軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

3章12話 寛解導入療法開始(1~4病日目)

「治療方針を説明……いや、一緒に考えよう、兄上」

ファルマは椅子から落ちたパッレを助け起こす。

パッレの薬師としての立場を尊重して、一方的でおしつけの治療にならないように配慮した。

「あ、ああ……」

「お茶を淹れましょうね」

セドリックが気をきかせて、温かいお茶をパッレとファルマたちに給する。ロッテがすかさずショコラを出した。とっておきのやつだ。パッレはそれを飲んでようやく人心地ついた。

「お前、本当にファルマなのか?」

「そうだよ」

「どこでそんな知識を。エレオノールに習った訳じゃないだろう?」

「落雷を受けた時に、夢を見たんだ」

ファルマは無難な説明にしておいた。

物質創造能力や神力を見られなければ、それで誤魔化せる筈だと考えたからだ。

パッレはショックを隠し切れない。

「それは、天啓ってやつじゃないのか……何の神から天啓を受けたんだ」

「俺にもよくわからないんだ」

パッレは思いつめたように立ち上がる。そしておもむろに外に出てゆこうとした。エレンが彼の背に呼びかける。

「ちょっとどこに行くの!?」

「俺も雷に当たってくる!」

「そんなの死ぬわよパッレ君!」

本当にバカなんだから、とエレンはツッコミが間に合わない。だが、パッレはやりきれないのだ。

「そんな簡単に雷には当たらないよ」

ファルマはパッレの一途さに心を抉られながら、彼が外に出ていこうとするのをとどめた。

「エレオノール、お前は何とも思わないのか? 今まで俺たちが学んできた薬学は……一体何なんだ。ひょっとすると、無意味だったんじゃ」

「無意味じゃないよ。無意味なんかじゃない」

ファルマはパッレの言葉の上からかぶせて否定した。

「今までの薬でも、効いたものもあるだろう?」

「ファルマ君の言う通りよ。でも、効かないことのほうが多いわ……」

エレンはパッレを代弁した。

「ファルマ、お前が夢に見たことを全部書き出せ。それを俺たちに聞かせろ」

「うん、だからそれを今やってる。そのテキストがそうだ」

ファルマは、二人の一級薬師の前で講義を続けることにした。

「じゃ、続けて説明するよ。白血病には慢性と急性がある。急性の期間が長くなって慢性になるわけじゃない。まったく違う病気だ。慢性は、造血幹細胞自体に問題が生じている状態。急性は、造血幹細胞から各血液成分になる途中に異常が生じている状態だ、兄上の場合はどっちだ?」

出題形式にすることによって、記憶にひっかかりをつくり理解を深める。

パッレは一度言ったことはすぐに吸収してしまう優秀な学生だった。「急性だ」、とパッレが答え、「慢性じゃないの?」 と、エレンは逆を述べた。

「急性が正解だ。この白血病細胞を取り除く方法は二つある。それは何だと思う?」

ファルマはテキストの、造血幹細胞から血球やその他の成分が成熟してゆくイラストを示した。

「悪さをしている白血病細胞を殺す」

パッレはすぐ、そちらの方法を思いついたようだ。

「正解だ。そしてもう一つの方法は? エレンも考えてくれ」

「降参、どうすればいいの?」

エレンは諦めが早かった。二人とも答えに詰まったので、ファルマが答えを出した。

「白血病細胞が正常な白血球になれるようにする」

「そんなことができるのか」

パッレが興奮して身を乗り出す。

「異常な白血病細胞が、正常な白血球になれるの? 異常だったんでしょ?」

エレンはそんなのでいいのかしら、とファルマの方針を疑っている。

「白血球になれない状態の細胞が異常なわけで、白血球になれればそれは正常なんだよ」

白血病細胞を全て白血球にしてしまえば、それが結果的に白血病細胞を取り除いてゆく。白血病細胞から白血球への成熟を促す薬剤は、全トランス型レチノイン酸(ATRA)という物質だと説明を加える。

