軽量なろうリーダー

もうあなたを待つことはない

作者: 十六夜桜餅

本文

公園の時計の針が夕刻の六時を告げている。私は今日も来ないであろう彼を待っていた。

約束は昼の十二時だった、もしかしたら、今そこまで走って来てるかもしれない、汗をかいて慌てながら、翡翠色の目で私を見てごめんねって……。

今帰ったらすれ違うかも、そんな事を考えてもう六時間経っている、でも今日で最後……、もう少しだけ待ってみよう。

心の奥ではもう分かっていた。どんなに待ってもあの人は来ないだろう。

……もう少し待って来なければ、私はこの恋を終わらせよう。

そう最初から決めていた……はずなのに足は動かない。心が彼を諦めてくれない。今、この瞬間にも彼が駆けつけてくれる気がして。

やがて、空が泣き出した。冷たい雨粒が肩に落ち、全身を濡らしていく。滲む視界は、雨粒のせいなのか、それとも私の――。

「……まだ、待つのか……」

頭上にふいに影が差した。見上げると、差し出された黒い傘。そして私の肩にふわりと、温かな上着が掛けられた。

はしばみ色の、優しく柔らかい薄茶色の目が真っ直ぐに私を見ていた。それは、彼の親友――アルバートだった。

「いいえ、もう帰るわ」

「そうか……風邪を引くぞ、送って行く」

「……わかっていたの、きっと今日も彼は来ないって」

「――あいつ」

「どうせ今日も彼女のとこでしょう。もういいの、今日で最後って決めてたから」

彼は何も言わず私の肩に手を置いて馬車に乗せてくれた

――私ロジーヌ・アルマンと婚約者レイモンド・カーティスの出会いは私が学園の一年生だった頃。

私はアルマン伯爵家の長女で、緩くウェーブのかかった淡い水色の髪に、淡藤色のつり目をしている。そのせいか、よく気が強そうとか怒ってるの? と聞かれる。喋るのが面倒で無口なのも、より冷たい印象を与える原因らしい。

そんな私の数少ない友人の婚約者が、騎士科の三年生にいて、よく付き添いで模擬練習を見に行ってた。

騎士科にはレイモンドとその親友アルバート・マクスウェルもいた。

レイモンドはカーティス伯爵家の次男で髪は柔らかい金の髪で、首筋にかかるくらいの長さで、短く整えられていた。柔らかな前髪が翡翠色の目を際立たせていた。屈託のない笑顔に優しさを滲ませた、まるで物語の王子様のような人だった。

アルバートはマクスウェル侯爵家の長男で鮮やかな赤い髪を無造作に伸ばし、後ろでゆるく括っている。長めの前髪が気怠げに垂れ、その隙間から覗くはしばみ色の目は、どこか軽薄そうで掴みどころがない。

二人とも婚約者のいない上級生で、女生徒の間では常に噂の的だったらしい。けれど私はそうした話題にあまり興味がなく、二人の事はよく知らなかった。

そんなある日、図書室で用事を済ませた後、帰ろうと扉を開けた時、入ってこようとしていたレイモンドと激突して、倒れた拍子に足首を捻って立てなくなってしまった。

レイモンドは慌てて、大丈夫だと言う私の言葉を聞かず横抱きにして保健室まで走ってくれた。

その事故がきっかけでレイモンドと仲良くなり、アルバートを紹介され、よく三人で遊ぶようになった。

その後、学園を卒業したレイモンドとアルバートは、王立第一騎士団の第一部隊と第二部隊にそれぞれ入隊した。二人が卒業してからも、何かと三人で出掛けたり、差し入れをしたりと交流していた。そんな時にカーティス家から婚約の打診が来た。

両家の顔合わせの時、レイモンドと二人で庭園を散策中、私のきつい顔は嫌じゃないのか聞くと、彼は照れくさそうに翡翠色の目を細めて。

「俺はロジーヌの目、大好きだよ。ちょっときつそうな顔立ちも、本当は面倒くさがりでパーティーより家で本を読んでるのが好きなとこも、甘い物が大好きなのに、運動が嫌いで太りたくないって我慢してるとこも、自分の顔があまり好きじゃなくて、色々言われて傷ついちゃう繊細なとこも全部大好きだよ」

この人は本当の私を見てくれている。――私はこの時、恋に落ちた。

後で聞いた話によると、練習を見に行ってた時から私が気になってたらしい。

そして婚約が成立して、アルバートに報告をした。

「おめでとう、ロジーヌにレイモンドを取られちまったな」そう言って少し寂しそうにアルバートは笑った。

このまま、結婚してずっと幸せが続いて行くんだと思っていた。――あの事件が起こるまでは。

一年前、レイモンドのいる第一部隊は犯罪組織を追っていた。副隊長になったばかりのレイモンドは少し功を焦っていて、犯罪組織の隠れ家を見つけた時、周りの言葉を聞かず単身乗り込んで……。

結果、組織は壊滅したがその時、人身売買の為に組織に攫われていた、子爵令嬢のアメリア・ハーコートがいて、乱闘の中で足に怪我をした。

怪我の原因はレイモンドとは全く関係がないのだが、それから毎日責任を感じたレイモンドが見舞いに行き、あれこれ面倒を見ている内に、彼女がレイモンドに惹かれてしまったようで、何かとレイモンドを呼び出しては買い物に付き合わせたり、食事に付き合わせたりして……。

私とのデートの日は必ず治ったはずの足が痛み始めて歩けなくなる、そしてレイモンドを呼び出す。

そして三ヶ月程前のある日の午後、買い物の後、たまたま入ったカフェで声をかけられた。

「突然ごめんなさい、ロジーヌ様ですよね? 私アメリア・ハーコートと言います。ごめんなさい! 私いつもレイモンド様を独占しているみたいで……怒ってますよね?」

アメリア・ハーコートは、肩の辺りまである栗色のふわふわした髪をハーフアップにして、くりくりした大きな薄桃色の目の可愛い女の子だった。

その彼女がいきなり頭を下げてきて、突然のことに私は戸惑い、返事が遅れてしまった。

「でも、私とレイモンド様はそんな関係じゃないんです……。ただ、私の足を心配してくれているだけで、痛くて歩けない時に抱き上げて運んでくださるだけなんです。やましいことなんて何もありません!」

