軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第28話 水月の迷宮の雑談

扉を、開く。

勝手知ったるロレーヌの家。

今の俺の塒だ。

ロレーヌの好意で、普通の宿に泊まるのが厳しい俺のために住まわせてもらっている家。

彼女がここに住み始めたのは、十年前にさかのぼる。

本当に昔のことだが、つい最近のことのようにも思えることもある。

腐れ縁、と言ってもいいくらいに長い付き合いの彼女。

俺の何よりの友人。

そんな彼女の家の扉の鍵は、普段から開いていることが多く、今日もやはり、開いていた。

いくらなんでも、年頃の女性の家である。

不用心に過ぎる、と思わないでもない。

しかし、それが彼女の性格なのだ。

ロレーヌは基本的に自堕落で、なまけものな生活をしている。

だから、色々なことに大雑把で、カギについてもそうなのである。

けれど、それだけが理由ではなく、彼女には戦える技能がある。

どこの誰が、銀級相当の実力を持つ魔術師を襲おうなどと考えるだろう。

彼女は分かっているのだ。

どんな暴漢が襲って来ようと、自分には滅多なことでは危険などないということを。

そう、分かっているからこその、不用心さだった。

俺もまた、ロレーヌには危険はないと思っている。

彼女には戦う力があるからだ。

だから……だから?

そうだ。

屍食鬼(グール) が入り込もうとも、大丈夫だ……。

◇◆◇◆◇

「……レントか? 戻って来たか」

俺が部屋の中に入ってくる音が聞こえたのだろう。

衣擦れの音と共に、ロレーヌの理知的で、どこか蠱惑的な声が響く。

眠そうで、けれどぶっきらぼうではなく、優しい、穏やかな声だ。

俺はそれにいつものように、答える。

「……あ、あ……」

「そうか。今日は《水月の迷宮》を見てくると言う話だったが、どうだ。いたか、《龍》は?」

「……い、や……」

世間話に返答しながら、俺は徐々にロレーヌに近づいていく。

進んでいくと、ソファに寄りかかる様に座るロレーヌが見えた。

視線が目に入ると、彼女は膝の上に分厚い本を置いて、それに目もくれずに、優しげなまなざしで、俺を見ていた。

不思議な感覚がした。

だって、俺は 屍食鬼(グール) なのに。

人間ではなく、人の敵だ……。

それなのに、彼女は……。

「……? レント。どうかしたか……? 口数が少ないように思うが。やはり、《龍》がいなくてショックだったか?」

「……そん、な、ことは、ない……お、れは、う、れ、しい……」

そう言いながら、俺は、ほぼロレーヌに、あと一歩のところまでたどり着いていていた。

手を伸ばせば、触れられる。

そんな距離だ。

ぼんやりとロレーヌの顔を見つめる。

相変わらず髪は適当にまとめているし、服装もローブを大雑把に身に付けているだけだ。

けれど、それでも隠しきれない魅力が感じられる……。

魅力……どんな魅力だ?

