軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 机の向き

仲裁裁判所の証人尋問室は、ギルドの審問室よりも狭かった。

高い天井の代わりに、低い木組みの梁が近くにある。壁の色は薄い灰色で、古い書類の黴臭さがうっすらと残っている。こういう部屋の匂いを、私は父の書斎の隅のほうで嗅いだことがある。法務の仕事をしている家の、誰も開けない古い抽斗の匂いだった。

長机の中央に、裁判官席。その両脇に書記と事務官。私の席は左側、告発側の席は右側。傍聴席は形ばかりの椅子が数脚、後ろのほうに並んでいる。

証人尋問の初日は、告発側が証人を呼ぶことから始まった。

呼ばれた名を、私は知っていた。

「前バルトゥール伯爵家財務副監、ハモン殿」

老いた男が、ゆっくりと入ってきた。

背は曲がっていた。八年前に私が嫁入りしてきた頃、この人はまだ壮年の域だった。けれど伯爵家の失職の後、この一年半ほどの間に、背中が明らかに小さくなった。黒い正装も、肩の縫い目のあたりが少し浮いている。貸衣装かもしれない、と思った。

ハモン殿が証人台に立たれた。

宣誓の形式を終えて、裁判官が告発側の弁護人に尋問権を渡した。弁護人は若い男で、書類を手早くめくる手つきに迷いがない。

「ハモン殿。貴殿は、リゼット嬢がバルトゥール伯爵家に嫁がれていた八年の間、同家の財務副監のお立場にあった。間違いないか」

「……はい」

「ヴァレンシュ嬢が同家の帳簿室で横領の計算を行っている現場を、貴殿は目撃されたと聞いている」

「……目撃、いたしました」

ハモン殿の声は、八年前より少しだけ掠れていた。

「帳簿室において、彼女が本文の数字を書き換え、別系統の計算で、差額を算出しておりました。算出された差額は、机の右側の抽斗に収めた金貨袋の中に、月ごとに振り分けられておりました」

淡々とした証言だった。

誰かに読み聞かされた文面を、そのまま口で再生するような淡々さ。書類に書かれた証言内容を、書類の通りに話しておられる。口の動きと、目の動きが、少しだけちぐはぐだった。

私は、傍聴席に父の姿を探した。

父は来ていなかった。仲裁裁判所の証人尋問は、直接の関係者以外の傍聴を制限されている。けれど父が昨夜、一通の短い手紙を私に渡してくれていた。手紙には一行だけ書いてあった。『副監は、八年間、あの屋敷の帳簿室に一度しか入ったことがない』。

一度。

八年の間に、一度だけ。

その一度を、今、この人は目撃したと言っている。

弁護人の尋問が一通り終わり、裁判官が私のほうに視線を移した。

「ヴァレンシュ嬢。反対尋問を」

席を立った。

机の上には、昨夜までに整理した質問の一覧があった。けれど私は、一覧の上には目を落とさなかった。代わりに、ハモン殿の顔を、少し見上げた。

「ハモン殿」

「……はい」

「一つだけ、伺います」

私の声は低かった。怒りを抑えた声でも、悲しみを押し殺した声でもない。ただ、自分の声が余計な温度を持たないように、意識して整えた声だった。

「貴殿がご覧になったという、バルトゥール伯爵邸の帳簿室。その机の向きを、教えていただけますでしょうか」

証人台のハモン殿の目が、一瞬だけ動いた。

動いて、また止まった。

「……机、と」

「はい。机の向きでございます。帳簿室の中に机が置かれていた、その向きを。窓がどの方向にあり、机がその窓に対してどう置かれていたかを、お答えいただければ」

ハモン殿の唇が、かすかに動いた。

頭の中で、急いで何かを組み立てておられるのがわかる動きだった。八年前の帳簿室を、今、この瞬間に思い出そうとしている動き。本当に記憶のある人は、こういう思い出し方はしない。記憶のある人は、瞬きを一度して、ああ、と言ってから話す。こういう、唇で先に形を作る思い出し方をしない。

ハモン殿が、短く答えられた。

「……窓を、背にして、座るように置かれておりました」

私は、頷かなかった。

否定もしなかった。

ただ、裁判官のほうに向き直って、落ち着いた声で申し上げた。

「裁判長殿。恐れ入りますが、私の側の証人を、一名、呼ばせていただけますでしょうか」

裁判官が書類を確かめて、頷かれた。

「許可する。証人の名を」

「北方辺境伯家・執事長、マティアス殿」

傍聴席の後方で、立ち上がる気配があった。

マティアスだった。

白髪の老執事が、背筋をまっすぐにして、証人台に歩み出てこられた。三十年仕えた人の歩き方は、仲裁裁判所の石の床の上でも変わらない。落ち着いていて、決して急がない。

宣誓の後、私はマティアスに尋ねた。

「マティアス殿。あなたがお仕えする北方辺境伯家の帳簿室、今、私が執務に使っているあの部屋の、机の向きを、お答えいただけますか」

「ヴァレンシュ様がお使いの帳簿室の机は、窓を横に見る向きで設置されております。窓は東向き、机は北向きを頭にして据えてございます。ヴァレンシュ様は毎朝、窓の光の角度を確かめて、インクの乾き具合を考慮しながら、机の位置を半寸ずつ微調整しておられます」

マティアスの声は、証人台でもいつもの執事の声だった。

私はもう一つ、質問を重ねた。

「その配置を、あなたは三ヶ月間、毎朝、ご覧になっておりますか」

「毎朝、お部屋にお茶をお運びする際に、拝見しております。机の位置が前日と変わっていることもございます。ヴァレンシュ様は、その日の光の差し方に合わせて、机を調整される習慣をお持ちでございます」

