軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

武神父、ここにあり

「ふふふフフフ腐腐腐腐腐……」

「っ」

やたらと不安感を煽る笑い声の主が、一歩、部屋の中に踏み出した。

無意識に後退るアジズ。だが、元々デスクの前にいたのだ。それ以上は下がれない。

一歩、また一歩近づいてくる彼女の異様な雰囲気に、思わず生唾を呑み込んでしまう。

端的に言って、おぞま――恐ろしい。

だが、それでも、視線の先で未知の力――腐ォース(仮)を撒き散らしながら迫ってくる彼女は、アジズにとって大恩ある人の大事な妹君だから。

神よ! どうか我に力を!

いつも首から下げている十字架を握り締め、突きつけるようにして裂帛の気合いと共に言い放つ。

「主の御名において命じる! 悪魔よ! その名を示せ!」

「えっ、悪魔ってひどっ。っていうか、なんで今更名前!? 真実(まなみ) だって分かってるよね!?」

腐ォースが消えて素のツッコミが迸った。

はい、 真実(まなみ) である。

浩介の妹であり、ソウルシスターズ参謀と生粋の腐女子という濃すぎる二足のわらじを履く、若くして性癖が深淵な中学二年生である。

アジズが不思議そうな表情をしている。

そっと懐から小瓶を取り出し、片手で器用に蓋を開けて、人差し指で口部分を軽く塞ぎつつ、

「悪魔よ、去れ!」

「あっ、冷た!? 何するの!?」

ピッピッと宙に十字を切りながら小瓶の中身――聖水の水滴を飛ばして真実にかけた。

眼鏡を器用に避けて額や頬に当てるあたり、流石の技量であるが……

ジュワーッとならないことに更に不思議そうな顔になる。頭に直接響くような苦悶の声も聞こえてこない。

悪魔憑きに聖水をかけたらそうなるはずなのに……

「……なぜだ?」

「何が!?」

ぷくっと頬を膨らませて睨む 真実(まなみ) に、アジズは大きく目を見開いた。

光源もなく光を反射していた眼鏡も、今は普通だ。瞳がよく見える。いつも通りの薄桃色の可愛らしいパジャマ姿で、お下げ髪も変わらず。異様な気配もしない。

「まさか……真実さん?」

「他の何に見えたの!?」

年齢は同じだがアジズの背が高いせいで、 真実(まなみ) の視線はアジズより頭一つ分以上は低い。

なのでアジズは、警戒心たっぷりな様子で一歩前に出つつ、睨んでくる真実の身長に合わせて少し身をかがめた。

至近距離でよ~く見る。真実の目を。

悪魔憑き特有の不穏な影も、まして濁りも見えない。赤い光を帯びたりもしない。いつも通りの瞳だ。

「……なぜだ?」

「だから何が!?」

さっきの気配はいったい……と困惑するアジズ。

彼にとって 真実(まなみ) は、時折妙な目で見てくること以外は親切で気遣いのできる優しい女の子だ。

物語をこよなく愛しており、時折、妙に眼鏡が光る以外は、まさに文学少女といった雰囲気。

一見すると大人しくて自己主張しないタイプ、悪く言えば地味で目立たない子に見えるものの、時折、息を潜めるようにして周囲(特に男子を?)を観察していることを除けば、実際は非常に明るく芯のある女の子でもあった。

あんな、おぞまし――恐ろしい気配を発する子では間違ってもない……

「まったく、それより!」

「は、はい……」

自分の勘違いだったのか? そうだ、これも何かの間違い……。

こんな薄い本が、自分に貸与されている浩介さんの部屋にあるはずがない、と半ば自分に言い聞かせて身を起こすアジズ。

だが、それは現実逃避というもので。

「……見ちゃったんだね?」

「っ」

腐ォース、再び!!

