く思ったことはない。

半ばパニックに陥りかけたリチャード警部だが、その瞬間、轟音に鼓膜をぶっ叩かれて思わず身を竦める。

そして、音の方へ反射的に視線を転じた。

「ようやく直撃であるな」

「漆黒のベールに包まれたその正体! 今こそ白日のもとに――やだぁっきもちわるいじゃないっ」

なぜ本日の分身体その2は、時折オネエ口調が出るのか。先程まで妖精界で漢女神と接していた影響だろうか? それとも〝深淵卿〟は新たなステージに?

出入り口の扉からトーテムポールのように様子を窺っていた陽晴達が顔を見合わせている。後で問い詰めねば。場合によってはブラウたんにも、と。

何はともあれ、卿がこっそり設置していた爆弾ブービートラップに誘導され物理&魔力衝撃波をもろに受けた襲撃者――黒い靄を纏った犬の如き怪物は、ダメージに苦しみふらつきながら、そのベールの奥の姿を晒した。

「「「「「うっ」」」」」

思わず呻き声を上げたのは陽晴達だ。緋月以外、誰もが思わず口元を押さえ、あるいは目を逸らしている。まるで吐き気に耐えるように。エージェントKに至っては、実際に四つん這いになって吐いていた。

当の緋月も吐き気こそないようだが顔をしかめている。

それほどに、その獣は醜悪だった。否、果たしてそれを獣と呼ぶべきなのか……

目の前にしていても酷く現実感がない。幽体でも見ているかのようだ。

だが、強いてその姿を表現するなら、群青色の濃汁を犬の形に圧し固めたような姿、と表現すべきか。ただし、目や鼻、それに耳も確認できない。

一部、硬質な質感も見える。牙や爪はもちろん、曲がりくねった異様に長い舌の先端も針のように鋭い。よく見れば、まるで注射針のように穴が開いているようだ。

加えて酷い悪臭を放っている。腐った卵の臭いを濃縮したような、あるいは高濃度のアンモニアにも似た、表現し難い刺激臭。

黒い靄の如きベールは、ある意味、救いだった。

見ているだけで人の精神を削るような悪夢めいた姿や臭いを覆ってくれていたのだから。

「……これはこれは……中々に冒涜的であるな」

珍しくも深淵卿の表情が固い。本能が訴えているのだ。

これはダメだ。これはいけない。

理由は分からないが、ただ直感が囁くのだ。

「こ、浩様! それは……それはダメです! 討滅しなければ!」

どうやら、直感力に優れた陽晴も同じように感じたらしい。

なぜそう感じるのかは、きっと陽晴にも説明はできないだろう。

直感というより、これはもはや本能的な忌避感、あるいは拒絶感。何か……そう、あえて表現するなら〝この世界のルールを逸脱した存在〟と感じるというべきか。

「……未知が過ぎる、な」

実は、卿は様子見をしていた。試していたと言ってもいい。

健比古から片腕を奪った怪物の話は聞いていたが故だ。

健比古達もこの教会モドキの中に調査に来て襲われたのである。

腕を持っていかれがちな健比古だが、その実力は本物だ。土御門家の当主が弱いわけがなく、実戦経験を積み上げた今ならなおさら。

実際、健比古以外が襲われていたら気が付く間もなく死んでいただろう。

あらかじめ張っていた結界が一瞬、この怪物の動きを止めたこと。万が一に備えて懐に忍ばせていたとっておきの〝式〟、そして陽晴には及ばずとも一流の陰陽師として有する直感力。

一つでも欠けていたら命はなかった。健比古だからこそ、辛うじて身を捻ることができ片腕だけで済んだのだ。

また、その後も最善手を取り続けたからこそ生き残れたに違いない。

エージェントJが未知の襲撃者を前に〝開けた場所に出るべき〟と即断したこと、清武が出し惜しみせず怒濤の〝式〟による数の暴力で獣の怪物を僅かでも足止めしたことで教会を脱出できたこと。

