軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 私の筆跡

朝の光が、帳簿室の窓から差し込んでいた。

北方の四月は、朝の冷え込みがまだ残っている。窓硝子の内側がうっすら曇って、指で拭うと、向こうの山の稜線がくっきりと見える。雪はもう大半が消えているのに、頂のあたりだけは白い。どうして頂だけ最後まで雪が残るのか、私は理屈を知らない。知らないまま、毎朝それを眺めている。

机の上には、今月分の月次帳簿が開いたままになっていた。

春の種籾の配分表の続きだ。記帳の途中でインクの瓶を足したので、左の欄の色がわずかに濃い。細かい話だが、帳簿を後で読み返す時には、こういう細かさが年々もの言う。

三週間前に、私はこの屋敷の奥に来た。

審問も、離縁後の手続きも、婚約の内々の披露も、全て終わった三週間。穏やかな日々だった。帳簿の数字が全部合う日々。辺境伯領の交易利益は、先月分で予想値を少し上回った。備蓄管理台帳は再構築が完全に終わり、春の種籾の配分も計算が済んでいる。

こんな落ち着いた朝が、八年ぶりだと思う。

いや、八年ぶりというのは嘘だ。こういう朝など、バルトゥールの屋敷にはなかった。数字には穏やかだったけれど、人の気配に穏やかなことはなかった。こういう朝は、初めてと言っていい。

ペンにインクをつけて、続きを書き始めた。

扉を叩く音がした。

控えめな、けれど迷いのない叩き方。マティアスだ。三十年仕えた老執事の叩き方は、紙の上にインクが落ちる時の音にどこか似ている。急がず、確かに。

「ヴァレンシュ様。失礼いたします」

「どうぞ」

扉が開いた。銀の盆の上に、朝のお茶と、一通の書簡。

書簡を見た瞬間、ペンが止まった。

封蝋が、王宮のものだった。正確には、王宮の下位機関。監査局の印。三重の縁取りのある楕円の封蝋を、私は見慣れている。八年間、バルトゥール領の税収報告を毎月のように送っていた相手だから。

なぜ、ここに。

辺境伯領の経理担当としての私には、監査局から書簡が届く筋合いがない。北方の税収は別の部局の管轄だ。ましてや、私個人宛の書状となれば。

「王都から、ヴァレンシュ様宛に。朝一番の早馬で届きました」

マティアスの声が、いつもより半拍だけ慎重だった。この老執事は、封蝋を見て中身の重みをあらかじめ量る癖がある。その癖で、既に量り終えた後の声だった。

「……ありがとうございます。いただきます」

盆からお茶を取り、書簡を取り、マティアスが一礼して出ていく。扉が閉まる音を聞いてから、私は封蝋に指をかけた。

指先が、冷たかった。

書状は、形式通りの前文で始まっていた。

監査局・第三調査課からの照会。件名は『バルトゥール伯爵領・過去八年の会計記録に関する追補調査の依頼』。文面は簡潔で、要するに、過去八年のバルトゥール領の帳簿について、記帳者本人に確認したい点がある、と。

そこまでは、予想の範囲内だった。

第1章で父が動いた後と同じく、監査局は独自にバルトゥール領の税収を追い続けている。離縁が成立した今でも、過去の帳簿について確認が来るのは、むしろ継続的な調査の一環として筋が通っている。

私は頁をめくった。

裏面に、同封の写しがあった。

鑑定魔法による筆跡の写し取り。銀色の粉で紙の上に浮き上がらせた、帳簿の一頁の複製。監査局が物証として扱う時に使う手法で、原本を動かさずに筆跡だけを別紙に移す。

私はその写しを見た。

見て、呼吸が浅くなった。

私の字だった。

完璧に、私の字だった。

縦線が硬い。数字の四の書き始めが、ほんの少し下方向に引きずられる癖がある。桁を揃える時の行間の取り方。小数点の打ち方。全部、私の手から出てきた線に見えた。

けれど。

その頁に書かれている内容を、私は知らない。

バルトゥール伯爵領の備蓄管理台帳の一頁。日付は四年前の秋。内容は、備蓄小麦の一部を領外に『臨時転売』したという記録。転売先の口座名義は、私の名前だった。リゼット・バルトゥール。月ごとに少額ずつ、合計すれば決して少なくはない銀貨が、私名義の口座に流れていた、と書かれている。

そんな取引をした記憶はない。

いや、記憶ではない。そんな取引は、存在しない。存在するなら、私が知らないはずがない。私は八年間、あの屋敷の帳簿の全てを閉じていた人間だ。備蓄管理の欄に臨時転売を書き入れたことは、一度もない。

けれど写しの字は、私の字だ。

奥歯の裏側が、じわりと痺れた。

冷えた指先と、口の中の痺れ。体の中で温度がちぐはぐになっている。

(……誰)