「そうなの!?」

賢くなった気がするわね、とエレンは眼鏡を拭きながら頷く。

「ちょっと待て、正常とはいえ白血球が血液の中に増えすぎるのはまずいんじゃないか?」

パッレは察しがよかった。

「造り出された血球細胞はずっと血液中に溜まるわけじゃない。血球細胞には寿命がある。白血球も数日で死ぬ、脾臓で破壊されてね。でも、それがうまくいかなかったら、レチノイン酸症候群という状態になる」

この急性骨髄球性白血病(APL)の特効薬であるATRAには、副作用がある。

白血病細胞からATRAによって分化(成熟すること)を促され大量に作られた白血球は、パッレの言うように血管を傷害したり、心不全などの原因となることがある。

稀に起こる、命にかかわる副作用だ。

「そうか……」

しかし、薬に副作用はつきものだ。恐れていては、治療することができない。

「というわけだ。まず、白血球への分化誘導(成熟を促すこと)をするATRAを飲む」

ファルマは二人の前に右掌を差し出した。

「それと共に、抗がん剤を注射で投与して白血病細胞を破壊する」

左掌も差し出した。

診眼では、パッレの場合ATRAだけでも治ると判定が出ている。

だが抗がん剤を併用することで再発リスクを極力下げておきたい、ファルマはそう考えた。

「二つの治療薬で、徹底的に白血病細胞を叩く」

そう言いながら、ファルマは両手を合わせぱんと合わせた。

「これがこの白血病の治療方針だ」

詳しい投薬スケジュールは後ほど説明する、とファルマは言い添えた。

大まかな流れから順を追って説明してゆけば、頭のよいパッレは理解するだろう。ファルマはそう思った。

「つまり、どうなの?」

エレンが結論を尋ねる。

「つまり、完治の可能性は十分にある」

ほっとしたエレンが頬を緩ませて嬉しそうだった。パッレも、少なからず希望を持てたようだった。

ロッテとセドリックも、顔を見合わせて笑った。

「じゃ、寛解導入療法に入るよ」

ファルマは薬局内でパッレに薬と水を差し出す。カプセル剤にしたATRAだ。

「これから毎食後に飲んで。とりあえず今、昼食後だから」

「もう飲むのか!? 心の準備が……」

と言いながらも、パッレは差し出された薬を飲み干した。

食道のあたりを不安そうにさすっている。

「よし、これで治療は始まった。帰ろう、兄上、ロッテ。今日は馬車でのんびりとね」

パッレには脳出血が起こりやすくなっているので、そうするのだという。

「ATRAを飲んで数日で出血症状は改善するはずだよ。でもATRAが効いてくるまでは、絶対安静だ」

「ATRAだけで、抗がん剤とやらは飲まなくていいのか?」

パッレが、処方忘れではないかとファルマに問う。

「イダルビシンは注射で投与する、これは自宅でやろう」

安静にして、雑踏に面した場所ではなく清浄な部屋でやるべきだ、とファルマは説明する。帰り道、疲れきった様子で馬車に揺られるパッレに、ファルマが遠慮のない質問を投げかけた。

「兄上って、今彼女いる?」

「何で今その話を?」

「必要な情報だから」

「先週別れたな。25人目だ、いい女だったが、あっちの方がおとなしすぎて不満でな。ああ、ちなみに避妊はしているぞ」

(あっちの方の話は聞いてないよ兄)

いずれにしろ、パッレが充実した私生活を送っていたことには変わりないようだった。それはパッレが死期をさとり彼女のためを思って別れたのかもしれないし、ただ単に別れたかっただけかもしれないが。とにかく、ノバルートに残して帝都にまで追いかけてくる彼女はいないようで安心したファルマだった。