一瞬で気配が切り替わる。それはまさに悪魔憑きの特徴だ。普段、なんでもない日常を過ごす者達が、ある日突然、示し合わせたように行動するのだ。おぞましい気配と共に。

「それを、渡して?」

「こ、これはいったい……真実さんなんですかっ。これを、浩介さんの部屋に置いたのは!」

信じたくない。信じたくないけれど、いつだって現実は残酷で。

「……うっかりだったよ。浩にぃの部屋をアジズ君が使う……アジズ君が毎日、浩にぃのベッドで寝ている……そんなシチュ、掻き立てられるじゃない?」

「何が!?」

「アジズ君がホームステイに来ると決まった時から、ずっと我慢してた。でも、君が浩にぃのベッドで実際に寝ているところを見たらっ、もう我慢なんてきなかった! 久しぶりに我も忘れて没頭したよ。まして、毎日毎日、浩にぃ好き好きアピールまでして! こんなの次から次へと 天翔る腐の閃き(インスピレーション) が降りてきて 二人重なる極み(ワイルドアイデア) が 腐突・零式(ビッグバン) しちゃっても仕方ないよね!?」

何を言ってるのか分からなかった。ただ、何か恐ろしいものの片鱗を味わっていることだけは分かった。あと、凄く早口だった。

知らず、アジズの足が引き下がる。ネームド悪魔にだって立ち向かえるのに、妙な迫力をまとってまくし立てる真実に圧されて、精神的にも物理的にも追い詰められる。

だが、冷静さと、確固たる信念こそが最大の武器と教えられてきた最年少エクソシストは、それでも言葉の断片から事情を読み取った。

信じ難い、まさかの事情を。

「まさか……まさか、これを描いたのは…………真実さん?」

ピタッと止まる真実。また眼鏡が光ってる。瞳が見えず不安が煽られ、不気味な静けさが漂う。

「……己が創造した作品を、改めて現場で読む。これぞまさに聖地巡礼の儀」

やっぱり何を言ってるのか分からない。

ただ、たぶん、いろいろ没頭しすぎて肝心の薄い本をうっかり部屋に置いて来ちゃったんだろうなということは分からないでもない。

それはそれとして、ゆっくりと手を伸ばしてくる真実のなんと恐ろしいことか。

「……君は何も見なかった。何も知らない。分かるね?」

「ま、真実さん……」

普通なら、こんな不審者程度いつでもぶっ飛ばせるアジズだが、相手は 真実(まなみ) である。手など出せるはずもなく、いかなる運命も受け入れる覚悟を決めて目をつぶる……

「何をやってんだ、このバカ」

「いたぁいっ!?」

ハッと目を開くと、

「浩介さん!!」

目の前にはアジズがこの世で最も信頼するヒーローがいた。

真実を片腕でヘッドロックするようにして捕まえ、頭を拳でグリグリしている。

「アジズからの救援要請がきたから何事かと思って駆けつけてみれば……」

「え、俺が救援要請を?」

再びハッとした様子でスマホを見るアジズ。その様子を見るに、あの「タステケ」は無意識のものだったらしい。

「ほほぅ? 無意識に浩にぃを求めて……」

「この状況で最初に出てくる言葉がそれとか……ほんっとお前って奴はよぉ」

「あいたたたっ、ごめんなさいごめんなさいっ」

強くなるグリグリに真実が涙目になっているのを横目に、アジズは改めてスマホをチェックした。着信履歴には浩介の名が並んでいる。

どうやら、夜なのでマナーモードにしていたこともあり、真実に気を取られて気が付かなかったようだ。

実は、アジズに繋がらなかった後、浩介は家の電話や 真実(まなみ) のスマホ、そして両親のスマホにも電話をかけていた。

しかし、真実や両親のスマホもまたマナーモードで、真実に限っては部屋に置いてきている。

そして、家の電話は……実は、ごく最近だが数度、無言電話が繰り返されることがあり、それもあってコール音を小さくしていたのだ。それで二階まで聞こえなかったようである。

