軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 帳簿にですか?

税収が半分になった。

たかが帳簿と言った日が、もう遠い。監査局から書簡が届いた。過去八年の税収報告と直近半年の実績に重大な乖離がある、と。説明を求められている。

「私がどうにかするわ。ルシアン、大丈夫よ」

セリーヌが微笑んだ。帳簿が読めない人間の「どうにか」ほど空虚な言葉を、私は知らない。

……リゼットなら、一晩で整えただろう。

帳簿が、仕上がった。

最後の一頁に数字を書き入れ、合計欄を検算する。一度、二度、三度。合った。全て合った。

交易路の最適化が利いた。三本の路を季節ごとに使い分ける運用に切り替えたことで、輸送効率が上がった。税制の細分化も順調に浸透している。結果として、辺境伯領の交易利益は、私が着任する前の一・五倍になった。

ペンを置いた。

指先のインクを布で拭いながら、帳簿を眺めた。数字の列が整然と並んでいる。頁をめくるたびに、この三ヶ月の仕事が見える。一行一行、嘘のない数字。

帳簿を持って、辺境伯の執務室へ向かった。

「閣下。完成いたしました」

辺境伯は机に向かって書簡を読んでいた。顔を上げて、帳簿に目を留める。

「見せろ」

手渡した。

辺境伯が帳簿を開いた。頁をめくる。いつもの速さで……いや、今日は少し遅い。一頁ずつ、丁寧に目を通している。交易路の統合記帳。税制の細分化表。備蓄管理の再構築。数字の列を、指先で辿っている。

長い静寂だった。

暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いている。窓から差し込む夕日が帳簿の頁を琥珀色に染めていた。辺境伯の横顔に影が落ちている。高い鼻梁と、薄い唇と、少しだけ伏せられた目。

なんで私、この人の横顔なんか見ているのだろう。

視線を帳簿に戻した。

辺境伯が、頁をめくる手を止めた。

「美しい」

……え?

帳簿を見つめたまま、もう一度呟いた。低い声で。独り言のように。

「美しい帳簿だ」

「帳簿に、ですか?」

聞き返していた。反射的に。帳簿を褒められたのは嬉しい。嬉しいが、何か、声の調子が、数字を評価する時のそれとは違った気がして。

辺境伯が帳簿から目を上げた。

まっすぐに私を見た。

「あなたにだ」

「あなたの仕事のやり方。考え方。数字に表れる誠実さ。その全てが」

帳簿。帳簿のことですよね? あなた、仕事の話をして。していたはずで。「あなたにだ」。仕事の話ではなかった。頭の中で帳簿の数字がばらばらに散った。合計欄が空白になった。何も計算できない。

唾を飲み込もうとした。喉の奥が硬くて、うまく飲み込めなかった。

「……あ、ありがとうございます。帳簿を褒められたのは、初めてですので」

声が裏返りかけた。堪えた。堪えたが、耳の縁が燃えるように熱い。北方の屋敷でこんなに顔が熱くなるのは初めてだ。

(帳簿を褒められた。帳簿を。帳簿の話だ。そう、帳簿。……帳簿?)

辺境伯は帳簿を閉じて、机の端に丁寧に置いた。何事もなかったかのように書簡に目を戻している。

逃げるように執務室を出た。

廊下を歩いていると、マティアスが控えめに声をかけてきた。

「ヴァレンシュ様。一つ、お伝えしてもよろしいでしょうか」

「は、はい」

声がまだ少し上ずっている。落ち着け。数字を数えろ。一、二、三……。

「最近、お茶の銘柄が変わったことにお気づきでしたか」

「……ええ。以前より香りが良くなったと思っていました」

マティアスが、静かに微笑んだ。三十年仕えた老紳士の、穏やかな笑み。

「閣下が、お茶の銘柄を変えるよう指示されたのです。ヴァレンシュ様がお好みの種類に」

「……え」

「薪の量も、椅子も、窓際の書棚も、全て閣下のご指示です。あの方は……口ではおっしゃいませんので」

暖炉の薪。

あの日。「暖かいですね」「……そうか」。あの「そうか」は。

「お伝えするなと仰せでしたが、お伝えしました」

マティアスが一礼して去っていった。

廊下に一人残された。

(もしかして。もしかして、この方は)

いや、まだ早い。帳簿を褒められただけだ。仕事ができる人間を手元に置きたいだけかもしれない。薪も茶も椅子も、雇用者として当然の待遇を整えただけかもしれない。

かもしれない。

けれど。「あなたにだ」と言った時の、あの目が、まだ瞼の裏に残っている。

帳簿室に戻ると、マティアスがもう一通の書簡を届けに来た。

「バルトゥール伯爵家から、仲裁裁判所を通じて正式な通達です。離縁は認めない、と」

熱が引いた。

白紙条項は十年。私が屋敷を出たのは八年目。あと二年。二年待てば自動的に発動するが、ルシアンは、その二年の間に私を連れ戻すつもりだろう。帳簿を作る手が必要だから。

「重大な契約違反を立証できれば、十年を待たずとも前倒しで発動できます」

自分の声が、帳簿の検算をする時のように冷静に聞こえた。

「証拠はございますか」

マティアスが、探るように尋ねた。

「……まだ、揃っていません」

帳簿の控え。偽造返信の筆跡。交易商人の証言。父の後ろ盾。

足りない。まだ足りない。けれど、道筋は見えている。

窓の外は、もう暗かった。北方の日は短い。けれど暖炉の火は、まだ暖かい。

薪は、やはり多かった。