パッレの彼女や避妊と聞いて、同じ馬車に乗っているロッテはぽうっと顔が赤くなって、話を聞いていないふりをした。

「ATRAを飲んでいる間、彼女と付き合わないでくれ。投薬中に彼女を妊娠させると、子供に奇形が生じる可能性がある」

ATRAは催奇性(奇形を生じる可能性)がある薬だった。

投薬中は女性はもちろんのこと、男性も避妊をしなければいけない。

「そうなのか、今いないから気にしなくていいぞ」

「約二年間だ」

二年間の禁欲生活を強いられるが、命にかえることはできない。

とパッレを諭すファルマだったが、パッレはそれを気に掛ける余裕はなかったようだ。

…━━…━━…━━…

「何だと、パッレがそんな奇病に……」

大学から戻ったところを見計らって書斎にやってきたファルマの報告を、ブリュノは耳に入れた。ファルマは白血病がどのようなものか、幹細胞や白血球の型とは何かなどをはじめ、その治療方針もブリュノに詳しく解説した。基礎知識のあるブリュノは、パッレに説明するより短時間でパッレの病状を把握した。

そして話を聞くほど、ブリュノは狼狽していた。

命にかかわる病気なのだな、というブリュノの問いに、ファルマは頷く。

「出血が起これば明日の命も知れない状態です。一刻を争う状況でしたので、既にATRAを服用する治療に入っています」

「そうか……そのような血液の病気があることは知っておったが……まさか元気だったパッレが」

「兄上のことは、私に任せてください」

「ああ。ではお前が治療にあたってくれ、頼む」

父親として、そして一人の薬師として愛する息子の治療にあたりたい気持ちをぐっと抑えて、ファルマに治療をゆだねる。そのほうがパッレの生存確率は上がる。

「何か、私にできることはないか。用意すべきものはないか、私の手は必要ないか。何でもしよう」

「あります。屋敷の使用人の中で、兄上と血液の型が一致している者からの採血をお許しください。不足した血小板や血液凝固因子を補うための輸血に使えます。使わないかもしれませんが、備えのためです」

(人外の俺の血を輸血すると、何が起こるかわからないからな……)

切実な問題だった。最悪、ショック死してしまうこともありえる。血縁者の輸血はパッレの免疫が反応してしまう可能性があるので、リスクを避けるためにブリュノからの献血はパッレに使えない、非血縁者の使用人の血液を使う。

「うむ。彼らからの同意があれば許そう」

「それから、化学療法が効かなかった場合、もしくは再発した場合。造血幹細胞移植を行わなければいけないかもしれません。父上と兄上の白血球の型は、適合率1%と非常に珍しいのですが一致していました。また、ブランシュも一致しています。ですので、もし移植をすることになった場合、まず父上、次にブランシュの順で協力してもらえますか」

父親、母親の白血球の型がパッレのそれと一致している確率は珍しいのだが、近親婚なども珍しくない貴族社会では、父子で一致する確率も高くなっているのだろう、とファルマは考察する。ブランシュはまだ子供なので、採血の負担が大きく、できればドナーとするのは避けたい。

「勿論だ。薬学の発展と患者の治療のためには命など惜しくない、そう以前に言っただろう」

ブリュノは思い切りよく快諾する。ブリュノが理解のある人間でよかった、とファルマは思う。ブリュノからはいつも精神的な支えを得ていた。

「お前の計画している治療で、どのくらいの割合で完治が見込めるのか」

いちかばちか。数%だろうかとブリュノは覚悟を決めていた。

ファルマは包み隠さず、ありのままの知見を伝える。

「まったく予想外の出来事が起こらず、予定通りに進めば、80~90%の確率で完全寛解に入るかと思います。完全寛解というのは完治という意味ではありません。白血病細胞が減って症状が消え、普通の生活ができる状態になる、ということです」