そして、なぜかこの獣の怪物が教会の外までは追って来なかったという〝運〟。

これまた、どれか一つの要素でも欠けていたら、少なくとも健比古の命はなかったに違いない。

閑話休題。

(恐るべき神出鬼没性と速度。この場で相手にできるのは我か緋月くらいだ。一流の暗殺者も真っ青の危険性である。万が一にも逃がせんな)

健比古の治療中、陽晴に傍にいてもらったのは、まさに、この神出鬼没性への対策だった。彼女の直感力なら事前に察知できるかもしれないと思ったが故に。

実際には、そもそも出現と出現後の移動速度が速すぎて警告が間に合わなかったわけだが……

(なぜ、教会の外まで追って来なかったのか。今も我以外に狙う様子がないのはなぜ? 外はグールの群れに任せている? 関係性は? こいつが黒幕なのか? 他にも同種が?)

疑問は尽きない。だが、意思疎通が不可能なことは、戦いながら何度も試して確認したこと。そもそも知能があるようにさえも見えない。

この獣の怪物から話を聞くなんて真似は不可能だろう。わざと逃がして、どこから来たのか、黒幕はいるのか、なんてことを確かめるのは危険すぎる。

何より本能が告げている。目の前の存在は、今ここで確実に仕留めるべきだと。

「まぁ、最低限の情報は得た。贅沢はすまいよ」

故に、卿は吹っ切るように短く呼気を漏らした。

「そろそろ終幕といこうではないか!」

百戦錬磨の深淵卿相手に、これだけ戦ったのだ。最低限の情報――神出鬼没と超速度の秘密を看破されないわけもない。

看破して、否、看破したからこそなお恐ろしきそれに、しかし、卿は対応する。

最もシンプルかつ効率的な方法で!

「「「「ハァッ!!」」」」

深淵卿と三人の分身体から裂帛の気合いが迸った!!

「「「きゃぁっ」」」

「「ほほぅ?」」

陽晴とクラウディア、意外にも 朱(シウ) からは可愛らしい声が上がり、ヴァネッサと緋月からはニヤついた声が上がる。

そして、男性陣からは、

「「「「な、なぜ脱いだぁっ!!?」」」」

盛大なツッコミが迸った。

そう、戦場には今、パンイチの深淵卿四人が並び立っていた! それぞれ別々の香ばしいポージングを取りながら!

寸鉄すら帯びぬ姿、しかし、トレードマークのサングラスだけはしている。ただし、いつものシャープなタイプではなく、 丸(ラウンド) 型タイプに変わっているが。

パンイチで、丸型サングラスを付けて、ポージング……

それは紛う事なき、

「「へ、変態だぁーーーーーっ!!」」

である。エージェントJとKは困惑の極みにありそうだ。

ちなみに、浩介氏はボクサーパンツ派である。本日はグレー色。

陽晴ちゃん&クラウディアちゃん&朱ちゃんが揃って両手で顔を覆いながらも、お約束の〝指の隙間から覗く!〟をしていらっしゃる。

そんな外野へフッをしつつ、あとついでにクラウディアへ〝宝物庫〟を投げ渡しつつ、

「「風遁―― 漆黒之(ふきすさぶし) 大旋風(んえんのなげき) !!」」

分身体二体が背中合わせでシンメトリーにサイドチェストを決めた。もちろん、魔法を使うのにそんなポージングは必要ない。

むしろ、事態は悪化した。腕と足の角度のせいもあって、まるで履いていないかのように見えたのだ!!