問いかけが、頭の奥で鳴った。

誰。誰が、私の手を、こんな、私の手を使って、知らない、こんな、書いたのは誰。書いたはずがないのに書かれて、書かれてないのに書いてある、書いて、誰。

思考が、そこで一度、足を取られた。

取られて、すぐには立て直せなかった。帳簿の数字が合わない時は、まず深呼吸をして、一行目から確認する。そうやって八年間やってきた。いつもの手順を、頭のほうが先に思い出そうとして、指のほうが言うことを聞かなかった。

書斎の扉が、叩かれもせずに開いた。

顔を上げた。この屋敷で、帳簿室に予告なく入ってくる人は一人しかいない。

ヴェルナー様だった。

旅装ではない。普段の執務の服。ただ、歩き方がいつもと違った。廊下を歩く時の、あの無駄のない長い歩幅ではなく、扉の前で一度だけ止まって、それから入ってこられた。止まった瞬間に、中に入っていいかをご自身に問われたような、そういう間だった。

「同じ書簡が、俺のところにも来た」

ヴェルナー様が、机の前まで来られた。私の手元の写しに目を落とされて、しばらく動かなかった。

「……これは」

「私の、筆跡です」

自分の声が、薄く響いた。耳の後ろのあたりで自分の言葉が二度聞こえた気がした。

ヴェルナー様が、写しを手に取られた。

指先で、銀色の線を辿られる。帳簿を読む時の、いつもの目の動き。数字の列を追う時の落ち着いた速さ。一頁を読み終えるのに、いつもより時間がかかった。いつもの倍近く、凝視しておられた。

顔を上げられた。

「あなたが書いたものではない」

短い、確かな声。

確かすぎるほど確かな声。

「あなたが書いていない。俺が保証する」

「……ヴェルナー様」

「俺の屋敷の帳簿を三ヶ月間見てきた。あなたの手から出てきた線を、俺は、知っている」

低い声に、いつもは乗っていないものが乗っていた。熱、というには硬くて、怒りというには抑えられた、何か。名前がつけられない感情が、声の芯にあった。

ヴェルナー様が、写しを机に戻された。

戻した手が、一瞬だけ、止まった。

戻した後、ご自身の手を一度だけ見つめて、それから、ゆっくりと部屋を出ていこうとされた。振り返らずに。何も言わずに。

廊下の向こうに、剣置き場がある。

三ヶ月間、この屋敷で暮らして、私はそれを知っている。ヴェルナー様がそこに向かう足取りを、私は初めて見た。

「お待ちください」

席を立っていた。自分でも驚いた。

一歩、二歩、三歩。机を回り込んで、廊下に出る扉の前で、ヴェルナー様に追いついた。届いたのは、外套の裾だった。濃紺の生地を、私の指がためらいながら掴んでいる。

ヴェルナー様が、止まられた。

止まって、振り返られた。

無表情ではなかった。いつもの読めない顔が、ほんの少しだけ、崩れていた。眉の間に、細い皺が一本、入っている。夜更けの書斎で一人、難しい書簡を読む時に見たことのある皺だ。

「……すまない」

短い声だった。

「どうしていいか、わからなかった」

ヴェルナー様の視線が、私の指先に落ちた。外套の裾を掴んでいる、私の手。

「剣を取って、どうにかしようとした。違うのはわかっている。剣で解ける問題ではない。わかっているのに、手が先に、そちらへ動いた」

その声を聞きながら、私は自分の指先が外套を離せないことに気づいていた。離したら、この方は本当に剣置き場へ行ってしまう気がした。行ってから、きっと剣を手に取る前に、また立ち止まって、やはり違うと思い直して、戻ってこられるだろう。わかっている。この方の不器用さは、そういう種類だ。わかっているのに。

離せなかった。

「ヴェルナー様」

「ああ」

「この書簡は、剣では、止められません」

「ああ」

「私の筆跡で書かれた帳簿です。私が自分の筆跡で、自分の潔白を証明する以外に、道はございません」

ヴェルナー様が、私を見下ろしておられた。

しばらく、動かなかった。

それから、外套の裾を掴んだ私の手の上に、ご自身の大きな手をゆっくりと重ねられた。剣を握るための硬い指が、私の指の上にそっと乗った。温かかった。北方の朝の冷気の中で、その温度だけが、現実の形をしていた。

「すまない」

もう一度、言われた。

「あなたの戦いだ。俺が先に出てはならなかった」

私は首を振った。振ることしかできなかった。

机の上に置き去りにした写しのほうを、目の端で一度だけ見た。銀色の線が、朝の光を受けて、うっすらと光っている。

誰かが、私の手を借りて、嘘の帳簿を書いた。

その誰かを、私は、まだ知らない。