「9割だと? そんなに期待ができるものなのか!」

「はい。ATRAは分子標的治療薬といって、抗がん剤と違って狙い撃ちで白血病細胞に効きます、他の正常な細胞を傷つけない、画期的な薬といえるでしょう。ですが完全寛解に入っても、白血病細胞が一つ残らず完全に消えるわけではありません。再発の可能性もありますし」

「難しいのだな……」

「困難です。それ以前に投薬中に脳や重要な臓器で出血が起これば、私には手がつけられません。病態を制御できるかは断言できませんが……治らない病気ではない、ということです」

ファルマは医者ではないし、臨床の経験も知見もほぼないといっていい。前世の経歴からいって彼は薬剤師としてより薬学者としての側面が強く、治療より創薬の方が得意だった。だから細かい疾患の部分は分からないところもあるし、探り探り立ち向かわなければならない部分もある。

がん治療は油断がならず、決して楽観視はしない。薬はあっても、未経験だ。

気を引き締め、全身全霊で治療に当たる。

「家族全員の協力が不可欠です。根気強く治療にあたり、免疫力を失うであろう兄上が感染症にかからないようにしなければいけません」

「ああ、わかった。家族全員でパッレの完全寛解を目指そう」

ブリュノが言った。

父の部屋を辞去しファルマが自室に戻ろうとしたとき、パッレが自室を出てこそこそと使用人の目を盗み、ド・メディシス家の屋敷内のある場所へ向かう現場を見かけた。

(兄? いったいどこに行くんだ?)

ファルマは気になって、あとをつける。人目を気にしている様子から、やましさが伝わってくる。

彼が入っていったのは、屋敷の一角にある礼拝堂だった。そこには、守護神の像が安置されている。外出禁止と言われて神殿に行けないので、家の礼拝堂で薬神に祈るようだ。

(本当に信仰熱心だな……兄。恐れ入るよ)

礼拝堂へと入ってゆくパッレの後をファルマは追った。

パッレは薬神の神像の前に跪いた。

ファルマは目を閉じて祈る彼の背後をそっと通り過ぎ、薬神の神像の真裏に隠れた。祈りが聞こえてくる。

「守護神様、薬神様。何故……俺をこんな目に遭わせるのですか……薬神様への俺の信心が足りなかったのでしょうか、体に力が入らず、日に日にいうことを聞かなくなってきました、呼吸も困難になるし、弟の薬は本当に効くのでしょうか。話を聞けば聞くほど、俺にはそう思えません……」

ファルマはパッレの思いつめた言葉を聞いて、パッレは家族の前でこそ気丈にふるまっていたが、彼は相当に病気で苦しい思いをしているのだと知った。

がん治療は、患者が生きることを諦めたらうまくいかなくなる。ファルマは、パッレをどうすれば元気づけられるのかを思案した。そして、

(兄を励ませるのは、俺じゃだめか……薬神じゃないと)

ファルマは薬神の神像の裏に隠れたまま、神像に手を触れる。手が触れた途端、神像は青白く輝いて反応する。神殿の彫刻と同じ素材でできた神像は、ファルマの気配に反応するのだった。