「「安心してくれたまえ!! 履いてますよ!!」」

「やかましいわ!!」

「おひぃ様になんてもん見せやがる!!」

土御門親子が目を吊り上げて怒った。実に真っ当である。当のお 姫(ひぃ) 様は顔を真っ赤にしてチラチラ見ているが。

朱さんが「子供にはまだ早い!」と後ろから手で陽晴の目を覆った。なんて良心的な大人だろう。

流石は陽晴ちゃんというべきか。最近はミュウから悪い影響を受けている節が度々見られたが、しかし、その程度で清楚ぢからは失われないらしい。

三人娘の清楚担当として大人しく目隠しを受け入れた。……一瞬、指先が刀印を作ったように見えたのは、きっと気のせいに違いない。

何はともあれ、深淵流 風属性(サイドチェスト) 魔法により竜巻が発生。周囲に散乱する長椅子の残骸が一気に巻き上げられ、天井の一部を破壊しながら共に外へ放り出されていく。

ついでとばかりにリチャード警部も吹っ飛んだ。卿が襟首を掴んで出入り口の方へぶん投げたのだ。突風の追い風もあって勢いよく水平に飛んでいく警部。

「ぎゃあああっ」と悲鳴が響き、半開きだった扉をエージェントJが慌てて開く。そして、激突。受け止めようとしたらしい。二人揃って「「ぐぇっ!?」」とくぐもった声を漏らし、仲良く抱き合いながら地面を転がっていく。

「フッ、これですっきりした。貴様にとっては、さぞ動きづらいだろうがな?」

空間が随分と広くなったように感じた。

そして、曇り空が少し晴れていたのか、それとも今の突風で雲に穴が開いたのか、太陽の光が天井の穴を通して差し込み……

変態四人衆は輝いた。太陽のスポットライト――天使の梯子に照らされて。

もちろん、背中合わせでポージングは忘れない。左右の分身体はヒーロー着地の如き体勢に、正面の卿は陽の光を一身に浴びるように両手足を大きく広げ、背後の分身体はTの字を描いている。

正面から見ると、それはまるでレオナルド・ダヴィンチが描いた有名な人体図のよう……

もはや芸術――いや、やっぱりどう足掻いても変態だっ。

と、心の中で擁護を試みたクラウディアは現実を受け入れた。

その直後、爆弾のダメージから回復したらしい獣の怪物が再び動き出した。

「コウスケさん! 私のパンティーです! 使ってください!!」

ヴァネッサがいつの間にか脱いだらしい、小さなリボンがあしらわれた意外にも可愛らしい純白のパンティーを投げ込んだ。あたかも、某パン系ヒーローの頭部を投げ込むジャム系おじさんのように!

「お前は何を言ってるんだ!?」と朱さんが鋭いツッコミを入れる。誰もが完全に同意だった。

「知らないんですか! あの姿を見れば分かるでしょう! 今の浩介さんなら……パンティーを被ることでパワーアップするって!!」

「そうなのか!? 変態すぎてもはや怖いなっ」

「ちょっとヴァネッサぁっ!? こんな姿で言うのもなんだけど、変な設定を加えないで――ぐわぁああああっ!?」

ヴァネッサの物言いに、思わず素に戻ってツッコミを入れてしまう浩介氏。流石に看過できなかったらしい。陽晴ちゃんが「え、うそ……浩様がそんな……」みたいな困惑した空気感を出していたから!