そのあと、延々とレイモンドとの話を聞かされ、そろそろ止めてもらいたくて、私が口を開きかけた、その時。

「あっ、もう行かないと! 今日はレイモンド様と今人気のお芝居を観に行くんです。途中で足が痛み出したら大変だから一緒に行こうって……。それじゃあまた!」

そう言って、待ち合わせであろう方向へ走り去ってしまった。……足が痛む人には、到底見えない速度で。

その数日後、私はやっとレイモンドに会えた。この半年はデートどころかろくに顔も見ていない日々が続いていた。

カフェで待ち合わせてその後デートの予定だったが、私は今までのレイモンドの態度を注意をすると、彼は不機嫌になって。

「君ならわかってくれると思っていたのに……」

「でも、怪我の原因はあなたに責任は無いでしょう、なのに何故そんなに彼女の言いなりになっているの? 彼女の事が好きになったの?」

「そんなんじゃない! 何故わかってくれないんだ、彼女の怪我の直接の原因は俺じゃないが、守れなかったのは事実だ。それに体の傷は治っているが心に負った傷はまだ彼女の心を蝕んでいるんだよ」

「だからっていつも私とのデートの時に痛み出すのは不自然じゃない?」

「彼女は俺が居なくなると不安になるらしいんだ、いつも泣きながら謝ってたよ、ロジーヌに悪いって、彼女はとても優しい良い子なんだよ、ロジーヌも会えばきっとわかるよ、可愛くってさ、妹がいたらこんな感じかなって、それなのに……」

「ごめんなさい、少し言い過ぎたわ、でも……」

「とにかく、そんな彼女を放っておくなんて人間として間違ってるだろう? 君は強いからわからないかもしれないが、彼女はとても繊細なんだよ、わかってくれ。もう少ししたら彼女も落ち着くと思う、それまでわがままを言って俺を困らせないでくれ」

そう言って彼はカフェを出て行った、彼女が呼んでいるからと。

「……私のわがまま……」

彼を愛する心がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じる。

私をわかってくれているんじゃなかったの? 私は強くなんか無い、あなたが離れていくんじゃないかって怖くていつだって不安よ。あなたが彼女と行ったお芝居、前から私が見たがっていたら今度デートで一緒に行こうって言ってくれた約束、覚えてないの?

呆然と席から動けずに俯いていると、目の前の席に誰かが座った、顔を上げるとアルバートが心配そうにこちらを見ている。

「ごめん、詰所でレイモンドがロジーヌに会った後、あの女の所に行くって聞いて止めたんだけど……心配で、大丈夫……じゃないよな」

「心配して来てくれたの? ありがとう……大丈夫じゃないけどもういいの」

「……」

アルバートは拳を膝の上でぎゅっと握った。

「でも、恋愛じゃないみたいよ、妹みたいだって」

「妹?」

アルバートは小さく息を吐き、苦い笑みを浮かべた。

「その“妹”に全部時間を割いて、婚約者の心を傷つける奴は、騎士失格だな」

彼の低い声には、苛立ちと、そして私への優しさが滲んでいた。その声に、胸がぎゅっと痛んだ。

「次の約束で最後にする、次も来ないようならそこで終わりにするわ」

「……何があっても俺はロジーヌの味方だから」

「ふふっ、レイモンドの親友なのにいいの?」

「ああ、俺もあいつを信じる最後のチャンスにするよ。……あいつはバカだ、お前の方がずっといい女なのにな」

胸の奥に、温かくて苦い何かが広がった。

――雨が激しさを増す中馬車は進む。アルバートは向かいに座るロジーヌにタオルを渡すと、黙って窓の外を眺めていた。

「覚悟はしてたけど、やっぱり来なかったわね」

泣き濡れて赤くなった目でアルバートを見ながら、痛々しげに微笑む。

「無理して笑うなよ、俺の前でくらい泣いていい」

その言葉に引っ込んでいた涙がみるみると溢れていく。 すぐ前にいるはずのアルバートの姿も滲んで見えない。

借りてるタオルに顔を埋めしゃくり上げて泣いた。

「私の何がいけなかったのかなぁ……広い心で我慢するべきだったのかなぁ……いくら考えても、どうしたら彼が前のように、私を見てくれるのかわからないの……」

喉の奥に石が詰まっているみたいで、上手く言葉が出てこない。

アルバートがそっと手を伸ばしかけて……拳を握りしめ、引っ込めた。

「お前のせいじゃない。どんなに考えても、お前が我慢しても、あいつはきっと変わらない。それどころか図に乗るだけだろう。」

アルバートはそれ以上言葉を重ねなかった。ただ、拳を握りしめたまま視線を逸らし、窓の外に降りしきる雨を睨みつけていた。

馬車の中に沈黙が満ちる。けれどその沈黙に私は何か懐かしい物を感じた。

……そういえば前に……。

――学生の頃の夏休み、アルバートの別荘がある避暑地に三人で遊びに行った時。

お弁当を持って、森の湖にピクニックに行き、帰りは歩いて帰ろうと先に馬車を返した後、急に雲行きが怪しくなって来たので、三人の中で一番足が速いレイモンドが屋敷に戻って馬車を呼んで来ることになった。

だけど、レイモンドが戻る前に雨が降って来て、どんどん雨脚が激しくなり、スコールの様な土砂降りになってきたので、私とアルバートは雨宿りが出来るところを探しに森に入った。

森の中を少し進んだ所に立派な木が生えていて、そこに二人で入れる位のウロをみつけ避難した。

ウロの中は狭くて二人で肩を寄せ合うように入るしか無く、少し気まずい空気が流れた。

少し肌寒くクシャミをすると、アルバートは慌てて自分の服を掛けてくれようとしたけど二人共びしょ濡れで意味が無くてお互いの目があった途端笑ってしまった。

さっきまでの気まずい空気が消えて、二人で肩を寄せ合いながら、なかなか戻って来ないレイモンドへの愚痴を言い合って笑っていた。

結局雨が止む頃にレイモンドが戻って来て、随分遅かったので理由を聞いたら、馬車で向かってる途中で木の下で雨宿りしているおばあさんを見つけて、送ってあげていたらしく、優しい人だと思っていたら、アルバートが「それだけでこんなに遅くならないだろう」と問い質し、聞いてみるとおばあさんを送ったら、そこの孫娘にお礼に夕食をと誘われて、断ったがなかなか離してもらえず、仕方なくお茶をご馳走になって来たと。