何はともあれ。

「す、すみません、浩介さん。ご迷惑を……」

「いや、その薄い本を見ればだいたい事情は察したよ。むしろ、なんか本当にごめん、うちの愚妹が。怖かったろ?」

「い、いえ、浩介さんの妹を怖がるなんて……」

「俺は普通に怖いけど? クリエイターモードのこいつは」

「……」

目を逸らすアジズ君。やっぱり、ちょっと怖かったらしい。

浩介はグリグリをやめて苦笑いを浮かべた。

「まぁ、こいつがよく分からない言動を取り始めた時は、だいたい羞恥心でテンパってる時だから、アジズにいろいろバレて必死なだけだろうけど」

「うっ」

図星らしい。ヘッドロックされたままだが、なんとなく浩介の胸元に顔を埋めているようにも見えるのはそのせいか。

どうやらアジズに知られたくなかったようだ。ノリと勢いでなかったことにしたかったのだろう。

それを聞いて、アジズの肩からも力が抜ける。

「な、何事だ? 今、何時だと思って――」

「え? 浩介? あんた帰ってきてたの?」

これだけ騒いでいれば、流石に両親――父の 英和(ひでかず) も母の 実里(みさと) も起きてくる。

デスク際で困り顔のアジズと、ヘッドロックされている 真実(まなみ) 、そして英国にいるはずの浩介の姿に困惑する二人。

だが、その視線がアジズの持っている薄い本を捉えると。

「「うちの娘がほんっとうに申し訳ない! 何もされなかった!?」」

「私のことなんだと思ってるの!?」

普通、ホームステイに来た男と娘が夜中に一緒にいて騒ぎになったのなら、男の方をいろいろと疑うのが自然な流れだろう。まして、娘の両親ならば。

なのに、なんの迷いもなく娘がやらかしたものとして謝罪する両親……

真実の家族内での評価が分かるというものだ。

だが、テレビで雫に似たタレントを見る度に「あ~、こんな女と結婚してぇ」と呟いたり、男性タレント同士の絡みを見る度に「デュフフフッ」と変な笑い声を漏らしていれば、それはそんな評価も仕方ないという話で。