もちろん、油断しすぎである。

ヴァネッサパンティーをキャッチした手がバクッといかれてしまった。

キャッチする寸前で分身体と入れ替わったのは幸いだ。ヴァネッサが「ああ!? 私のパンティーを食べるなんて!? この変態犬めっ」と、犯人――獣の怪物を罵る。

取り敢えず、クラウディアが黙らせた。聖十字架で殴って。

「悪いが、もう不可思議な転移の絡繰りは見破らせてもらったぞ?」

「前兆も理解した」

「加えて貴様、やはりこの教会から出られないな?」

「おまけに我輩のみを狙うとは……なぜかは知らんが、逆に好都合」

「「「「全て見切った!!」」」」

獣の怪物が超高速で走り回る。常人には、もはや黒い一筋の軌跡にしか見えないほどの速度。空間が開けて縦横無尽に動けるのは何も卿だけではないということだ。

だが、

「程度は低いが、その速度……〝神速〟だろう?」

どうやってか、正確に本体の卿だけを狙う獣の怪物の顎門をするりっとかわす卿。

そう、神出鬼没だけで何度も分身体の腕を喰らえるはずがないのだ。最初の奇襲も含め、回避しきれなかったのは尋常ならざる緩急のせい。

それすなわち、通常の移動と、二地点の移動時間を短縮することで常軌を逸した移動速度を実現する再生魔法〝神速〟を、この獣の怪物が使っていたからだ。

だが、それを最も得意とする香織の速度を知る深淵卿である。

獣は、やはり見せすぎた。

「見切ったと言ったぞ!!」

柱、壁、天井……縦横無尽に超速度で疾走し、隙を窺う獣の怪物。その無数に走る黒い軌跡の中へ、卿は自ら飛び込んだ。

空中で交差する両者。刹那、異常な舌が正確に卿の心臓目がけて射出される。

身を捻って回避。

それを見越したように鋭い爪が間髪を入れず振るわれる。

空中だ。普通なら回避不能。だがしかし、卿は普通から最もほど遠いと称しても過言ではないが故に。

舞い上がる埃を踏んで微妙に軌道を変えるという離れ業で、獣の二の手も回避する。それどころか、すれ違う寸前に魂魄魔法〝衝魂〟を込めた右拳を背骨を狙って叩き込む。

ぐにゃりとした感触だった。骨の存在を感じない。だが、衝撃力は十分。

獣が地へ叩き落とされる。石畳の床が衝撃で割れるようなことはなく、獣の体の方がグシャッと生々しい音を立てて飛び散った。スライムのように。

悲鳴は出ない。今の今まで一度も鳴き声を出さなかった獣だ。発声器官がないのだろう。

だが、確かに苦悶を感じさせる響きが聞こえた。脳に直接響くようなそれは、凄まじい不快感を与えてくる。何度も聞いていれば、それだけで精神に変調を来たしそうなおぞましい鳴き声だった。

陽晴達が顔をしかめて思わず耳を塞いでいる。

獣が起き上がる――ことはなかった。だが死んでもいなかった。

スライムのように弾けた肉体が黒い煙に包まれる。そして、消えた。

次の瞬間、着地寸前の卿の足下――敷き詰められた石畳の一つ、その角から僅かに黒い煙が吹き出したかと思えば、大きく開いた顎門が飛び出してきた。

卿が看破した獣の神出鬼没の絡繰りは、どういう原理かは分からないが九十度以下の鋭角を利用しての空間転移だ。

体内の骨の鋭角や積み重なった長椅子の奥から出現することはなかったことを考えれば、おそらく出現する先には十分な空間が必要なのだろう。だが、逆に言うと、十分な空間さえあれば手に持ったナイフの先端からでも出現できるということ。

故に、卿は脱いだのだ! 断じて露出に目覚めたわけではない!!(by心の浩介)

「フッ、所詮は獣。思考せぬ敵など脅威ではないわっ!!」

深度が深まっているっぽい。口調的に。

ならば、絡繰りが分かっている技を前に、今の深度の卿が後れを取ることなどあるはずがなく。

あらかじめ発動しておいた重力砲弾〝黒玉〟が、再び獣を地面の染みにした。

が、やはり死なないらしい。獣は再び黒い煙に包まれ消えた。そして、今度は天井の一部から黒い煙が僅かに吹き出し、そこから出現した。

警戒するように天井に逆さま張り付き、卿を睨んでいる。目など見当たらないが、確かに睨んでいると分かった。

獲物を求めるように、群青の濃汁が口内から溢れ出てボタボタと落ちてくる。酷い悪臭が充満していく。

その姿に、卿は感じ取った。

「そうか……貴様の行動原理は食欲。飢えているのか」

是が非でも卿を喰らいたい。彼我の実力差など関係ない。ただただ、この飢えを極上の獲物で満たしたい!!