私達は呆れて言葉も出なかった。あの時、ああ、この人は断れない人なんだと思った。それが今、こんな事になるなんて思いもしなかった。

――やがて馬車が屋敷に着き、私は深く息を吐いた。

父と母に話そう。

「アルバート……ありがとう」

「……気にするな」

「これから両親に話すわ」

「俺も一緒に行こうか?」

「いいえ、一人で大丈夫」

「わかった、何かあったら言ってくれ、すぐに来るから」

彼の声は低く、けれど確かに私を支えてくれていた。

私は濡れたワンピースを翻しながら屋敷に入ると、まず部屋で濡れた服を着替え、父と母が待つ応接間に向かった。

部屋に入り二人の視線を受けた瞬間、さっきあれほど泣いたのにまだ枯れてなかったのか涙があふれ出す。

「……お父様、お母様。私、レイモンドとの婚約を解消します」

言い切ると、父はそっと目を閉じてから、優しく頷き、母はホッと息をついた。

「やっと言ってくれたのね。ずっと苦しそうだったものね。見ている私達も辛かったわ」

父も深く息を吐き、穏やかな声で告げる。

「我々も調べて知ってはいたんだよ。だがお前が自分で決断しなければ気持ちにケジメを付けられないと思ってね。まあ、そのまま結婚する事になった時にはさすがに止めようとは思ったが」

母の腕に抱き寄せられ、張り詰めていた心がふっと軽くなる。見守られていたのだと知り、今度は温かい涙が込み上げてきた。母がハンカチで私の頬を拭いながら微笑んだ。

「……ずっと辛かったでしょう。心配しなくてもいいわ、もう社交界では噂になっているの。あの子爵令嬢とレイモンドが一緒にいるところを他の方々も見ているわ。あなたが蔑ろにされているのは皆が知っているのよ」

父も頷く。

「だから安心していい。お前の決断は正しいと、むしろ遅いくらいだと、周囲も思っている」

両親の同意を得たその後、我がアルマン伯爵家とカーティス伯爵家の間でレイモンド不在のまま話し合いが行われた。その場には彼の両親と兄が来た。互いの家が冷静に合意し、書面に判を押す。

「……誠に申し訳ない。レイモンドには連絡をしたんだが、忙しいとしか返事が来ず……」

「どうせ、あの子爵令嬢と会うので忙しいんだろう。弟は本当にバカだよ、君のようなご令嬢を悲しませて」

「おじさま、お義兄様、私にも至らないところがありましたし……」

「ロジーヌさんは悪くないわ。ごめんなさい、レイモンドのせいで……。あなたが嫁いでくれるのを楽しみにしていたのに……」

「おばさま……ありがとうございます」

こうして、レイモンドの有責で婚約は破棄された。

彼はいつ気付くのだろう。彼がどんな顔をするか――もう、私にはどうでもよかった。

レイモンドだけが何も知らされぬまま数日が経ち。

「そう言えば、最近ロジーヌが差し入れに来てないな、連絡も無い」

そんな事を思いながら任務を終えて、詰所の廊下を歩いている時、扉の向こうから同僚たちの話が聞こえた。

「おい、聞いたか? レイモンドの件」

「ああ、知ってるよ、婚約破棄だろ。今じゃ騎士団で知らんやつは居ないだろう。社交界でもこの話で持ちきりだぜ」

「バカだよなー、レイモンドの奴。ロジーヌみたいな良い子を大事にしないで、あんな子爵令嬢に夢中になって」

「それが、レイモンドは子爵令嬢に対して恋愛の気持ちは無いらしいぞ」

「なんだそりゃあ」

「妹みたいでほっとけないらしい。前に本人がそう言っていたぞ」

「でも、子爵令嬢の方はお茶会やらで自慢してるって聞いたぞ。伯爵令嬢から婚約者を奪ったってな」

「それは俺も聞いたぞ。あんまり性格がよろしくないご令嬢だな」

バタン! 扉を乱暴に開けてレイモンドが呆然と立ち尽くしていた。

「どう言う事だ……。おい、今のは何の話だ?」

レイモンドが声を荒げて問いただす。

同僚たちは気まずそうに目を逸らし、ひとりが渋々口を開いた。

「……お前、ロジーヌ嬢を捨ててあの子爵令嬢に乗り換えるんだろう」

「……馬鹿な、そんな事実は無い!」

「いや……カーティス家とアルマン家の間で、正式に婚約が破棄されたって、もう社交界じゃ知らん奴は居ないぜ」

信じられずに顔色を変えるレイモンド。その場に居合わせた者たちは互いに視線を交わし、誰も何も言えなかった。

レイモンドは慌てて部屋を飛び出した。

「……本人が何で婚約破棄の件、知らなかったんだ」

「おおかた、子爵令嬢と会うのに忙しくて、家にも帰ってないんじゃないか」

慌ててアルバートの元へ駆け込むレイモンド。

「アルバート! 知っていたのか! 婚約破棄だなんて、俺は聞いてない! 何故教えてくれなかった」

親友は黙ったままはしばみ色の目で冷たく彼を見つめ、やがて吐き捨てるように言った。

「……遅せえよ。この間、お前達の婚約はお前の有責で破棄されたよ。大体な、当事者本人に教えるっておかしいだろう? 俺が黙ってたのは、最後まで“親友”でいたかったからだ」

レイモンドを見据え、アルバートの目が怒りに揺れる。

「……俺はお前より先にロジーヌと出会って気になっていたんだ……。だけどロジーヌは憶えていなかった。それにお前がロジーヌに本気で惚れてるのに気付いたから、俺はそれでいいと思ったんだ。お前なら俺なんかよりロジーヌを幸せにしてくれると思って」

