軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

7章14話 透明人間

聖帝エリザベスより密かに与えられた密命に従い、ギャバン大陸の洞穴の闇に紛れて暗躍を開始した少年がいる。

彼はサン・フルーヴ帝国準騎士にしてル・ノートル侯爵家の次男坊、ノア・ル・ノートル。

彼が聖帝より承った密命とは、命にかえてもクララ・クルーエの保護・護衛をし、帝国に連れて戻ることであった。

クララがメレネーらに攫われた直後、ノアはサン・フルーヴ帝国船団と離れ、クララを追跡していた。

彼は原住民に紛れて、彼らが軟禁された島から彼らの舟に乗り、その場を離れていたのだ。

視力、聴力、五感六感に長けた、警戒心の強い現地住民たち。

彼らの中に潜んでいても、誰もノアを敵と認識できる者はなかった。

メレネーも、メレネーの使役する霊ですらも、その存在を見逃した。

ファルマとメレネーとの戦闘が始まった頃合いに、ノアは混乱に乗じて洞穴の反対側から敵陣地へと潜入、もぬけの殻となった敵地へ易々と侵入した。

(こんな時、俺って便利な体質だよなあ……)

ノアが聖帝の小姓として抜擢されていたのには理由がある。

それは、ノアが有力貴族の次男であり、神力量が平均より多いという理由だけではない。

彼は、随意に気配を消すことのできる特異体質を持っていたからだ。

存在を遮蔽すること、それこそが彼の持つ生まれながらのギフトであったのかもしれない。

ノアは常に誰かに話しかけていなければ存在を察知されず、彼の存在は認識の埒外におかれる。

足音などは聞こえているはずなのだが、声を出さない限り、なぜか誰もその存在を認識できないのだ。

ノアのこの性質を知るのは、サン・フルーヴ宮廷内ではエリザベスただ一人である。

幼少期より、大多数の人間から無視をされる人生だった。

親族にすら「急に現れる」「急に消える」「声だけ聞こえる」と気味悪がられ。

兄弟からは「悪霊なのでは」と疎まれ続けた。

母親にはネグレクトを、父親はノアの姿がなくとも気にも留めなかった。

空腹に耐えかね、誰かに認識してもらいたい一心で常に喋っているか、大きな足音を立てて目標に近づくと、やっと存在に気づいてもらえる。

それが彼の日常だ。

誰も彼の存在に目をとめない、気にもかけない。

そんな状態で幼少期を過ごしたノアは、自分の価値はおろか、生きる意味など、ないものと思っていた。

(なにせ、生まれながらの透明人間だからな)

誰かに構ってもらいたいがために少しお喋りになってしまったのも、その反動である。

半ば侯爵家を放逐されるように宮仕えに出されたが、聖帝だけがノアの能力と利用価値にいちはやく気付いた。

彼の特性は諜報や暗殺などにうってつけで、廷内の不穏分子のいち早い発見などが可能であった。

そして実際、裏切り者に正義の鉄槌を下し、悪を暴き出してきた。

彼は軽薄そうに見えながら、口は堅く、思考はしなやかで、時に攪乱や陽動も行う。

聖帝の与える任務は彼にとって愉悦に満ち、孤独を癒すようだった。

ノアは聖帝の耳目となり、皇子の世話をやき、彼女の多くの秘密を共有し、彼女の弱みすらも握った。

彼女のために尽くすこと、彼女に取り立てられること。

それはノアにとって唯一他者に認められる方法であり、そして他者に自分を認めさせる方法であり、自分を蔑ろにしてきた家族へのあてこすりでもあった。

早々に出世し領地を得て、面白おかしく気ままな人生を送りたい。

そんな人生の目標を掲げてその日暮らしをしているが、それもきっと孤独を深めるだけになるだろう。

(俺には何もない……からっぽだ)

だから、宮廷に出仕している限り、聖帝の命令には絶対的に服従しようと考えていた。

彼女がクララを連れて帰れと言ったら、船員全員を殺し彼女一人を引き摺ってでも戻る。

彼はそんな覚悟のもとにあった。

ノアはこの大陸に来てより、船員らに内緒で備えていたことがある。

それは、予備の神杖や銃火器、神術陣を茂みの中や岩場の陰に仕込むことだった。

というのも、船外活動の時間が多いぶん、大荷物を常に背負って移動するわけにはいかず、武器や食料などを用意している主な拠点は目立ちすぎてしまう。

彼はそれを懸念していたのだ。

さらに、ジャン提督が船上を主な拠点としているのも不安の種だった。

洋上にある船が陸地から襲撃されることはないという思い込みと、神術使いらの腕を過信しているのだろうが、船外活動を行なっている際に船に奇襲をかけられては洋上の利はなく、土地鑑のある敵に優勢をとられて終わりだ。