「その習慣を、あなたは、いつお気づきになりましたか」

「お着きになった翌日からでございます」

マティアスの目が、短く、私のほうに向けられた。

ほんの短い目配せだった。三十年仕えた老執事の目配せは、私には、別の言葉を添えていた。『前のお屋敷でも、同じ習慣であられたと存じ上げます』。口に出されない一文を、私は、確かに受け取った。

裁判官が、書類の角を揃え直された。

王立監査局の審問官と似た手癖だった。法務の仕事をする人には、こういう仕草の癖が共通しているらしい。

裁判官の視線が、ハモン殿に戻った。

「ハモン殿。証言の内容を、一点だけ確認する。バルトゥール伯爵家の帳簿室の机の向きについて、貴殿は窓を背にする向きであったと答えられた。間違いないか」

「……はい」

ハモン殿の声は、先ほどよりさらに掠れていた。

「ヴァレンシュ嬢の証言によれば、ご本人の帳簿室の机は、長年、窓を横に見る向きで置かれていたとのことである。ご本人の執務習慣として、光の角度とインクの乾燥を考慮した配置を、嫁入り前から維持しておられたと」

裁判官が、短く言葉を切った。

「この食い違いについて、貴殿から補足説明があれば聞く」

ハモン殿は、答えられなかった。

答えられないまま、視線が、机の縁に落ちていった。老いた顔が俯いて、薄い肩のあたりの布の皺が一つだけ深くなった。

私は、それ以上の質問はしなかった。

するべきことではなかった。

ハモン殿の目撃証言の前提が崩れたことを、この場の全員が理解していた。裁判官も、書記も、告発側の若い弁護人も。八年間、同じ屋敷で仕事をしていた人が、机の向きを間違える。その事実が何を意味するかを、この場で言葉にする必要はなかった。

ただ、一つだけ、私は短く申し上げた。

自分に言い聞かせる形で。

「机の向きを覚えていない方は、帳簿の重さも、ご存じありません」

言ったあとで、少しだけ後悔した。

後悔したのは、その言葉が証人に向けられたように聞こえたかもしれないからだ。けれど私は、もともとその言葉を、八年間の自分自身に向けて言ったつもりだった。八年間、同じ屋敷で私の帳簿を、誰にも重さを知ってもらえなかったこと。その重さが、今、この部屋で、初めて机の向きとして現れたこと。

尋問が閉会した後、私は一人で廊下に出た。

石造りの廊下は、この時間だけは人気が少なかった。古い壁の隙間を、風が一筋だけ抜けていく。

廊下の向こうから、ヴェルナー様が歩いてこられた。

立会人席から真っ直ぐに、迷いのない歩幅で。私の前で止まって、短く一言。

「よくやった」

「……ヴェルナー様」

私は首を振った。振ってから、一度、息を吸った。

「昨日の夜は、申し訳ございませんでした」

先に言ってしまった。考えていた言葉ではなく、舌の先が先に動いた。

「あなた様のお申し出を、あのような言い方でお断りするべきではございませんでした。お名前を貸してくださるというお申し出の重さを、私は、軽く扱うつもりはございませんでした。軽く扱っているように聞こえたのであれば」

「違う」

ヴェルナー様が、短く遮られた。

「軽く扱われたとは思っていない。あなたが自分の筆で立て直したいと言った理由は、わかっている。わかっていても、昨日の俺は、それを受け入れる側の器が追いつかなかった。追いつかないまま、先に声を荒げた。俺のほうが、謝る立場だ」

ヴェルナー様が、視線を短く伏せられた。

伏せた顔の、眉の間の皺が、昨日より薄くなっていた。薄くなっているのを、私は見逃さなかった。

「……隣にいるだけで十分だと、昨日、あなたは言った。俺は、その言葉の意味を、昨夜の間ずっと考えた」

「はい」

「意味は、わかったと思う」

ヴェルナー様の手が、私の手首のあたりまで、少しだけ持ち上がって、そこで止まった。止まった手が、そのままゆっくりと、私の机の端の抽斗のあたりまで下がった。指先が、何かを確かめるように、短く、机の上の藍色の布を軽く叩いた。布の中には、帳簿控えが包まれていた。

その動きに、別の意味はなかった。ただ、この中身を守ることだけは俺の役目だ、というくらいの意味だった。

私は、小さく頷いた。

そのまま廊下を進もうとした時、反対側の奥から、別の足音が近づいてきた。

女性の足音だった。絹の擦れる音が、歩幅の間に混じる。正装で歩くことに慣れた人の足音だった。

角を曲がってきた人と、目が合った。

細身の、整った顔の女性だった。年の頃は私より少し上。灰色がかった上品な上着を身に着けて、髪は後ろで簡潔にまとめている。私とは初対面だった。けれど、顔立ちの一部に見覚えがあった。その見覚えの正体を、私はしばらく思い出せなかった。

思い出した時、息が短く止まった。

セリーヌ・モンフォールと、目元の形が、よく似ていた。

宮廷魔法師の正装を身につけたその人は、私の前で立ち止まって、軽く会釈をした。会釈の深さが、同格の女性への儀礼として、正確に測られていた。

「はじめまして。イリス・モンフォールと申します。明日の証人尋問で、告発側の証人として立会う予定の者でございます」

落ち着いた声だった。

落ち着いていて、整っていて、嘘の気配のない声だった。

そしてその声で、もう一言、続けられた。

「次は、私の番です」

廊下の風が、また一筋、壁の隙間を抜けていった。