パッレは、目の前の薬神の神像がいきなりぼうっと光りはじめたので飛び上がった。

「なっ!?」

そんなパッレを神像の裏から見守っていたファルマは、両手を丸く丸めたその中に6フッ化硫黄を物質創造し、それを20%の酸素と混ぜ、共にゆっくりと吸い込んだ。

そして、ゆったりとした口調でパッレに話しかける。

『パッレ……、聞こえるか』

威厳のある低い声が、無人の礼拝堂の神像から発せられた。

神像が喋りだしたように感じたパッレは、驚いて神像を見上げる。

「こ、これは……薬神様!?」

『汝のことは、いつも見ておるぞ』

パッレは床に頭をこすりつけた。6フッ化硫黄を吸い込んで声を出すと、声が低くなるのだ。ヘリウムガスとは逆である。

「守護神である薬神様のなさることには間違いがないことは存じています、ですが何故、俺にではなく弟に天啓を授けたのですか。この試練は何のために……」

俺だって、弟のように天啓を受けたかったのです、とパッレは言葉を飲み込んだ。

『汝の治療は、汝にはできぬであろう。難病を克服し、生還して、すぐれた薬師となるのだ……』

全てを聞き終わらないうちに、パッレはばっと起き上ろうとして意識を失った。ファルマが神像の裏から出てきてパッレを支えた。

「起立性低血圧か」

ファルマはパッレの身を案じた。

次にパッレの目が覚めたときには朝になっていた。彼はベッドの上で呆然としながら起きあがる。

「夢だったのか……?」

パッレはがっくりと肩を落とした。

「ん?」

しかしそれが夢ではないということは、礼拝堂で膝をついた時にできたであろう両膝の青あざによって確認できた。

「俺の夢にも薬神様が来てくださった……?」

パッレは、じんわりと感動がこみあげてくるのを感じていた。

「はっ、そうか!」

パッレは天啓を思い返して気付いた。謎めいた薬神の天啓、「汝の治療は、汝にはできぬ」という言葉の意味。確かに、注射も採血も、自分の腕にはできない。この病気の患者は自分自身で治療ができないのだ。だからファルマに天啓を授け、パッレのために治療にあたらせようとしている。

「俺を救済するために……それで俺ではなくファルマに天啓を!? そういうことだったのか」

守護神からの庇護と激励をうけたからには、もう少しだけ諦めずに頑張ろう。そう思い直したパッレだった。

「今日の気分はどう?」

ファルマは2病日目の午後、パッレのために抗がん剤と注射を準備してやってきた。

「悪くなっている気はしない。でも、よくなっている気もしない」

「午前の採血の結果を見たよ。少しずつ、白血病細胞は減り始めているよ。ATRAによる白血病細胞の分化誘導は、ちゃんと効き始めている」

ファルマはパッレを励ました。

「大きい兄上―、元気だして? はやく神術の特訓できるようにしよ?」

ブランシュもマスクやエプロンに帽子をかぶって、手指を消毒し、感染症対策を施されファルマに付き添ってパッレの部屋にやってきた。

「お前らをしごけなくて残念だよ」

パッレは強がりを言うが、その声には張りがない。

「今日から、抗がん剤イダルビシンの投与を追加で始める。白血病細胞のうちATRAに耐性を持ったものがでるかもしれないから、それを叩く。分子標的治療薬であるATRAと違って、抗がん剤には細胞毒性がある。だから白血病細胞も殺すし正常な細胞も殺す」

「正常な細胞を殺す……だと?」

「副作用が出るかもしれない、それは覚悟してくれ」

投与した後、数日で現れる副作用は悪心、嘔吐、口内炎、骨髄抑制、脱毛などだとファルマは言う。副作用といっても全部が全部出るとは限らない、個人の体の状態による。まったく平気な人もいれば、苦しむ人もいる、とファルマは伝える。リスクばかりを告げられて、パッレは溜息をつく。

「強い薬なんだな……でも、それだけ効くのか。そんな薬がこの世にあるだなんて」

治療を受けることになるパッレは同意したものの、気が滅入ったらしく俯いた。

「ああ。それから、今から始まる抗がん剤の投与中は安静にして、この屋敷から出ないでくれ」

「ずっと監禁生活か?」

「いや、ずっとじゃないけど、投薬時はね。これから抗がん剤によって造血が抑えられる。つまり、白血球が減るからありとあらゆる病原体に感染しやすくなる。俺が屋敷全体をきれいにしておいたから、屋敷の中は比較的安全だけど」