(まさか全員が武器を奪われるなんて、ざまあねえ……。特に杖のない神術使いは、体術では平民にも劣るんだから)

彼は現地住民に没収されたはずの神杖を携えて、アリの巣のように張り巡らされた洞穴内をまるで現地住民が散歩をするかのように探索する。

ノアの隠形の能力は、敵地潜入の場面でこそ真価を発揮する。

(お、ここか)

ノアは神術使いらの杖を保管している倉庫を探しあてると、扉を神術で破壊して杖を奪還した。

(全員分は持てねえ。誰の杖を持っていくかねえ……)

少し悩んだノアは、クララの杖、そして高価な順に二振り持っていくことにした。

神官が聖別詠唱をかければ、木切れだって杖になる。

神術使いの杖を全部が全部持っていく必要はない。必要最小限でいいのだと彼は自分に言い聞かせる。

すべて予測通りとはいかなかった。

ノアは人的な敵襲に備えていたとはいえ、防げなかったこともある。

それは、住血吸虫の感染だった。

不用意にもピチカカ湖に足を踏み入れてしまったことで、発熱と倦怠感の蓄積が体力をそいでゆく。

それでも消耗した体に鞭をうちひた進む。

彼は怯むことなく、人の声のするほうへと歩みを進めた。

原住民が通路をすれ違ってゆくが、やはりノアに気付くものはいない。

いくつもの分岐点を進み、ノアは洞穴の中の彼らの居住区を発見した。

居住区には、非戦闘員と思しき若い女や子供たちが屯していた。

彼は居住区に漂う独特のにおいに気付く。

何かを燃やしているようだ。

ノアは杖を構えると、炎に風を孕ませてその場の何もかも破壊の限りを尽くそうと思い定めた。

(こいつら全員、帝国の敵となる。生かしてはおけない、奇襲をかけるなら今だ)

ノアの杖の先端に、神術の光が宿る。

だが、ノアの殺気を察知したのだろうか、どこからともなく赤子の泣き声が聞こえてきた。

数秒の空白ののち、ノアはゆっくりと杖をおろす。

(ちっ、気に入らねえ。見なかったことにする)

ノアに気の迷いが生じたとき、彼は洞穴の奥のほうで大きな物音を聞いた。

激しい神術戦闘が繰り広げられている、そんな気配がする。

(誰かが水属性の神術を使った……?)

つまり、神術を使える仲間がいるということだ。

ノアは走り出した。

物質創造と物質消去。

今、一対の能力であったそれが分かたれ、激突しようとしている。

メレネーはファルマに、まっすぐ赤い雷、無の根を向けている。

ファルマは確固たる攻撃の意図を読み取った。

(唯一、物質消去を使って撃ってこれるとすれば!)

ファルマはこれまでの神術戦闘経験や対悪霊戦闘時の手札を全て捨て、メレネーの衝撃波に対して即応的に物質創造で氷壁を作る。

その意図は緩衝、防御、そして相殺を兼ねている。

彼に許された選択肢は、様子見のみ。

「レイタカ・マ・パエカ」

メレネーが肉声でつぶやく。

右手を構え、詠唱は添え物であるかというかのような囁き声とともに、メレネーは慄くほどの衝撃波を繰り出した。

メレネーの気をほんの少し損ねただけで、島内全員の命の保証はないだろう。

ファルマが張り巡らせたはずの氷壁は、衝撃波を受けると幻のように消滅した。

洞窟の天井から、パラパラと乾燥した砂が落ちてくる。ファルマはその流砂に着目して周りを見ると、先ほどまで湿っていた地面が完全に乾いている。

(やはり! 水の消去を使えたか!)

初手で、メレネーの攻撃内容を把握する。

「なっ、何が起こったんですか!?」

クララは状況が把握できずに、首をすくめている。

(もしノーガードだったら、全身の水を奪われて即死だったな)

ファルマの物質創造と“爾今の神薬”の効果が拮抗し、なんとか即死は免れた。

(水の消去か……。一点突破であっても、これほど怖いことはないぞ)

ファルマは即座に危険性を認識する。

(水は生命活動の源だからな)

何しろ、相手はファルマ達を殺す気できているのだ。

水の消去とは、脱水、そして電解質異常を人体に引き起こす。

こと、対人戦闘における威力は計り知れない。

ファルマが自身に固く禁じて、その威力は知りつつも一度たりとも行使しなかった禁忌の能力でもあり、本来は必殺の能力なのだ。

メレネーは右手をかざし、ファルマに狙いを定める。

先程と同じ詠唱だが、同じ技を使ってくるとは限らない。

そのとき、ファルマの視線は一瞬、メレネーの背後をとらえた。

洞窟の奥から、何者かが戦闘中の空気をまったく意に介することもなく、一歩一歩近づいてきていた。

足音がしているのにメレネーは気にする素振りもなく、彼女の後ろに控える原住民も誰も気づいていないようだ。

(あれは……ノアか!?)