「くっ、やはり宗介には家から通ってもらうべきだったか」

「浩介が家を出たんだから、嫉妬に狂うこともないでしょうにね」

悔やむ英和父さんと悩ましげな実里母さん。

実は、長兄たる宗介兄さんは、この春から一人暮らしを始めたのだ。

『こんな、いつ弟がハーレムズとイチャつくか分からない家になんていられるか! 俺は家を出るぞ! 彼女を作らせてもらう!』

と言い捨てて。

弟への嫉妬と悔しさを勉強にぶつけた宗介兄さんは、大変優秀だ。法学部は首席卒業がほぼ確実だし、既に司法書士の資格も取得している。

法科大学院への進学も決めており、きっと数年後には弁護士資格も取得しているに違いない。

顔だって悪くないし、人当たりもいい。弟が絡まなければ非の打ち所のない青年である。

ただ、彼女だけができない。

ちょっと良い感じになりかけても、必ず何か問題が起きたり、誰かに取られたり、既に彼氏がいたり……

とことん異性に縁がない。

まるで、そう。仮に浩介の影の薄さが兄と妹に存在感を持っていかれたからであるのなら、代わりに異性との縁は全て持っていった、兄の分まで……

と、本人は思い込んでいるようで、とにかく弟の影を感じない――いや、元々あまり感じないけれど、とにかく離れて女運を取り戻したいと考えたらしい。

きっと無駄な努力である。とは誰も言わなかった。あまりに必死の形相だったから。

閑話休題。

「宗にぃとアジズ君? 腐(フ) ッ、ダメだね。まったく滾らない。解釈違いだよ」

「お前は黙れ」

いつの間にか正座している真実ちゃん。

自主正座だ。流石に面倒を起こしすぎたと反省しているらしい。セリフからしてそんな様子はまったく感じられないが、こればかりは腐女子の 性(さが) なので仕方ない。

どうか、こんな私を受け入れて的な雰囲気を感じる。……やっぱり反省していないかもしれない。

「っていうかお前、まさかと思うけど販売してないだろうな?」

原稿ではない。きちんと表紙や背表紙がある。装丁されているのだ。

同人誌の最大の祭典時期はまだ先のはずだが……即売会は何もあれだけではない。嫌な予感に目つきが険しくなる浩介お兄ちゃん。

自分とアジズのBL本が無許可で出回っていたなら……誰になんと言われようと焚書も辞さない。

「舐めないで! 私の誇りに賭けて、モデルの許可なく流通なんてさせないよ! あれはあくまで自分用! 装丁も自分でやったんだから!」

会心の出来だった。改めて読むなら、絶対に現場で読みたいと思うほど。

あまりの出来に読後感も最高で、半ばトリップしてしまったくらい。

……まぁ、だからうっかり読書用、保存用、ごくごく一部の同志との共有用のうち、一冊だけ置いてきてしまったことに気が付けなかったわけだが。

「まぁ、お前がそう言うんならそうなんだろうけど……」

こういう部分ではしっかりマナーを守るのが、この妹の厄介なところである。

家族だろうと、流石に個人の楽しみまでは否定できないし、したくはないから。

とはいえ、だ。

「けど、今回はアジズが関わってるからな?」

浩介お兄ちゃんの苦言混じりの言葉に、英和お父さんと実里お母さんも同調する。

「よそ様から預かっている子に不快な思いをさせるわけにはいかないなぁ」

「というわけで、それは没収よ。以後、アジズ君をモデルに何かするのも禁止!」

「そんな……魚は水がないと呼吸できないんだよ!?」

そのレベルなのか……。アジズ君で妄想し、それを形にしたい欲求は……と頭を抱える遠藤家一同。破棄しないだけでも温情だというのに。

そんな遠藤家の様子を半ば呆然と見ていたアジズは、未だ手に持っていた薄い本に視線を落とした。

一拍。はぁと溜息を一つ吐いて、困り顔に。けれど、その視線は真っ直ぐに真実に向けて。

「あの、俺は……構いませんよ」

「「「「!!?」」」」

浩介と英和、実里が目を見開く。真実も驚愕の表情になり、かと思えば直ぐに「はは~ん」と訳知り顔になって、何を思ったのかニチャァッとした笑みを浮かべた。

もちろん、お兄ちゃんからグリグリの刑を頂戴する。アッーーッ。

「いえ、もちろん、内容を受け入れているわけじゃありません。正直、引いてます」

「そりゃそうだ」

もし、この薄い本がきっかけで「浩介さんとの関係、これもありかも……」なんて新たな扉を開いていたら、浩介が困る。とても困る。

「ただ、まぁ、世の中にはいろんな愛の形があることも理解はしています。特に日本は……凄いですからね」

苦笑しつつ言う〝凄い〟には、いろんな意味が含まれていることをなんとなく察する遠藤家。

日本で日常を過ごしてまだ日は浅いけれど、アジズもこの国のサブカルチャーの深淵具合は少し理解してきているらしい。

いろいろ教えているのが他の誰でもない真実なので余計に、ということだろう。

「それに……」

正座中の 真実(まなみ) の元へ歩み寄り、片膝を突くアジズ。

緊張から思わず握りしめてしまい、少し皺ができてしまった薄い本をできる限り丁寧に整えながら言う。

「絵そのものは、とても綺麗でした」

「へ?」

真実が眼鏡の奥の瞳をまん丸にする。

「簡単に描けるものではないと思います。たくさんの努力が感じ取れました。俺には理解の難しい分野ですが、真実さんにとってはそれだけ夢中になれる大好きなものなんだなと、そう思いました」

「……」

おや? 真実さんが何やら視線を激しく泳がせている。自分の趣味とその成果を、ここまでストレートに、しかも異性に、認められたことはなかったからだろう。

こんな時、どんな顔をしたらいいのか分からないの……みたいな顔をしている。

「そもそも、俺と同じ歳なのに、人様が対価を払っても手に入れたいと思うほどの作品を世に生み出せること自体が素晴らしいことです。俺の得意分野は壊すことばかりなので、少し羨ましい」

内容は別として、 真実(まなみ) が自作品を即売会やネットに出していることや、それが多少なりとも売れていることは、アジズも既に聞き及んでいること。

ちょっと得意げに語る真実に、アジズは素直に感心したようだ。瞳を見れば本心であることは一目瞭然だった。

いつの間にか、真実はもちろん、英和も実里も、そして浩介ですら、その穏やかで優しい雰囲気に呑まれたようにアジズの話に聞き入っていた。

なんだろう。廊下の電気以外、光源のない深夜なのに妙に明るく感じる……

「流石は浩介さんの妹君だと尊敬します。俺と浩介さんを題材にした作品を世に出すのは少し困ってしまいますが……」

そっと、宝物を扱うように丁寧に薄い本を差し出すアジズ。

半ば呆然と受け取った真実の目を真っ直ぐに見つめながら、アジズは本心からの言葉を紡いだ。

「少なくとも、俺は貴方の〝好き〟を否定しません」

だから、浩介さん達も真実さんのことあまり叱らないであげてくださいと、微笑を浮かべながら締め括るアジズ君。

妙に明るく感じる現象の正体が、今、分かった。

後光だ! アジズ君から後光が差している!!

「ま、眩しいぃっ、浄化サレルッッ」

真実ちゃんが腕で顔を庇うようにしてくずおれた。なんとなく、サラサラと砂になって崩れていく姿が幻視できてしまう両親とお兄ちゃん。

「さ、流石は聖女の弟。これが本物の聖職者!!」

浩介すらも、アジズを前に後退り。

「アジズ君…………どうか、いつまでも家にいてくれ。いや、むしろ、私のことはお義父さんと呼んでほしい」

「こんな娘だけど、どうかこれからもよろしくお願いね」

「え? あ、はいっ。よろしくお願いします!」

英和お父さんと実里お母さんが感動と切実さが滲む様子でアジズの手を取った。

普段からソウルシスターズで腐女子な娘の将来を案じていた二人である。別に、偏見があるわけではないので、 真実(まなみ) が幸せならなんでもいいのだが……

それでもこれは、不意に舞い降りたビッグチャンス。今まで、これほど娘の趣味を受け入れてくれる異性がいただろうか? 自分を題材にされてさえ! 否、断じて否!