およそ生物からはかけ離れた生態のくせに、獣の行動原理は実に生物的だった。

「だが残念。その飢えは満たされない。言っただろう? 終幕だと」

フッと笑って、フィンガースナップをパチンッと。

「「「――〝 黒滅之(いとふかきヤ) 深淵牢(ミのろうごく) 〟!!」」」

教会内部の中央、その空中に黒い球体が生まれた。

深淵流ネーミングのせいで分かりづらいが〝局所型の黒天窮〟だ。

本体が獣の怪物の相手をしている間に、分身体三人がかりで詠唱し、教会外部に影響を出さないよう制御・調整したそれを作り上げたのだ。

黒い雷がスパークし、風が強烈に渦を巻いた。

天井に開いた穴の部分から剥がれ落ちるようにして、絶対の消滅を与える死の星に呑み込まれていく。

獣の怪物も本能的に脅威を覚えたのだろう。教会の端に転移するが、

「フハハッ、無駄である!!」

効果範囲は教会全体だ。教会ごと獣の怪物を仕留めるつもりなのだ。

教会モドキは捜査の手がかりになるかもしれないが、建物自体は再生魔法で復元できる。故に、教会から出られないらしい獣を確実に仕留めることを優先する。

最初は〝絶禍〟による超圧力の球体空間に閉じ込める策も考えてはいた。だが、曲がりなりにも空間と時間に干渉できる怪物だ。仲間や黒幕だっているかもしれない。

安全策を考えるならやはり、確実に仕留められるだろう奥義しかない。

石畳が、柱が、壁が、次々と剥がれ、めくれ上がり、あるいは砕けていく。

三体の分身体も、効果時間を精密に設定できていることを確認してグッとサムズアップし、そのまま呑み込まれていった。

もちろん、本体も無事ではすまないが退避する素振りは見せない。

獣の怪物が教会の外部に出られないようだとは分かっていても、それも推測に過ぎないからだ。おまけに香織レベルには程遠いが〝神速〟使いだ。

陽晴達には予め念話で距離を取るよう伝えているが、それでも局所に効果範囲を絞った〝黒天窮〟の射程に確実に引き留めておくには、奴の執着する獲物たる卿自身が効果範囲内にギリギリまで留まって意識を引きつけておく必要があったのである。

故に、こうなった。

「ああっ、いけませんっ。浩様、困りますぅっ。ああっ、浩様! いけませんっ」

陽晴ちゃんは動揺した。いや、陽晴だけではない。

扉の蝶番が壊れて内部へ吹き飛んでいく中、クラウディアも念のためにと結界を張りつつ恥ずかしそうに頬を染めている。

「ああっ、浩介様の下着が! 少しずつ脱げていくのですっ」

そう、卿も効果範囲に入っているということは強烈な吸引力に晒されているということで。

当然、踏ん張るために出入り口の方を向いて姿勢を低くしているのだが、〝黒天窮〟の恐るべき吸引力は、卿の最後の砦をも崩しかけていたのだ!

腰から少しずつ少しずつ引っ張られていくパンツ!

手で押さえたいが、流石の深淵卿でも両手で地面を掴み踏ん張らないとまずい。つまり、押さえられない!