一歩踏み出し、レイモンドの胸ぐらをつかみ上げ

「妹? 責任感? なんだそれ! そんな言い訳でロジーヌを傷つけて……一番大事なのはロジーヌじゃないのか?」

アルバートは拳を強く握り、言葉を叩きつけた。

「もう、遠慮はしねえ。お前達の婚約は無くなったんだ、これから俺はロジーヌに気持ちを伝える。もしロジーヌが俺を選んでくれれば、俺が彼女を幸せにする」

背を向けそのまま部屋を出ていくアルバート。

「……もう俺達は親友でも何でもない」

吐き捨てるように言葉を残し、足音が遠ざかる。

重苦しい沈黙だけが残った。

レイモンドは呆然と立ち尽くす。拳を震わせ、声を出そうとしても喉がひりついて何も言えない。

(……どうして、こんなことに……)

彼の中で渦巻くのは怒りか、後悔か、焦燥か。

けれど、その答えは見つからない。

レイモンドは真っ青な顔でアルマン家へ駆け込んだ。

門前で執事にロジーヌに会わせろと叫ぶが、返ってくるのは冷たい声。

「失礼ながら、既にご縁は切れております。お引き取りください」

「馬鹿な! 俺は婚約者だ、ロジーヌに会わせてくれ!」

騒ぎ立てたその時、扉が開き、厳しい顔をしたロジーヌの父が姿を現した。

「……レイモンド君」

「おじさん! 誤解なんです、俺は――」

しかし伯爵は首を振る。

「君には失望したよ。これ以上、娘の前に立つことは許さない。婚約が破棄された理由は、君自身が胸に手を当てて考えてみるんだな」

短く言い捨て、扉は無情に閉ざされた。

その足で自分の実家へ戻ったレイモンドは、両親に詰め寄った。

「どうして勝手に婚約破棄なんか! 俺は認めない!」

だが父は苛立ちを隠さず叱りつけた。

「いい加減にしろ! ロジーヌ嬢をあんなに傷つけておいて何を言っている。お前がしっかりしていれば、こんな事にはならなかった!」

母もまた厳しい声で言った。

「最近のロジーヌさんを見た? 彼女、物凄く痩せてしまって。元々細かったのに……あんなにやつれてしまって、とても見ていられなかったわ。自分の息子が婚約者をあんな姿になるまで追い詰めてしまうなんて、申し訳なくて……」

母はハンカチで目を押さえて泣き出してしまった。

「何度も家に帰ってくるよう、寮に手紙を出しただろう? それを無視し続けたのはお前だ」

兄が怒りをにじませた声で言う。

「だったら、手紙にそう書いてくれれば俺だってちゃんと……」

「書いただろう? ロジーヌ嬢との事で大事な話があると」

「あれは……だって……ロジーヌが告げ口して婚約者を大事にしろとか小言を言われるんだと思って……」

「告げ口されるような事をした自覚はあるんだな」

レイモンドは言葉を失い、ただ拳を震わせるしかなかった。

意気消沈しながら寮に戻ったレイモンドは、またアメリアからの呼び出しを受けた。お茶会の件を詳しく聞いて、もう呼び出しには応じられないと伝えよう。そう決意して向かった。

「レイモンドさまぁ! 来てくれたんですね。うれしいっ!」

アメリアはいつものように花が綻ぶような笑顔で俺を出迎えてくれた。

「今日は君に話を聞きたいと思って。……お茶会でロジーヌから俺を奪い取ったと言っていると噂があって」

俺はなるべくキツい言い方にならないように聞いてみた。

するとアメリアはいつものように腕にしがみついてきて、目を潤ませながら上目遣いに俺を見上げて言った。

「ごめんなさい。そんなつもりは無かったの……ただ、

皆がロジーヌ様の気持ちを考えたら? とかあなたのどこがいいのかしら? とかひどい事をいっぱい言われてすごく悲しくなって……思わず ”ロジーヌ様から奪ったなんて失礼だわ。私たちはそんな関係じゃない、傷ついた私の事をレイモンド様が心配して会いに来てくれてるだけ、ただちょっとだけロジーヌ様とのお約束より優先してくれた事があるだけよ”って言っただけなの! 悪気はなかったのよ……」

つぶらな瞳からポロリと涙が一粒流れ落ちた。

「レイモンド様、怒ってるの? わたし、嫌われちゃったの?」

その声に一瞬、レイモンドの決意は揺らいだ。

「……君の気持ちはわかった。だが、ロジーヌが酷く傷付いているんだ。もう君とこうして会う事は出来ない」

俯いて涙をこらえるアメリアが、寂しそうに

「じゃあ最後に、……今度のお城の夜会に一緒に行ってほしいの。ね? 最後の想い出にするから、お願い……約束するわ、もうレイモンド様に頼らない、一人で頑張るわ」

子犬のように懇願し、必死に彼の袖を握りしめる震える小さな手。

レイモンドは大きく息を吐き、その手を振り払うことができずにいた。

「……じゃあこれが最後だ。一緒に夜会に出席しよう」

アメリアはぱっと無邪気な笑顔になった後、思い出したかのように急に顔を曇らせて。

「でも……どうしよう。今度の夜会は国王陛下も出席される大きな夜会でしょ? 家はしがない子爵家でドレスもアクセサリーもあまり良いものが無くて……。そんな格好で行ったら、きっとパートナーのレイモンド様まで恥をかかせてしまうわ……。やっぱり夜会に行くのはあきらめるわ……」

悲しげに唇を噛むアメリア。

「そんなことは――」

否定しかけたレイモンドに、彼女は潤んだ目を向けて小さく続ける。

「ごめんなさい。レイモンド様と最後の想い出に夜会に行きたかったけど、そんな貧相な格好で国王陛下の夜会に出れない、それに……もしかしたらまた足が……」

か細い声が袖口を掴んでいる指の震えと重なり、レイモンドの胸に突き刺さる。

「そんなこと、気にしなくていい。足が痛くなったら俺が支えるよ。……それに大事なパートナーに恥をかかせられないからね、最後の想い出に俺からドレスとアクセサリーを贈らせてもらうよ」