それは……。

ロレーヌはそんな俺に、尋ねる。

「嬉しい? なにかいいことでも」

そして、彼女が最後まで言葉を言い切る前に、俺は彼女を抱きしめた。

◇◆◇◆◇

「……!? れ、レント……一体、何を……? 酔っているのか……? いや、不死者が酔うはずは、ないか……」

いつもより上気したような声で、自分に言い聞かせるようにそう呟く彼女は、どこかいつもより可愛らしい気がした。

肌が少し赤みを帯び、汗がにじんで、埃っぽい空気の中にロレーヌの香りがふわりと匂う。

俺はその香りに、くらくらとしたものを感じながら、ロレーヌを抱きしめたまま、言う……。

「ろ、れーぬ……おれは……」

「あ、あぁ……なんだ、レント」

何かを、言おうとした気がした。

大事なことをなにか。

けれど、その思考は、少しずつ何かに塗りつぶされるように消えていく。

視界が赤く染まっていき、頭の中に満ちるのは混乱だった。

そして、ロレーヌの香りに、俺が感じた感情は、

――美味しそうな匂いだ。

そう思うと同時に、俺は口を開き、ロレーヌの肩にかかったローブをずらして、その白い肌に歯を立てていた。

「……ッ!?」

ロレーヌはしかし、悲鳴は上げなかった。

声にならない声を、喉の奥に飲み込んだような。

体は強張って、痛みに震えているようだったけれど、それでも叫んだりはしなかった。

叫べば、外に聞こえるだろう。

そして、誰かがやってくるはずだ。

都市マルトの治安は悪くない。

何か事件の気配があれば、誰かしらの介入はある。

それが分かっていての行動だろう。

そうだ、ロレーヌは痛いだろうに、我慢している。

そのことが、彼女の肉をより上質の味にしているような気がして、俺は歯をさらに彼女の肩に食い込ませる。

すると、じわり、と血が染みてきて、俺の喉を潤した。

あぁ、なんておいしいのだろう。

こんな飲み物を、俺は今まで一度たりとも口にしたことはなかった。

昔呑んだ二十年物の古酒が泥水だったかのようにすら感じる甘美な感覚。

もっと、飲みたい。

もっと、もっとだ……。

そう思って、俺はロレーヌの血を、吸う。

「……うっ、あ、れん、と……お前……」

ロレーヌの声が聞こえるが、しかしやめる気にはならない。

それに、思う。

血がこれだけ美味しいのなら、その肉の味はどうか、と。

それこそ、この世のものとは思えない味がするかもしれない、と。

俺は、歯の力を強め、そして……。

――ぶちり。

「……あぁっ!?」

ロレーヌの肩の肉を、食いちぎった。

量はわずかで、それこそ小指の爪の先ほどだ。

けれど、その味はやはり、想像した通りの素晴らしさで……。

何度となく咀嚼し、味わう。

ずっと、これだけを口に含んでいてもいい。

そう思えるような味だった。

しかし、やはり量が少なかったから、すぐにその幸せは通り過ぎる。

飲み込むと、また、喉の渇きがやってきた。

潤さなければならない。

そう思って振り返ると。

「……れん、と……。お前は、まだ、そこに、いるのか?」

ロレーヌが、肩から血を流しながら、俺をまっすぐに見つめてそう尋ねた。

……?

レント。

それは、俺の名だ。

ここに俺がいるのかって?

どういう意味だ。

俺はここにいるだろう。

いるさ。

だから、お前の、血をくれ。

一瞬だけ、立ち止まり、それから俺はまた、ロレーヌに向かって襲い掛かる。

しかし、ロレーヌは俺の反応に頷いて、

「まだ、いる、らしいな……ならば、今は眠れっ……!」

そう叫び、手のひらを向けてきた。

魔力がロレーヌの手のひらの先に収束しているのを感じた時にはもう、手遅れで。

そこから俺に向かって、火炎の弾が放たれる。

その威力は流石、銀級クラスの魔術師であり、俺は吹き飛ばされ、そしてそのまま壁に思い切りぶつかった。

それから、ずるずると地面に倒れていき……意識が遠くなっていく。

そんな俺の元に、ロレーヌが慌てて駆け寄ってきて、俺の頬に手を当て、

「……よし、生きているな。とりあえず、謝罪は起きてから聞くぞ」

そう言ってから、今度は“眠り”の魔術を唱えた。

意識が遠くなるのが早まる。

完全に意識が消える前、俺の耳に、ロレーヌの言葉が聞こえた。

「……これは覚えていなくてもいいが、襲い掛かるのなら、せめて素面のときにしてくれ。いつ食われても構わんのだ、こっちは……」

空耳かな、これは。

遠くなる意識の中で、俺はそんなことを思った。

妙な力が、体に満ちるのを感じながら。