「ハッ!? 目が覚めたらコウスケさんが半ケツに!? ……ふむ、相変わらず筋肉質の良いケツですね!! 格好いいですよ!」

「そうでありんすか? わっちはむしろ可愛いと思いんす♪」

「お前達は何を話している! どう見てもただの変態だろうが!」

健比古達は揃って朱さんのツッコミに同意した。ただし、当の朱さんは頬を朱色に染めて、半ケツどころか全ケツになりつつある卿のケツを凝視しているが。

そんな外野の声が聞こえているのかいないのか。

健気に「主の股間だけは!」と言わんばかりに未だ脱げていないパンツの献身を、しかし、卿は気にした様子もなく。

「むっ! そうか、貴様。出られないのではなく……」

既に建物はない。全て呑み込まれた。地面にも小石一つない。耕されていくように固い地面が剥がされ、柔らかな土が逆巻いていく。

つまり、獣の怪物が起点にできる鋭角は既にない。地面に踏ん張り、体から伸びる触手をアンカーにして踏ん張ることしかできない。

脅威が迫る状況で、それでも深淵卿を喰らいたいという欲求が退避を躊躇わせた結果だ。まさに、深淵卿の狙い通りに。

こんな状況でも卿に食欲を向け続けていた獣の怪物は、しかし、ここに来て遂に今は喰らえぬことを認めたらしい。

一瞬、逡巡するかのように教会の奥だった場所付近へ視線を向け、次いで、逆方向を見た。

元より壁際だったのだ。その方向の二~三歩先は元々教会の外だった場所。

その方向へ、獣の怪物は踏ん張るようにして進み出した。すると、鼻先がすぅっと虚空に解けるようにして薄れていく。

もしかすると、教会から出られなかったのではなく、出たら実体を保てなかったということなのか……

いずれにせよ、だ。

「させんよ!!」

深淵卿が許さない。こんなこともあろうかと、踏ん張るための重力魔法も使わず、練り上げていた魂魄魔法〝衝魂〟を発動。

「効くのは実証済み」

爆発的に広がった不可視の衝撃波。魂魄に直接叩き込まれるそれに、獣の怪物は為す術なく。

声にならない不協和音じみた絶叫が広がった。ビクンッと痙攣する獣の怪物。意識が一瞬飛んだのかふらつく。

意識まで飛ばないのは感嘆ものだが、しかし、十分だ。

触手が地面から抜けた。脚が浮いた。

「フィニッシュだ」

深淵卿の姿が消える。効果範囲外に飛ばしておいたクナイと位置を入れ替える転移で脱出したのだ。

フッと笑い、香ばしいポーズを取る。

その背後で、人の精神を掻き乱す絶叫を脳内に響かせながら、獣の怪物は最強の死星に呑み込まれて消えていった。

〝黒天窮〟が急速に収束していく。

最後に黒いスパークを放って虚空に消えるそれを背景に、キレのあるターンをして、離れた場所で見守っていた仲間にフッと笑いかける卿。

髪を掻き上げ、腰に手を当て、香ばしいポーズも忘れない。

そんな卿に、彼を慕う者達は――

「きゃぁあああああっ」

「ふ、ふふふ、藤原陽晴! み、見るな! お前にはまだ早いっ」

「おひぃ様に何を見せつけてやがるっ。見損なったぞっ、浩介君!!」

「叔父として、いくらなんでも看過できないぞっ」

「あらまぁ♪ 愛しの君……大胆でありんす♪」

と、大騒ぎ。エージェントJやKも「へ、変態すぎるっ。これが彼の魔神殿の右腕だというのか……」とドン引きの様子。

なぜか。

決まっている。クラウディアが端的に叫んだ。顔を真っ赤にしながら。

「浩介様ぁっ。――履いてくださいっ」

安心できない状況だったからだ。そう、 最後の砦(パンツ) は最期の瞬間、ついに主のもとから離れ、獣の怪物と運命を共にしたのである。

つまり、今の卿は完全なる裸族であった!!

卿化が徐々に解ける。肌寒さを感じる。特に股間辺りに。

浩(・) 介(・) は、すぅ~っと視線を下に向けた。大事な息子は、確かに晒し者になっていた。

スッと内股になって、手で股間を隠しつつ、くずおれる浩介氏。それはまるで暴漢に襲われた女の子の如き弱々しさで。

直後、震える声が響いた。

「……パンツを、ください……」

あまりにも哀れを誘う姿だった。誰もが思わず騒ぐのをやめて同情してしまうくらいに。

〝宝物庫〟を預かっていたクラウディアが慌てて駆け寄っていく。

そんな中、浩介は固く決意した。いつもよりマシマシの心の痛みに耐えながら……

「いい……実に良いですよっ、コウスケさん! 人前かつ屋外なのに二人揃ってノーパンだなんて……私、なんだか新しい扉を開いてしまいそうですッッ」

プロの写真家の如く真剣な表情で写真を撮りまくっているヴァネッサに、必ずや人誅を与えてやるのだと。