杖を携えて近づいてきたのは、行方が分からなくなっていたノアだった。

ファルマは息を詰める。

今、メレネーが気付いて振り向いたら、ノアは即死する。

ノアはファルマとゆるく視線が合うと、口パクでファルマに「氷の壁」と神技名を告げた。

(ノアは風属性だ、俺にそれを使えと言ったのか?)

ノアの思考が読めないままに、ファルマは身じろぎ一つせず、氷壁を展開してメレネーの意識を向けさせる。

先ほどと同じメレネーの詠唱に対し、同じ防御だ。

あえて、メレネーに対し無能を装う。

氷壁の裏で、ファルマは爾今の神薬を凍らせ、霜のようにしてノアへと注ぎかける。

これで、ノアを束の間の不死の守りの中へと引き入れた。

ファルマの対処方法を読み切り、押し勝つ自信があるのか、メレネーの口角が上がった。

直後、鋭い詠唱が洞窟内に響き渡った。

ファルマでもなく、メレネーでもなく、ノアが発動詠唱を発出した。

『聖竜巻!』

たった今、そこに忽然とノアの存在が現れたかのように、

メレネーや彼女が引き連れていた原住民が一斉に背後を振り向く。

彼らの狼狽を置き去りにし、ノアの神技は完成し、すでに発動していた。

聖竜巻の発する虹色の閃光とともに視界を奪われ、ノアの放った爆風によって吹き飛ばされたメレネーらは、ファルマの生成していた氷壁に激突する。

ファルマはノアの暴風を氷壁で防ぎきると、ノアは檻の閂を外しファルマとクララを救出する。

牢獄の格子ごと消して囚人を脱獄させるなど朝飯前だったファルマも、物質消去を失ったからにはノアに感謝せざるをえない。

「助かったよ、ノア」

「この御恩を一生忘れんなよ?」

ノアは彼らが衝撃に倒れ伏した隙に、クララに杖を放り投げ手渡す。

「何が何やらです……! でも、助かりました!」

クララはパニックになりながらも、ノアから向けられた自前の杖を両手でキャッチする。

「この隙に一旦引くってことでいいか?」

「賛成。まずいことになった。形勢を立て直したい」

物質消去の能力の奪還の必要性を痛感しながら、ファルマは水蒸気の幕を引いて彼らの目をくらませ、洞窟外への脱出を図った。

「あの、はあ、メレネーをっ、はあっ、どこかへっ、呼び出すことはっ、ぜいぜい、できないでしょうか!」

クララが慣れないランニングフォームで息を切らしつつ、ファルマとノアに追いすがって走りながら提案する。

「どういうこと?」

「強制的にっ、旅をっ、させてしまえば、私の神術が使えます。つまりっ……メレネーの行動の予知が、できます……ぜい、その前に私の心臓が死ぬかも」

「旅の定義とは? ちょっとやそっとの距離じゃ、移動扱いになるんじゃないのか?」

ノアには疑義があるようだが、ファルマは肯定する。

「詳しく話、きかせてくれる?」

ファルマはクララの案を採用する。

ふと見ると、クララの足がもつれて、走るスピードが落ちてきた。

日ごろの運動不足がたたっているのだろう。

「あれ。息が切れて……日ごろぐうたらしていたつけがーっ!」

「走り込みと神術鍛錬ぐらいしろよお前」

「疲れるんですよ!」

「誰でも疲れるわ!」

クララとノアは漫才のようなやり取りを繰り広げている。

(物質消去は、対象を視認していないと撃てない。つまり、今すぐメレネーの五感の圏外にでる必要がある。走っていたら間に合わない)

ファルマはくるりと振り向いて薬神杖を口に咥えると、二人の右手と左手をしっかりと握る。

洞窟内から脱出すべく加速しながら低空飛翔に入った。

「ぎゃ―――!」

不意を打たれたノアとクララはファルマの手首にしがみつき、その絶叫が洞穴内に残響をのこした。

明け方に目が覚めたロッテは、用を足すために母カトリーヌと兼用で使っている使用人部屋から出る。

(うう、トイレ遠くなっちゃって怖いなあ)

神聖国から戻ったファルマが神聖国のトイレ事情に影響を受けて、トイレと居住空間を別にしたため、そして水洗トイレの工事をさせたことで、ド・メディシス家のトイレは水洗式になっている。