レイモンドの言葉を聞いて申し訳なさそうに眉毛を下げるアメリア。

「でも……本当にいいの?」

「ああ、あまり上等な物は無理だけど、それなりの物を準備しよう」

「じゃあ、最後の想い出の品だから一緒に選びに行ってもいい?」

「ああ、そうしよう」

先ほどの曇り顔から一変、満面の笑みでレイモンドに抱きついて喜んでいる。そんなアメリアを見下ろし、頭を撫でながら、可愛いけれどやっぱり妹の様にしか見えないなとレイモンドは思った。

(この夜会を最後にアメリアとは会うのをやめよう。そしてロジーヌに誠心誠意謝ろう、きっとロジーヌなら許してくれるだろう。婚約を結び直して、悲しませたお詫びに結婚を早めて、式も豪華にしよう、きっと喜んでくれるだろう)

次の日、アルバートは手にした花束を抱えて、アルマン家の門をくぐった。久々に見る彼女の姿は、以前よりもずっと痩せ細り、かつての凛とした美しさに陰りを落としていた。

「ロジーヌ……」

声をかけた瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。

ロジーヌは弱々しく、かすかに笑みを浮かべた。

「アルバート……わざわざありがとう」

「ああ、最近会ってなかったしな」

差し出した花束を彼女の手に乗せる。指が触れた一瞬、アルバートはその細さを痛いほど感じた。

(このままじゃ……壊れてしまう)

空気を変えるように、アルバートは明るい声で言った。

「来て早々で悪いが、頼みたいことがあるんだ」

ロジーヌはキョトンと首を傾げる。

(かわいいっ……!)

悶絶しそうになり、思わず口を押さえてごまかした。

「あー、そのだな。同僚から美味いケーキ屋の話を聞いたんだが……、俺一人じゃ入りにくくて、よかったら付き合ってくれないか?」

あれっ? と思って返事をする。

「でも、甘い物苦手じゃなかった?」

「えーと、最近になってから、疲れた時にだけ甘い物を食べるようになったんだ」

アルバートは誤魔化すように鼻の頭を掻いた。

「そうなの? それなら……」

「お嬢様、お手をどうぞ」

言い出しかけた私の前に、おどけたように差し出された大きな手にくすっと笑いが込み上げた。

「じゃあお付き合いしますわ」

そう言って、その手をそっと取った。

カフェの中は、ほんのりと甘い香りが漂っていた。磨かれたショーケースの中には、艶やかな果実をのせたタルトや、ふわふわのスポンジケーキが並んでいる。

「予約していたマクスウェルだが」

「お待ちしておりました。マクスウェル様、二名様ですね、こちらのお席でよろしいでしょうか?」

案内されたのは奥まっているが外が見える窓際の席で、会話も聞かれにくく景色も堪能できる。

「ありがとう。ここでいい」

二人は向かい合って座った。

アルバートは少し気恥ずかしそうにメニューを差し出した。

「ここのケーキ、王都で今一番評判らしい。今日は何個食べてもいいぞ、何にする?」

「そうね……。悩むわね、苺のタルトも美味しそうだし、チーズケーキも良さそう、チョコレートケーキも捨てがたいわね……うーん」

アルバートはくくっと笑いながら

「全部頼めばいい。食べきれなかったら俺が食べるから」

「あら、食べ残しなんて駄目よ」

「ロジーヌのなら気にならない」

「もう、からかって! ……じゃあ、苺のタルトにするわ」

「じゃあ、俺はチーズケーキを。おすすめの紅茶も二つ頼む」

アルバートは注文を済ませ、ふと彼女を見た。以前より痩せてはいるが、変わらず凛とした美しさをまとっている彼女が、穏やかな目で外を眺めている。差し込む午後の光が、淡い水色の髪を柔らかく照らしていた。

(……やっぱり、綺麗だな)

ケーキが運ばれてきて、ロジーヌは上品に苺のタルトを口に運んだ。途端に、頬がふわりとほころんだ。

「……美味しい」

それは本当に久しぶりに見せた、心からの笑顔だった。アルバートはその表情を、眩しそうに見つめ、心に焼き付ける。

「だろ? 同僚の奴が、ここでデートをすると恋が実るとか言ってたけど、本当かな?」

「ふふっ、そんな事を言い出すなんて、アルバートらしくないわね」

ロジーヌが少しだけ笑って、カップを口元に運ぶ。その笑い声を聞いて、アルバートは胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。

ケーキを食べながら話をしていて、会話が途切れ沈黙が落ちた時、アルバートが静かに切り出した。

「……なあ、ロジーヌ。覚えてるか? 俺たちの最初の出会い」

ロジーヌは目を瞬かせる。

「学園で、レイモンドに紹介された時のこと? それとも模擬練習の時?」

アルバートは首を横に振った。

「いや、それより前だ。……お前が学園に入ったばかりの頃、俺が裏庭にいた時、急な雨に降られて通りがかりの東屋に避難した事があったんだ。その時ロジーヌ、お前が東屋で本を読んでいたんだ……初めてロジーヌを見た時、綺麗だなって見惚れちまって」

ロジーヌは驚いたように目を見開き、頬を染めた。

「あの場所は静かだから、いつもあそこで本を読んでいたの」

照れくさそうに紅茶のカップに口を付けた。

「その後、お前は俺に目もくれずに、図書室で借りた本を濡らさないように、上着で本を包んでから雨の中、校舎に帰って行っただろう。その時からずっと気になってた。あの子は自分の物じゃない、人の大事な物も大切に出来る子なんだなって」

アルバートは寂しそうに笑って話続けた。

「その後、仲良くなって気持ちを伝えようと思った時には、もうお前の目はレイモンドを見ていた。……だから俺は一歩引いて、友人でいることを選んだ。恋人ではなくても……それでもそばに居たかったんだ」

