軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 新しい帳簿

北方の朝の匂いが、戻ってきていた。

王都を出た馬車が辺境伯領の門をくぐったのは、昨日の夕方だった。判決から数えて、王都で十日ほど残務に使った。勅令の公文、結婚手続きの仮届出、子爵邸の書斎の論文集の写本返却、それから父との長い話。全部終えた日の午後に、帰路についた。帰り道は行きより長く感じた。足が先に家を見たがっていたからだ、と思う。

昨日の夜は、帳簿室の寝台に倒れ込むように眠った。いつもなら寝る前に机の上を一度片付ける癖があるのに、昨日だけは、それを怠った。机の上のものを動かす気力がどこにもなかった。

目が覚めたら、窓の外の山の稜線に薄い光が乗っていた。鳥が一羽、屋根のどこかで短く鳴いて、飛んでいった。名前を知らない鳥だ。北方に来てもう四ヶ月近くなるのに、鳥の名前だけは、半分も覚えていない。

起き上がって、窓を開けた。

冷たい空気が、肺の奥まで一気に入ってきた。王都の四月とは別の季節の匂い。吐く息がまだわずかに白い。それが、妙に安心する。

机の上に、見慣れないものが置かれていた。

昨夜、倒れ込むように眠った時には、机の上に藍色の布に包まれた帳簿控えしか置いていなかったはずだった。それが、今朝は一つ増えている。小さな木の台が、布の隣に、そっと置かれている。

手のひらより少し大きいくらいの、小さな台。

表面はまだ少しざらついていて、角のところが丸く削られている。細い溝が一筋、縁に沿って彫られていて、そこにペンが転がり込むようになっている。木目の色から察するに、辺境伯領の北の森で切り出される、あの堅めの種類の木だ。削るのに時間がかかる木だった。

私はしばらく、それを眺めていた。

眺めてから、台の隣に置かれた小さな紙片に気づいた。

折り畳まれた紙片の折り目は、見覚えがあった。几帳面な指が、角をきっちり揃えて折った紙。扉の外の盆に置かれていたあの折り方と、同じ折り方。

開いた。

下手な字で、短い一言だけ書いてあった。

『ペンが転がらぬように』

それだけだった。

扉が叩かれた。

「失礼いたします」

マティアスだった。銀の盆を手にしている。いつもの朝のお茶と、焼き菓子が二つ。長旅から帰ってきた翌朝にしては、いつも通りすぎる登場の仕方だった。この老執事の、こういう変わらなさに、昨夜も今朝も、少し救われている。

「おかえりなさいませ、ヴァレンシュ様」

「ただいま戻りました、マティアス」

お茶を置きながら、マティアスの目が机の上の木の台に短く留まった。

「……あれは、いつから」

「閣下が、昨夜のうちにお置きになりました。あなた様がお休みになった後で」

「そうですか」

「お出掛けになる前からお作りになっていたものを、旅の間、奥の工房で乾かしていたそうでございます」

乾かしていた。

王都に発つ前から、私の帰りを待っていた、ということだった。あの方は、あの剣の手で、鑿を握って、木を削って、ペンが転がらない溝を一本掘って。それを、私が帰ってくる前に乾かしておいて。

言葉にされない。全部、行動で。

この方の不器用さは、そこまで戻ってきて、それからこの朝の机の上に置かれている。

マティアスが、お茶の横に、もう一通の書簡を置いた。封蝋は、王都監査局のもの。けれど三重の楕円の縁取りではなく、もう少し簡素な別の部局の印だった。

「昨日、お休みになっている間に届いておりました書簡でございます」

封を開けた。

短い手紙だった。差出人の欄に、若い官吏の字で、一つの名前。

『カーティス・レンフィールド』

第一審の巡回審問官の補佐官をしていた、あの若い方の名前だった。名前のほうは、第一審の途中で本人の口から伺った。本人直筆の署名を、私はこの朝、初めて目にした。

文面は、形式ばった挨拶を最小限に切り詰めた、実直な文章だった。要旨はこうだった。監査局の補佐官の職を辞すつもりである。北方辺境伯領の経理担当付きの助手として、一から経理を学び直したい。ヴァレンシュ嬢の帳簿の仕事に、自分は最初の審問の場で何かを見せられた。その何かを、言語化できないまま持っているのは悔しいので、直接手ほどきを受けたい。

最後の一行だけが、丁寧すぎない普通の調子に戻っていた。

『無理を承知で申し上げます。よろしくお願い申し上げます』

私は紙を閉じて、机の端に置いた。

もし弟子を取るとしたら、辺境伯領の帳簿を、私一人だけで回す形は、そろそろ組み替え時だとは思っていた。交易路の再編が進むと、季節ごとの記帳量が増える。一人で全部を抱えるのは、もう少し先で限界が来る。