「屋敷の中をきれいに……? どうやって」

パッレの就寝中に、ファルマは薬神杖で疫滅聖域を展開していた。空気中の細菌、ウイルスを殺す神技だ。ド・メディシス家が巨大な無菌病棟と化したわけである。

「どうやって屋敷全体の病原を殺した?」

「いや、その……」

ファルマは今度説明するといってはぐらかした。

「とにかく、まあ屋敷の中は安全だ。どうしても外に出たいときは、俺と一緒に出かけよう」

(俺の周りの聖域が、空気中の細菌やウイルスを殺してくれるはずだからな)

無自覚に聖域を展開しているファルマは、歩く無菌室のようなものである。

「何でお前と?」

「あ、いや、急変したらいけないから付き添うよ」

「お前には世話になるな……」

パッレはしみじみと言った。

「小さい兄上だけじゃなくて、私にもきっとお世話になるよ?」

ブランシュが横から口を挟んだ。

「ああ、お前にもな」

パッレはブランシュの頭を撫でた。えっへん、とブランシュは胸を張る。

「そう水臭い事いうなよ、俺たち家族じゃないか。お互い様だ。兄上だって、俺が病気になったら頼むよ」

「ああ、任せろ。にしても、薬師として何もできないこの二年間は痛いな……」

「兄上は頭がいいからすぐ挽回できるよ。それに、投薬と休薬を繰り返すから、外出もできないわけじゃない」

「ファルマ。治療で軟禁状態の間、暇だ」

「エレンがお見舞い兼看病に来るって言ってたよ。ゲームでもしたら?」

ファルマは薬局の業務があるので、昼間はエレンがパッレに付き添う日もありそうだ。

「お前の書いた薬学の本を暇つぶしに読ませてくれ」

「分かった、読んでよ。どんどん書くから」

薬学を学ぶことがパッレの励みになるのなら、急いでテキストを執筆しようとファルマは思った。

「でも、この病気になって一つだけいいこともある。これで、どんな実習でも学べなかった難病患者の苦しみが、これから身をもってわかるってわけだ」

そういう考え方もあるのか、とファルマは衝撃を受けた。

パッレはすっかり、持ち前のポジティブさを取り戻していた。

「どんな薬師も、患者になれるわけじゃない」

そう告げたパッレはいい笑顔をしていた。眩しいな、とファルマは思う。

「何事も勉強だ」

「一緒に頑張ろう、兄上」

ファルマは、ブリュノと交代でパッレの部屋で寝るようになった。

急変に対応するためだ。ATRAと抗がん剤併用の寛解導入療法4病日目のことだった。

夜中、ファルマは嫌な予感がしてがばっと目覚めた。

パッレのもとに駆け寄ると、呼吸に異変が起こっている。パッレは苦しそうに呻いていたところだった。

「兄上!」

迷う間もなく、診眼を使う。

パッレの両肺に、光が見えた。

(出たか……!)

ATRA(全トランス型レチノイン酸)の副作用が出たのだ。パッレが懸念した通り、ATRAによって白血病細胞から一斉に分化した大量の白血球が、肺の血管をおかす場合がある。

それが原因となって、肺出血があらわれた。

肺出血は呼吸困難となり、致命的となりうる。

ファルマはパッレの口に手を当てた。

「”酸素合成”」

肺に酸素を送り込んで、呼吸を助ける。それと同時に、副作用に備えて準備をしておいたステロイド剤をパッレに緊急に点滴で大量に投与し、白血球による炎症を抑えるステロイドパルス療法を始める。

たった一人で処置をしている間に、ファルマは恐ろしくなってきた。

(もし、出血がおさまらなければ……死亡?)

大切な家族を失うかもしれない。

パッレの肺にともった光の色は、紫。

生死の境界線上を彷徨っている色だった。だんだんとその光は赤みを帯びてくる。

ブリュノを呼ぶために、枕元に置いておいたハンドベルを鳴らした。人手が必要だ。

「赤くなるな! 生きてくれ……!」

ファルマはパッレに叫ぶ。

彼の手の下で、一つの命がついえる音が聞こえてくるかのようだった。