ロジーヌは言葉を失い、紅茶の表面を見つめた。やがて、かすかに息を吐く。

「……全然気付かなかったわ」

「伝えるつもりはなかったんだ。でも今は……。ロジーヌ、また笑ってほしい。お前の笑顔が見たいんだ。そしてその笑顔を俺に守らせてくれないか?」

なんて言えばいいのかのか分からず、カップを持つ手が震える。

「ごめん。追い詰めたいわけじゃないんだ、返事は今じゃなくていい。気持ちが落ち着いて、その後、俺のことを考えてくれたら嬉しい」

その言葉に、私は少しだけ安堵した。今はまだ次の恋だなんて考えられない。

「……ありがとう、アルバート。私ね、あなたといると、自分らしく、自然でいられる気がする」

窓の外には、やわらかな陽の光が滲んでいた。穏やかな光が二人の影を淡く映している。まるでこれから歩き出す二人を優しく包み込んでいるようだった。

会計を済ませ、二人は店を出た。アルバートが馬車を呼びに行こうとしたその時。

ロジーヌはふと、通りの向こうに見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「……あれは……」

視線の先に、レイモンドとアメリアの姿があった。レイモンドはいくつかの袋を手に持ち、アメリアと腕を組んで、まるで恋人同士のように寄り添って、楽しそうに笑いながら歩いている。

喉がきゅっと締めつけられた。

――もう終わらせたはずなのに。

胸の奥が小さく痛み、日差しは暖かいはずなのに、体の奥が急に冷えていく。

その時、アルバートが私の視界を遮り、あの二人から庇うように隠してくれた。

「行こう、ロジーヌ。……もう傷付くな、俺がそばにいるから」

その声は陽の光よりも穏やかで暖かく、私の心を優しく包んでくれた。

――馬車は静かにアルマン邸の前で止まる。門の前に降り立ち、振り返って。

「今日は……ありがとう、アルバート。久しぶりに、楽しかったわ」

「俺もだ。お前の笑顔が見られてよかった」

二人の視線が絡む。どちらも何かを言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。屋敷の扉の前には、薄く夕陽の残る光が差し込んでいる。

「……なあ、ロジーヌ」

アルバートが小さく息を吸って、真剣な眼差しを向ける。

「今度の王宮での夜会。両親の代わりに出席するんだが

……もし良ければパートナーとして出席してくれないか」

私は少し驚いたように瞬きをした。

「パートナー……」

「ああ。夜会の様な場所が苦手なのは知ってるから無理にとは言わない、けど……閉じこもってばかりじゃ、もったいないだろ?」

しばらく考え、それから静かに頷いた。

「……少しだけ考えさせてくれる?」

「わかった。焦らせるつもりはない」

アルバートは穏やかに微笑み小さく息を吐くと、私の手をそっと取った。迷うように視線を落とし、触れるだけの口づけを落とす。

それは私をいたわるような甘く優しい温もりだった。

「それじゃあ、また来るよ」

彼の乗った馬車が夕陽の残光の中、遠ざかる。その姿を見送りながら、私は小さく呟いた。

「……ありがとう、アルバート」

風がそっと髪を揺らし、まだ明るい空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

それから、アルバートは毎日のように何かと理由をつけては屋敷を訪れた。花束を抱え、時には美味しいと評判のお菓子を手にしては、慣れない手つきで紅茶を淹れてくれて、二人で取り留めのない話しをした。

彼の何気ない明るさと、その奥に潜む優しさに、いつの間にか私の心は少しずつ軽くなっていった。

気づけば、私は笑えるようになっていた。もう泣き腫らして痩せこけた姿では無く。ちゃんと前を向いていた。

――今なら答えられる気がする。

「返事が遅くなってごめんなさい。夜会のパートナーの件、まだ私と行ってくれるつもりならお願いしたいのだけど」

屋敷の応接間で、大分手慣れてきた様子で楽しそうに紅茶を注いでいたアルバートが、私の言葉に手を止めた。

ポットを傾けたまま、呆けたようにこちらを見る。

「……いま、なんて言った?」

紅茶がカップからあふれ、白いテーブルクロスに染みを作っていく。

けれどアルバートはまるで気づかない、私が慌てて声をかけた。

「アルバート、紅茶が……!」

「え? あっ、うわっ!」

ようやく気づいた彼は慌ててポットを戻し、ハンカチを取り出して拭き始める。

その顔が真っ赤になっていて、思わず笑ってしまった。

「……悪い。驚いて完全にやらかしたな」

「ふふっ、あなたらしくないわ」

「過大評価するな、俺なんかこんなもんだ」

「そうかしら。……でも、あなたがいてくれてよかった」

アルバートは一瞬言葉を失い、それから咳払いをひとつして話題を変えた。

「――そうだ。夜会にはドレスとアクセサリーを贈らせてくれ。俺のわがままに付き合ってくれるんだ、せめてそのくらいはさせてほしい」

「そんな……悪いわ」

「遠慮するな。似合う色はだいたい想像がつく」

からかうように笑うその声に、胸が少しくすぐったくなる。

「……ありがとう、アルバート」

そう言うと、彼は満足そうに微笑んだ。

数日後、約束も無いのに急にアルバートがやって来た。

「急に悪かったな、少しいいか?」

「ええ、どうぞ」

メイドが彼を応接間に通してお茶の用意に下がろうとした時、アルバートが断った。

「済まない、お茶を飲んでいる時間がないんだ」

いつもより少し凛々しい顔をしていて、胸元には第二部隊の徽章が光っていた。

「実は、王太子殿下の地方視察に同行することになってな。本来は第一部隊の任務だったんだが、編成の都合で急遽交代になって、第二部隊が行くことになったんだ。今日これから出発する」