ここでアジズ君を逃すわけにはいかない! みたいな気持ちに違いない。たぶん。

今、娘の将来のパートナーとして両親からロックオンされたとは思いもしていないアジズ君。

クラウディア姉さんと浩介が結婚すれば家族になれるわけだから、そういう意味で受け入れられていると感じて素直に喜んでいる。

果たして、アジズ君の未来は……

浩介の義弟になることは決定しているが、それはクラウディアの弟だからなのか。

それとも別の形でそうなるのかは、まだ誰にも分からない。

「っていうことがあってさ、なんかごめん。うちの妹が」

ローマ市街からバチカン市国の内部――オムニブスの地下拠点まで続く古びた長い隠し通路に、そんな浩介の申し訳なさそうな声が響いた。

隣にはクラウディアの姿。数日に及んだ任務の帰りだ。

本当は車両で直接移動する隠し通路もあるのだが、あえて何百メートルも歩くことになる古い通路を選んだのはクラウディアだ。

石造りで、ランプの淡いオレンジ色の光だけが点々と通路を照らしている。

それなりにムードがあった。誰にも邪魔されない静かな場所だ。

実は、国外の任務からローマに戻って少し、二人はちょっと良い食事をしたり、町を散歩したりしていたのだ。

忙しい最中である。食事や少し遠回りの帰還くらい構わないと、人を殺しそうな眼光のダイム長官が許可をくれているので、隙間時間でのデートをしていたのである。

こうして古びた隠し通路を歩いているのも、少しでもこの時間が続けば良いというクラウディアの乙女心だった。

だったのだが……

次のクラウディアの発言で、二人の間の少し甘い雰囲気は一気に変わった。

「なるほど。話に聞いた禁断の世界、 真実(まなみ) さんは遂に完成させたのですね」

「ちょっと待って」

クラウディアさんからまさかの反応。

石造りで大人二人が並べばいっぱいいっぱいの古い通路で、まるで予期せぬ裏切りにあったかのような表情になる浩介。

思わず立ち止まってしまった浩介の顔を、通路の古ぼけたランプの灯りが淡く照らす。

「以前、ご実家に滞在していた時に真実さんからいろいろと……」

「あいつっ、布教に余念がねぇっ」

「ちなみに、ラナさん達も知っているのです」

「もはや価値観の侵攻ッ」

「今度、貸していただかないと」

「……」

既に染まっていた? と絶望的な表情になっている浩介を見て、真顔だったクラウディアは一転、楽しげに噴き出した。

「こ、浩介様。なんて顔をなさるのですっ。冗談ですよ、冗談! ふふふっ」

「あ、あぁ、なんだ冗談か。良かったぁ。クレアが新たな扉を開いてしまったのかと思って焦ったぜ……」

恋人と弟の関係を妄想してデュフフする聖女……確かに、それは嫌だ。

「実家に来た時、女子会? パジャマパーティー? とかなんとか 真実(まなみ) の部屋に集まってたけど、もしかしてあの時?」

「はい。楽しかったのです。流石は浩介様の妹。真実さんもユニークな方ですね」

「う、う~ん。それ、素直に喜んでいいのかな?」

「いいのです。少なくとも、私は素敵な方だと思いましたし、クレア義姉様と呼んでいただけて嬉しかったのですよ。とても」

どうやら真実は真実で、ラナ達と将来の家族として上手くやっているようだ。

「まぁ、一番意気投合していたのがヴァネッサさんなのが、少し悔しかったのですけど。私は話の半分もついていけませんでしたし」

「ああ、うん、まぁ、あいつは同好の士だからなぁ。むしろ、クレアはそのままでいてほしい」

保安局の仕事で死ぬほど忙しいくせに、ヴァネッサさん、 真実(まなみ) とは普段から連絡を取り合っているようだ。バイブルは日本の漫画と宣言するほど元々オタクなSOUSAKANであるから、本当に気が合うのだろう。