ちょうどいい、という言葉は使いたくないけれど、時期としては、悪くなかった。

扉が、もう一度、遠慮がちに叩かれた。今度は、声はしなかった。叩いた人は、入るか入らないかを、扉の向こうでまだ迷っておられる気配だった。

「どうぞ」

扉が開いて、ヴェルナー様が入ってこられた。

朝の身支度は済ませておられた。いつもの濃紺の上着。旅装ではない。北方に戻ってきた人の顔だった。けれど、扉の内側に一歩入ってから、机の上の木の台に目が落ちて、そこで短く、立ち止まられた。私が既に気づいていることを、その瞬間に悟られたらしかった。

「……気に入ったか」

短い、少しだけ確かめるような声。

「はい」

「そうか」

短い返事。それ以上、台の話は続けない、という声の落とし方だった。この方は、自分の工芸の話を長くされるのが苦手らしい。ペンの話なら長く話すのに。

「あの」

私は、机の端のカーティスの書簡を、指先で少しだけ押し出した。

「弟子の志願者から、お手紙がまいりました」

ヴェルナー様の視線が、書簡に落ちた。封は開いている。中の字が見えるほど近くはなかったが、差出人の名前は読める位置だった。

「レンフィールド、と読めるが」

「第一審の折に、余白の論点に最初に気づいてくださった若い補佐官のお名前でございます。監査局の職を辞されて、こちらで経理を学び直したいとのことです」

「……経理の弟子を取るのか」

「取ろうと思います。辺境伯領の帳簿は、私一人ではそろそろ回らなくなってまいりますので」

ヴェルナー様は、短く頷かれた。頷いてから、息を一つ置いて、付け加えられた。

「左利きだったか、あの若いのは」

「……恐らく、右利きでございます」

「そうか」

ヴェルナー様の視線が、また机の上の木の台のほうに戻った。

戻った視線に、ほんのわずかな安堵の色が乗っていた。自分が今朝置いた台が、他の誰かのためではないことを、念のため確認なさったように見えた。口ではそうおっしゃらないけれど。

私は、机の上で、少しだけ笑った。

ヴェルナー様は、机の前の椅子に腰を下ろされた。向かい合わせでもなく、斜めでもなく、横。肘が触れそうで触れない距離。この距離がもう、私たちの定位置になってきていた。

加害者の残響の話は、ヴェルナー様のほうから、短くひとつだけされた。

「ドラモン卿は、昨日のうちにギルド長の職を辞された」

それだけだった。

「弟子たちは今、どなたかが廊下で挨拶を交わすのかどうか、見合わせているらしい。マティアスが王都経由で伝え聞いたそうだ」

私は、その情景を少しだけ想像した。想像して、すぐにやめた。想像するのは、他人の時間だ。私の時間ではない。

「それから」

ヴェルナー様は、視線を机の上に落とされた。机の上に置かれた、新しい帳簿の第一冊目。まだ何も書かれていない、白い記帳者の欄。

「結婚式の日取りを、決めていいか」

短い声だった。

いつもの無表情なのに、言葉を選ぶ時の間が、少しだけ長かった。

「はい」

私は、ペンを手に取った。

新しい帳簿を、そっと開いた。

第一頁目。記帳者の欄は、まだ白い。私は、ヴェルナー様の手作りの木の台の溝に、ペンを一度置いた。置いてから、また持ち上げた。持ち上げるのは、書かないためではない。書くためだ。

記帳者の欄に、書いた。

『リゼット・クレスト』

まだ早いかもしれない。正式な手続きは、これからだ。けれど帳簿は、未来のために作るものだから、この名前でいい。この名前を書くことで、来期の第一頁目が始まる。

書き終えてから、私はそのまま、余白のほうに指を動かした。

左の余白に、小さな藍色の記号を一つ、書き添えた。帳簿の中身ではない。検算の印でもない。ただの、私個人の、今朝の記憶のしるし。ヴェルナー様の『検算のおぼえがき』の表紙に書いてあった、あの下手な題名の、一番最初の字の形を、私の字でそっと真似して書いた。

気づかれないと思う。気づかれなくていい。余白は、私のものだ。

ヴェルナー様が、机の向こうから、私の手元の帳簿を黙って見ておられた。

見て、それから、ほんの少しだけ、無表情の端が崩れた。笑ったというには短すぎる変化だったけれど、私は、それを笑顔と呼ぶことにした。

窓の外で、北方の朝の光が、山の稜線をゆっくりと下りてきていた。

帳簿室の暖炉には、今朝も、たっぷりと薪が積まれていた。