「……そう、慌ただしいのね」

「ああ、でも王太子殿下も夜会に出席される予定だからそれまでには帰って来れるはずだ」

「……気をつけてね」

「ああ。戻ったら、すぐ会いに来るよ」

そう言って軽く手を振ると、彼は扉の向こうへと消えていった。閉まった扉を見つめながら、胸の奥に小さな不安がよぎる。

けれど首を振り、その感情を追い払った。

「……大丈夫よね。ただの視察なんだから」

そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えなかった。

後日、アルバートから屋敷に届け物が届いた。約束通り手配してくれていたドレスだった。

ドレスは、淡藤色の生地に繊細なチュールレースを幾重にも重ねた、肩を優しく包むオフショルダーのスレンダーライン。

裾にはぐるりと、赤色の刺繍が細く走っている。彼の髪を思い出させる色だった。

そして、次の日に届いた小箱の中には、彼が選んだというアクセサリーが入っていた。

彼の目の色に近いブラウンダイヤモンドのイヤリングとネックレスだった。

夜会の日が近づき、そろそろ王太子一行が帰って来るという頃。屋敷に、王立騎士団のアルバートの友人だという男が訪ねてきた。

「初めまして、ロジーヌ嬢。私は第三部隊のヘイリーと言います。アルバートとは、騎士団に入ってから仲良くさせてもらってます」

「初めまして。……それで、どのようなご用で我が家に?」

嫌な予感が、音もなく胸の奥に広がる。

ヘイリーは言葉を選ぶように間を置いた。

「我が第三部隊は、主に連絡や伝令を担う通信部隊でして……先ほど入った情報ですが、王太子殿下一行が王都への帰還中に襲撃を受けたとのことです」

「――!」

「殿下はご無事でした。ですが……アルバートが殿下を庇って襲撃者と揉み合い、崖下へ――」

「……そんな……」

視界が一瞬、白く霞んだ。

「現在、現地で捜索を続けておりますが……まだ見つかっていません。アルバートからあなたの話をよく聞かされていて、今度の夜会のことも……。ですので、このことは早くお伝えしたほうが良いと思いまして。また、続報が入り次第ご連絡いたします」

その後のことは、あまり覚えていない。

気づけば、膝の上で両手を強く握りしめていた。指先が白くなるほど力が入り、それでも震えが止まらなかった。

「……うそよ……約束したじゃない……夜会までに帰ってくるって……」

部屋の中は静まり返り、紅茶の香りだけがやけに鮮やかに残っていた。

アルバートの安否がわからないまま、夜会の日が訪れた。

「夜会までに帰ってくる」と言った彼の言葉を胸に、用意されていた淡藤色のドレスに袖を通し、アクセサリーを付ける。

鏡の中の自分がアルバートに包まれているようで少し心強くなれた気がした。

私は両親と一緒に夜会に出席することにした。

……約束通り彼が来てくれるような気がして。

会場は眩しいほどの光と音で包まれていた。国王陛下の開会宣言と乾杯で夜会がスタートした。

笑い声と音楽が響く中、私はグラスを手に、いないはずのアルバートを人混みから探してしまう自分に少し呆れてしまった。

その時、背後から聞き覚えのある笑い声がした。振り返ると、レイモンドと――こちらに気づいたアメリアの姿。

「あれっ、ロジーヌ様、お久しぶりです! 今日はお一人ですか? あっ……ごめんなさい、一緒に来る婚約者が居ないのに私ったら……」

甘い声色とは裏腹に、瞳の奥には明らかな嘲りが宿っていた。

「ええ、久しぶりね、アメリア様はレイモンド様とご一緒なのね」

穏やかに返したつもりだったのに、声が少し冷たく響いた。

「そうなんですぅ! 今日のドレスとアクセサリーもレイモンド様が買ってくれたんですよー。ねっ、レイモンド様」

アメリアはレイモンドにエスコートされているというよりぶら下がっているように見える。そんな二人を見ても、もう胸が痛むことはなかった。むしろ、痛まない自分に少し驚いた。

「失礼だぞ、アメリア」

レイモンドの焦ったような声が聞こえ、意識を戻すと、私の顔を窺っている彼の目が見えた。

「ごめんなさい、レイモンド様。悪気はなかったの。ただ、久しぶりにお会いできて……はしゃいでしまって」

上目遣いで見上げながら、レイモンドの腕にぴたりと寄り添う。

「……ロジーヌ、少し話がしたいんだ」

「話? なんの話?」

「その……ここではちょっと。ほんの少しでいい、二人で話したい」

「――もう、私たちは婚約者じゃないのよ。誤解を招くようなことは、出来ないわ」

「……俺が間違っていた。ただ、アメリアを可哀想に思っただけなんだ。そこに疚しい気持ちは一切なかった! これだけは信じてくれ。俺はずっと、昔も今も、君だけを愛している!」

その言葉に、胸の奥で――何かが静かに切れた。

「……愛している、ですって?」

「なあ、ロジーヌ。やり直さないか? これからは君だけを大事にする。アメリアとは、この夜会を最後にもう会わないつもりだ。ロジーヌだって、まだ俺のことが好きだろう? そんなにすぐ忘れられるはずがない。……ただ、少し拗ねているだけなんだろう? 大丈夫、すぐに式を挙げよう。騎士団も辞めるよ。俺、次男だから婿入りしてアルマン伯爵家を継ぐ。君は俺の隣で、好きなだけ読書をしていればいい」

「ふざけないで! あなたとやり直す気はないわ。……あなたの愛は随分と薄っぺらいのね。愛していると言いながら、他の女性に寄り添って、私を突き放し、傷つけて。離れればまた愛していると追いかけてくる。一体どこまで馬鹿にすれば気が済むの」

自分でも驚くほど、冷静な声だった。

「大体あなたが彼女に贈ったドレスもアクセサリーもあなたの色じゃない。私を愛していると言って他の女性に自分の色をまとわせるの? もう、振り回されるのはゴメンだわ」

「あれはただ、これがいいと言われたから買っただけで……」

「あなたはいつもそう。誰彼かまわず優しくしてその実、本当は優しい自分に酔っているだけなんでしょう」

「違う! 聞いてくれ、俺は――!」

レイモンドが私の両腕を、痛いほどの力で掴んできた。思わずその手を振り払い――頬を打った。

パシン――!