真実もヴァネッサだけは、兄のお嫁さんというより自分の友人みたいな扱いをしているようである。

「何はともあれ、アジズが受け入れているのなら謝るようなことは何もないのです、浩介様」

にっこり笑って、浩介と腕を組むクラウディア。胸元に掻き抱くようにして強く抱き締め、そのまま歩みを再開する。

「アジズからはよく連絡が来るのです。あれをしたこれをした、これを知った、あれは驚いた……本当に話が尽きないようで。楽しいという感情が伝わってくるのです」

「そっか……」

「特に学校での話をよくしていて……」

実はアジズ、ただ遠藤家にホームステイしているだけではなく、真実の通う学校に留学もしていた。

表向きはイタリアからの留学生であり、裏の事情は家を離れる遠藤家の護衛&有事の際の帰還者対応課に対する臨時出向員である。

ただ、本当の留学事情はまた別にあり、それはクラウディアの私的な事情だった。

「そう言えば、アジズにとっては初めての留学、いや、そもそも普通の学校に通うのも初めてだったっけ?」

「ええ。オムニブスの専門機関や個別指導がほとんどでしたから。だから、何もかもが新鮮なのでしょうね。真実さんの話もよくするのです。よくしてもらっているとか、また迷惑をかけてしまったかもしれないとか。ふふっ、」

「へぇ、真実の奴、結構しっかり見てくれてるんだな」

「そうなんですよ? だから、真実さんには本当に感謝しているのです。あの子の姉として」

クラウディアは、慈愛の表情で虚空に視線を投げる。

「……本当は、あの子には普通の人生を送ってほしかったのです」

悪魔への生け贄として生まれたアジズ。人間らしい感情もなかった彼を家族として迎え入れたクラウディアだからこそ、本心ではエクソシストになんてなってほしくはなかったのだろう。

「私と、同じような生き方はしてほしくなかった……」

普通の人生は全て捨てて、血反吐を吐くような訓練と、命や精神を削るような戦いの日々を送ってきた。

だが、それは明確な動機があったから選んだ道だ。

復讐という、私的な動機が。

だが、アジズにそんなものはない。もちろん使命感はあっただろう。けど一番は、ただクラウディアや仲間への恩義を返したかったからに違いない。

「人生とは分からないものです。まさか、人類の仇敵たる悪魔が今や味方だなんて……ですが、そのおかげで組織の活動は少し変わりました。あの子にとって良い機会が巡ってきたのです」

何より重要なのはアジズの意志だ。

オムニブスが今も悪魔と戦うことを最重要事項としていたなら、アジズは何を言われようと組織から離れはしなかっただろう。

だが、今のオムニブスの主な活動は変わっている。言わずもがな、悪魔の脅威が一応なくなったからだ。

なので、今のオムニブスは覚醒者への対応と、各国からの超常現象に対する相談などへの対応、そして従来の役目――それらの脅威度を高めかねない遺物や企業の調査・監視・管理を最重要事項としている。

