軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 数字は嘘をつかない

数字が好きだ。

人間より、ずっと。

実家に戻って二週間。父の紹介で、近隣の町にある小さな商会の帳簿整理を引き受けることになった。

グレン商会。穀物と布地を扱う小さな店だ。主人のグレン氏は腰の曲がった老人で、帳簿を見せてもらった瞬間に、私は思わず息を吸い込んだ。

ひどい。

いや、失礼。だがこれは本音だ。数字の桁がずれている。交易記録と仕入れ台帳が噛み合っていない。消費税の計上漏れが少なくとも三件。五年分の帳簿が、全て同じ形式で間違い続けている。

「……先代の経理係がおりましたが、二年前に引退しまして。以来、私が見よう見まねで」

グレン氏が申し訳なさそうに首を縮める。

「大丈夫です。直せます」

直せる。むしろ、直したい。手が動きたがっている。

伯爵家の帳簿室に比べれば、商会の事務室は狭くて暗い。窓は一つだけで、インク壺も安物だ。けれど帳簿に向かう時の感覚は同じだった。数字を正しい位置に戻していく。歯車を噛み合わせる。壊れた時計が、また動き出す。

三日で帳簿を組み直した。消費税の漏れを遡及修正し、交易記録と仕入れ台帳を照合し、グレン氏に説明すると、老人は目を丸くした。

「これは……ヴァレンシュの嬢様、あなた様は一体どちらで」

「ただの子爵家の娘ですよ。帳簿が少し得意なだけです」

少し、というのは謙遜だ。けれど八年間、誰にも評価されなかった仕事を自分から誇る気にはなれなかった。

四日目の昼過ぎ、商会に来客があった。

事務室の扉が開いて、見慣れない長身の男が入ってきた。商人の身なりではない。仕立てのいい外套に旅の埃がうっすらと残っていて、腰には短剣を帯びている。隣には、昨日帳簿の件で話をした交易担当者……確か北方辺境伯領の荷を扱う仲買人だったはずの男が控えていた。

長身の男は事務室を一瞥し、私の机の上に開いたままの帳簿に目を留めた。

「これを整理したのは」

声が低い。短い。問いかけなのか独り言なのか判断がつかない。

「……私ですが」

「見せろ」

命令形。敬語がない。だが不思議と不快ではなかった。帳簿に向ける目が真剣だったからだ。数字を舐めるように読む人間の目を、私は知っている。父がそうだった。

帳簿を渡した。

男は立ったまま頁をめくった。速い。一頁あたり数秒。普通なら消費税の欄で手が止まるはずの箇所を、迷いなく通り過ぎていく。交易記録の照合頁も、仕入れ単価の推移表も、同じ速度で。

この人、読めている。

ふと、そう思った。帳簿の形式を理解していない人間の目の動きではない。数字の意味を追っている目だ。

けれど次の瞬間、男は或る頁で手を止めた。

「この減価償却の処理は見たことがない。どういう計算か」

……あれ。読めていたのではなかったのか。

私の勘違いだったらしい。減価償却の処理は確かに独自の方法を使っている。伯爵家で八年間かけて改良した計算式を、無意識にこの商会の帳簿にも適用していた。

「はい。こちらは資産の耐用年数を交易品目ごとに細分化した処理でして」

説明を始めると、男は腕を組んだまま聞いていた。口を挟まない。頷きもしない。けれど目が動いている。私の指が帳簿の上を辿るのを、正確に追っている。

説明が終わった。誰も口を開かない空白が、部屋に満ちた。

「名前は」

「リゼット・ヴァレンシュと申します」

「ヴェルナー・クレストだ」

クレスト。

北方辺境伯。王国北部の防衛と交易を一手に担う要職。伯爵より格上の爵位。隣に控えた交易担当者の緊張した横顔で、この人物がただの訪問客ではないことは察していたが、辺境伯本人とは思わなかった。

「辺境伯……閣下」

「うちの領地の帳簿を見てもらいたい」

唐突だった。自己紹介の次が依頼。間に何もない。

「北方は交易路が複雑で、帳簿が整わない。去年の経理係が匙を投げた」

それは、腕のいい経理係がいなかったということだろうか。それとも、帳簿の状態がそれほどひどいということだろうか。

「……お引き受けできるかどうかは、帳簿を拝見してからにさせていただけますか」

辺境伯が、ほんの一瞬だけ、口角を動かした。

笑った、というには短すぎる。けれど、あの無表情の中のわずかな変化を、見逃すほど鈍くはなかった。

「いい。見てから決めろ」

そう言って、帳簿を机に戻した。

丁寧に。

雑に投げるのではなく、数字の列が崩れないように、そっと。

その手つきを見て、ああ、と思った。この人は帳簿を粗末にしない人だ。それだけで……それだけのことで、少し安心してしまった自分に驚いた。

「では明後日、迎えを出す。荷物をまとめておけ」

辺境伯は背を向けた。外套の裾が翻る。扉に手をかけたところで、独り言のように呟いた。

「この帳簿を作った人間を手放す領主がいるのか」

振り返りはしなかった。

扉が閉まった後、残されたのは静かな事務室と、机の上に戻された帳簿と、かすかに残った外套の革の匂いだけだった。

何だったのだろう、今のは。

鎖骨の下がきゅっと縮んだ。嬉しさとは違う。悲しさでもない。名前がつけられない。

八年間、帳簿を作り続けてきた。誰に見せるでもなく、誰に評価されるでもなく。数字が正しければ、それでいいと思っていた。

見てもらえた。

ただそれだけのことが、こんなに胸に残るとは思わなかった。

グレン氏が奥から顔を出し、恐る恐る聞いてきた。

「あの……ヴァレンシュの嬢様、あのお方は一体」

「北方辺境伯閣下だそうです」

「ほおお……!」

老人が目を剥いている。私も少し、目を剥きたい気持ちだった。

帳簿を見た。さっき辺境伯が触れた頁が、まだ開いたままだった。

減価償却の処理。独自の計算式。あの人はあそこで手を止めて、質問をした。

本当に、わからなかったのだろうか。

あの頁をめくる速さを思い出す。迷いのない目の動き。

考えすぎだ、と首を振った。初対面の相手の意図を深読みするのは、帳簿を相手にしてきた人間の悪い癖だ。

けれど。

鞄の中の帳簿の控えに手を伸ばしかけて、やめた。

明後日、辺境伯領の帳簿を見る。見てから決める。それでいい。

窓の外で、四月の風がさらりと吹いた。