一瞬で、会場の空気が凍りついた。

「……いい加減にして」

「そこまでだ」

静まり返った会場に、落ち着いた声が響いた。人々の視線が一斉に、声のする方へと向かう。そこには王太子殿下の姿があった。

王太子がゆっくりと歩み出て、冷ややかな眼差しでレイモンドを見据えた。

「国王陛下の夜会で、王立騎士団の副隊長ともあろう者が騒ぎを起こすとは……見苦しいぞ、カーティス伯爵令息」

レイモンドは顔をこわばらせ、慌てて頭を下げる。

「も、申し訳ありません……」

王太子は小さく息を吐き、視線をこちらへと向け。

「ロジーヌ嬢、大丈夫でしたか?」

「……はい、ありがとうございます。王太子殿下」

王太子は安堵したように微笑み、声を和らげた。

「アルバートから君の話をよく聞かされていてね。見た目の美しさもさることながら、それ以上に内面が素晴らしいと――どんなに健気で可愛いか、ずっと語っていたよ。おかげで惚気話を延々と聞かされて、耳にタコができそうだった」

くすっと笑う殿下に、私は恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。

「……それは、申し訳ございません……」

殿下は少しいたずらっ子のような表情を浮かべ、わざと周囲に聞こえるような声で。

「正直、私も君に少し興味が出てね。……もっと早く会ってみたかったくらいだ」

その直後――扉の方から、私が聞きたくてたまらなかった声が響いた。

「殿下! いくら殿下でも、それは許しませんよ!」

振り返ると、そこにはアルバートが立っていた。

いつもきっちり整っていた姿は見る影もなく、息を切らし、額には汗が滲んでいる。軍服のあちこちは破れ、ところどころに乾いた血の跡、乱れた髪に、頬には浅い擦り傷。

だけど私が求めてやまなかった、前と変わらない、はしばみ色のその目が、まっすぐに私を見ている。

気づけば、涙が止めどなく溢れていて、たまらず私は駆け出していた。

その胸に飛び込んだ私を、アルバートはしっかり抱きとめた――が、次の瞬間、慌てて引き離そうとする。

「だ、駄目だロジーヌ! 俺、今汚いから……せっかくの綺麗なドレスが汚れちまう!」

「……そんなの、どうでもいいわ!」

涙で視界が滲むまま、私はアルバートの胸を何度も叩いた。

「どれだけ心配したと思ってるの! 夜会までに帰るって言ってたくせに……!」

「わ、悪い、ロジーヌ! 本当に悪かった! でも――こうしてちゃんと間に合っただろ?」

慌ててなだめようとするアルバート。涙が止まらないまま、私は彼の胸に顔を押し付けた。

「よかった……生きて帰ってきてくれて……」

「ロジーヌ……」

その声が少し震えたかと思うと、彼の顔が急に歪む。

「……いっ……てて、ちょ、ちょっと待って。そこ、たぶん折れてる……」

「えっ⁉」

驚き慌てて体を離すと、アルバートは気まずそうに笑いながら脇腹を押さえた。

「はは……崖から落ちた時に、途中の木に引っ掛かって助かったんだけどさ。その時に脇腹をぶつけて……折れてると思う」

「大変じゃない! ここに来てる場合じゃないでしょ!」

「言っただろ、戻ったらすぐ会いに来るって」

「だからって……」

ポケットの中をごそごそと探りながら、

「言いたいことがあってさ……あ、あった!」

赤いビロードの小さな箱を取り出し、私の正面に片膝をついて箱を開ける。

中には、ブラウンダイヤモンドの指輪が綺麗に光を反射させながら収まっていた。

「本当はちゃんとした服を着て、もう少し格好つけたかったんだけど……。騎士なんてやってたら、きっとこれからも心配かけることがあると思う。でも必ずお前のもとに帰ってくる。それ以外では絶対に悲しませたりしない。だから俺と結婚してくれないか。ロジーヌの笑顔を、これから一生隣で守らせてほしい」

「……はい」

涙声で返事をしながら、私は左手を差し出した。

アルバートは私の手を取り、薬指に指輪をそっとはめる。

「……似合ってる」

照れくさそうに笑う彼の頬が少し赤くなっていて、思わず私も笑ってしまう。

「いやあ、まったく。惚気話を散々聞かされたと思ったら、今度は目の前で見せつけられるとはね」

どこからともなく王太子の声がして、会場に笑いが広がった。

私は顔を真っ赤にして俯き、アルバートは耳まで赤くなっていた。

――夜会の音楽が穏やかに流れる中、私たちは新しい約束を交わした。

その後、レイモンドは夜会での失態が原因で、王都から辺境の守備隊へ異動となった。アメリア嬢との噂が広まり、婚約話もまったく来ないらしい。アメリアも辺境行きは嫌だったようで、レイモンドのもとを去っていった。

しかしそのアメリアも、噂のせいで婚約話が途絶え、親が必死に縁談を探した結果――見つかったのは、隣国の中堅商会長の後妻だけだった。嫌がるアメリアを、両親は無理やり嫁がせたという。

アルバートは、王太子を救った功績で第一騎士団の隊長に任命された。名誉なことなのに、本人はというと。

「出世なんて望んでなかったのになぁ……。忙しいの嫌いなんだよなぁ。しかも侯爵位の引き継ぎまであるなんて」

書類の山に囲まれながら、いつものようにぼやいている。そう言いながらも、全部きっちり片付けてしまうのだから、やっぱり凄い人だと思う。

私がアルバートに嫁ぐ事になった為、アルマン家では急遽、養子を迎える事となった。

八歳の男の子リチャード、我が伯爵家の分家筋の三男で、虐待されていたのか、我が家に来た時にはガリガリに痩せていて、ツギハギだらけのサイズの合わない服を着て体中傷だらけだった。たまたま父の従兄弟がその子を見つけ急いで保護しアルマン家に連れて来た。

そんな境遇で育ったのに、明るく素直で、勉学にも優れたとても良い子だ。虐待していた生家に未練はなく、直ぐに「お姉様」と言って懐いてくれた。元気いっぱいに抱きついてくる姿が可愛くて、私はもうメロメロだ。

「リチャードが可愛い……離れたくないわ、お嫁に行くの、やめようかしら」

「えっ! ま、待ってロジーヌ……冗談だよね!?」

焦ったアルバートがリチャードと私を取り合う毎日に、こんなに幸せでいいのかしら? と不安に襲われる時もある。

そんな時は決まってアルバートが後ろからそっと抱き締めてくれる。なぜ私の不安が分かるのか聞いてみたが「ナイショ」と言って教えてくれない。

今度は私が、アルバートがくれる幸せを、何倍にもして返してあげよう。