そもそも悪魔の現出は希だ。悪魔崇拝者による人災が九割である。

なので、仕事自体は爆増しているものの脅威は減っているのが現状だ。

アジズが一度、組織から離れて普通の生活を体験するのに、なんら問題はなかったのである。

「アジズ自身も、浩介様に出会ってからというもの日本での生活には興味を隠しきれていませんでしたから、今を楽しんでいるようで安心しました」

「それなら良かった。俺も、アジズが家にいてくれるなら安心だしな」

「それも、あの子にとっては嬉しいことのようですよ?」

弟分が日本での学生生活を楽しんでいることが、本当に嬉しいのだろう。

クラウディアの表情は幸せそうに緩んでいて、雰囲気もぽわぽわだ。

良い感じの話をしている間も、実は四度ほど何もないところでガッと躓いて転倒しかけているが気にもしていない。

浩介的に、微妙に話に集中できなくて困るのだが……

「あ、もうついてしまったのです……」

名残惜しそうに通路の奥を見やるクラウディア。視線の先の壁には十字架が飾られた金属製の扉があった。

「楽しい時間は瞬く間に終わってしまいますね」

「時間ならまた作れるって。なんてったって俺は分身できるんだからな」

その分、本体が睡眠時間を削ることになるのは言わずもがな。なので、クラウディアは困った表情になるものの、でもやっぱり嬉しさは隠せなくて。

ぐいっと更に体を押しつける。

狭い通路だ。つい押されて壁に背を預けた浩介の瞳に、クラウディアの潤んだ瞳が映り込んだ。

「……」

「……」

無言のまま、でも心は間違いなく一つとなって、お互いに自然と顔を近づけて――

ズゥゥウウウウンッと地響きが。

バラバラッと土埃が落ちてきて二人を灰被りみたいにする。

「な、なんなのですかぁっ」

邪魔された憤りで思わず怒声をあげるクラウディアだったが、それも一瞬だ。

地響きが連続して響いてくる。

この先はオムニブスの地下拠点であり、地上はバチカン市国。工事が行われているならクラウディアが知らないはずもなく。

顔を見合わせる浩介とクラウディア。既に二人の表情は戦時のそれだ。

「行くぞ、クレア」

「はいっ、浩介様」

扉を開け、オムニブスの地下施設に飛び込む。クレアが譲り受けた専用〝宝物庫〟を起動させて〝聖十字架〟を取り出す。

対悪魔特効兵器の神器だが、樹海戦を経た今、ハジメに魔改造されて種々の能力が付与されているので対人だろうと対妖魔だろうとクラウディアの力を十全に発揮できる。

重そうなそれを背負い、浩介の後を追うようにして地響きの震源地へ駆けていく。

「この先は……訓練施設?」

訓練や実験のための大広間だ。浩介とクラウディアは再び顔を見合わせた。

そうこうしている間に、「ぬぅうううんっ」とか「ゼァアアアアアアッ」なんて雄叫びが聞こえてきて、「あ、察した……」みたいな顔になる。

一応、速度を緩めずに突入した大広間では、案の定な光景が広がっていた。

「ふんぬぅっ!!」

「ギョェエエッ!?」

凶悪な顔をした二メートルはある金属製のガーゴイルが、凶悪な顔をした神父にぶん殴られていた。金属の本で。

首が三百六十度回ってダンスみたいにスピンしながら倒れ込むガーゴイルさん。這いつくばり、必死に地面を掻いて前に進もうと――いや、これは逃げようとしている?

「どこに行こうというのかね?」

「ゲェ!?」

黒い神父服が、今は死神の装束に見えて仕方がない。

死神――もといオムニブスのリーダー、パトリック・ダイム長官は自身の神器である金属の本〝聖滅の書〟を落とした。

ズゥンッと重そうな音が響く。石畳の床に亀裂が入る。どう見ても見た目通りの重さじゃない。というか、そもそもそんな重さじゃない。

ハジメの魔改造を受けた証だ。

〝書物を読む気など全くないッ〟と言わんばかりに絡みついた鎖がピンッと張って、落としただけで地面を割った書物が投げ縄の如く回され始める。

直ぐにゴゥゴゥと風が唸り始めた。

「立て、悪魔」

「げ、げぇ……」

「引けば殺す。臆せば殺す。背を向けても泣き言を言っても殺すッ!! 生きたくば立って戦えッッ!!」

「オンギャァアッ!!!」

地響きにも似た怒声が響き、ガーゴイルさんが半ばやけくそ気味に咆哮を上げた。

直後、遠心力がたっぷりと乗った金属書がガーゴイルに振り下ろされる。間一髪のところで回避に成功するガーゴイルさん。

刹那、ズゥゥウウウウンッと、あり得ないほどの衝撃が迸り地面に軽いクレーターが生み出された。

よく見れば、固い石畳のあちこちが流星群の直撃でも受けたみたいな有様になっている。

「い、いったい何が……なぜ長官が悪魔と戦って」

クラウディアが目を見開いて、困惑をあらわにしている。

そこで、ようやく浩介の意識も周囲に向いた。

激しい雄叫びと、半ばやけくそ気味の咆哮。凄まじい地響きと――両陣営からの声援。

そう、この空間にはたくさんの人がいたのだ。

「金属製のガーゴイルが十数体と、オムニブスの人達? それに、ゲッ!? そういうことかよ! いや、どういうことだよ!?」

言わずもがな、ダイム長官を応援しているのはエクソシスト達だ。その横で同じく金属製のガーゴイル達も拳を振り回すようにして仲間(?)を応援している。

よく見れば二人が戦っている中央周辺には半ドーム状の結界が張ってあって、被害が外に及ばないようにもなっている。

端から見れば、違法な地下闘技場だ。それぞれのプライドがかかっているのか、声援も熱狂的である。

で、味方のはずの悪魔とエクソシスト達の長官がなぜ死闘(?)を繰り広げているのかと言えば、まぁ、言わずもがな。

「南雲ぉ!!」

思わず叫んだ名前に、最初から気付いていただろう相手――少し離れた場所にいたハジメは肩越しに振り返って軽く手を振った。

近くには服部さんと数人、如何にも官僚っぽい雰囲気の人もいる。それどころかマグダネス長官とヴァネッサ、後はバチカン側の人間――オムニブスを知る枢機卿の一人もいるようだ。

何やら、ダイム長官とガーゴイルの戦闘を見ながら、数人のスーツ姿の人達と話し込んでいる。見た感じ米国の方だろうか?

「あ、そう言えばメールで連絡が来ていたのです。急遽、外部の方を招くって」

「え? そうなの?」

「はい、でも詳細は分かりません」

「メールじゃ伝えられない重要なことってことか?」

「い、いえ……私のスマホが、この有様だから、です」

赤点がばれた小学生みたいな雰囲気で、バツが悪そうにスマホを取り出すクレア。

真っ二つだった。

「またか……」

「へ、へへ。お尻がおっきくてごめんなさい……」

浩介が目を離した隙に転倒でもしたのだろう。ちょうど連絡内容を読み始めたところだったに違いない。で、なんやかんやでピタゴラして、聖女の立派なお尻の下に滑り込んだスマホ君は、たぶん小石か何かを支点してアンギャーッ(二敗目)したというわけだ。

「任務が終わった後でしたし、緊急連絡の符丁もなかったので、帰ってきてから聞けば良いかと……へへっ」

三下のチンピラみたいな引き攣り笑いをする聖女。浩介は呆れるより、もはや仏の心だった。生暖かい眼差しになる。

と、そこでハジメが話を切り上げてこちらにやって来た。

さりげなくヴァネッサもこっちに来ようとして、マグダネス長官に後ろ襟を掴まれグェッとなっている。助けを求める目をしていたので、浩介は普通に見捨てることにした。

ヒーローだけど、体が勝手に拒否したのだから仕方ない。

「よ、遠藤、久しぶり。髪切った?」

「え? よく気が付いたな。前髪、二ミリだけ切ったんだ」

「女子かよ」

冗談で言ったのに、まさかの正解でスンッとした顔になるハジメ。

「それより、南雲。いったいどういう状況なんだ? なんでいる?ってか、あのガーゴイル、金属ってことはお前のアーティファクトだろ?」

「ああ、実はな。先日、米国と会談があったんだが――」

ハジメが事情を説明しようとした、その時。

「え、あ、あの! お二人とも! あれ! あれ!」

クラウディアが何やら信じ難いものを見る目になりながら、必死に指をさしていた。

いったいなんだと視線を転じる二人。

そこには――

「流石は金属の肉体に宿りし高位悪魔。実にしぶとい。ならば――試させてもらおう!! 未だ完成に至らぬ新たな技を!!」

四股を踏むようにずしりと腰を落とし、右手を真横に突き出しているダイム長官の姿があった。

なんか彼を中心に灰色と純白の二色の輝きが渦巻いている!!

「右手に魔力を」

灰色の輝きが右手に集束する。

「左手に氣力を」

左手も真横へ突き出せば、純白の輝きが宿った。

灰色と白色の二色の違う輝きがダイム長官の左右の手で燦然と輝く!

額に血管が浮かび、ブッと鼻血が噴き出し、目が血走った!! こわい!! 悪魔だ!!

「融合!!」

左右の拳が打ち合わされた。途端に、なぜか弾け飛ぶ神父服。老齢とは思えないムッキムキでバッキバキの筋肉の鎧があらわになる!

「ぶるぁああああああああああああっ!!!」

ダイム長官の全身が薄い黒色のオーラに覆われた。同時に、彼の発する力の気配が〝限界突破〟並に跳ね上がったのを感じる。

ツッコミどころが満載だ。

なぜ服が弾けたのか。なぜ、汗が蒸発して全身から蒸気が立ち上っているのか。どう見ても聖職者がしていい形相じゃねぇとか。どうして氣力を扱えるのか。っていうか灰色と白を混ぜたら、より薄い灰色になるんじゃない? なんで濃くなってんの? とか。

だが、そんなことよりも、だ。

本来、相容れないはずの二つの世界のエネルギーを融合させてしまうとか……

流石の魔王とその右腕であっても、揃って顎をかくんっと外し、

「「うそぉ……」」

ただ、呆然と呟くしかなかったのだった。