廊下の突き当りのトイレから、あくびをしながら部屋に戻ろうとしたロッテは、一階玄関から不審な物音がしているのに気付いた。

なにやら話し声も聞こえてくる。ふらりと足を向けようとして、ぴたりと止まる。

(何かしら? 不審者かもしれない。誰か起こした方がいいかな? ……ううん、風の音かもしれないし。ちょっぴり様子だけ見てこよう)

彼女は暫くの逡巡の末、掃除道具入れからほうきを掴むと、それを両手で構えながら恐る恐る階下へと歩みをすすめる。

光が漏れてくる客室では、ブランシュが新しくファルマの担当となる予定の上級使用人のシメオンと揉めていた。

今にも旅に出ようかという大きな荷物をかかえたブランシュは、肩を震わせてうつむいていた。

「最初から置いていくつもりだったに違いないの! ひどすぎるのー!」

そんなブランシュを、シメオンは困ったようにとりなす。いつもは冷静なシメオンだが、ブランシュが相手となるとやりにくそうにしている。

そもそも、ド・メディシス家の中でもブリュノ、パッレ、ブランシュはとりわけ気難しいとして、使用人たちから敬遠されている。

ブランシュの使用人として、彼女のわがままに何度付き合わされたともしれないロッテだが、ほかの使用人たちが持て余すブランシュともうまくやってきた。

「兄上たちがどこに行ったか、すぐ調べてほしいの!」

シメオンは理屈が通じないブランシュに振り回されている。

「申し訳ありませんが、執事を含めて、誰もファルマ様の行き先をうかがっておりません。急な予定だったのだと存じますよ。ブランシュ様には明日のご予定もございます。温かい飲み物をいれますから、それを飲んでおやすみなさいませ。ファルマ様、パッレ様がたも、きっと明日にはお戻りになられますよ」

だが、そんなごまかしの通用するブランシュではなかった。

背中に隠していた箒をそっと部屋の隅にたてかけたロッテが、自然にブランシュに近づく。

「ブランシュ様、どうなされたのですか?」

「兄上たちが、私を置いてどこかにいったのー!」

「今夜は、神術演習があるとかで、朝までお戻りになられないのです」

「いえ、一度戻られて。お仕度にも呼ばれなかったので、行先がわからないのですが」

シメオンがまいったというように頭をかく。

「みんなで空を飛んで、西のほうにいったのー」

「ははは。それはさすがに……夢をみておられたんですよ、ブランシュ様」

シメオンはそう言うが、ロッテは真顔になった。

(空を飛んだ? ファルマ様なら飛べるし、本当かも……)

「兄上の杖で皆を引っ張ってたんだよ」

その一言で、ロッテは確信を強める。

「ブランシュ様、ベッドで詳しくお話を聞かせていただけますか?」

ロッテはシメオンにウインクをして、あとは引き受けるというジェスチャーをした。

シメオンはほっとしたような顔をして退出したが、その後ろ姿からはファルマの不在をどうしたものかと悩んでいるような印象を受けた。

ロッテはいつものように手際よくブランシュを寝室へ戻すと、ネグリジェに着替えさせ、温かい飲み物をもってきて寝かしつける。ブランシュはしぶしぶといった様子だ。

「兄上たち、本当に空を飛んでいったの。でも、誰も信じてくれないのー。ロッテも信じない?」

「私は信じますよ、ブランシュ様。お兄様がたは演習からお帰りのあと、ご無事でしたか?」

ロッテはブランシュの美しい金髪をくしけずりながら言葉を交わす。

「大きい兄上とお師匠様は怪我をしていたけれど、小さい兄上は平気そうだったのー」

昨夜は悪霊を想定した大規模演習があったとかで、朝まで戻らないと言っていた。

ファルマは参加しないが、エレンやパッレは戦闘に参加すると言っていたが、深夜の帰宅とは早い帰りだったのだなとロッテは気を回す。

「怪我をしておられたのに、出発されたのですか。となると、急用でしょうか」

ブランシュは大きく頷く。

「そう。急いでたの。大きい兄上と小さい兄上とお師匠様と、それからもう一人知らない女の人と出かけたの」

「知らない女の人?」

「遠くてはっきり見えなかったけど、なんだかすごそうな人だったの」

誰だろう、とロッテは記憶をたぐる。この夜中に、ド・メディシス家を訪問。

しかも、パッレまでもが謙遜する相手、相当な家格の御令嬢とみられる。

「銀髪と金髪が混じったような髪の色で、ルビーのような赤い瞳をしていたのー」

(聖下だわ、間違いない)

彼女に仕える宮廷画家たるロッテはすぐに勘づいた。

そんな目立つ特徴を持った貴族で、尊爵家の御曹司をはべらせる令嬢など、彼女しかいない。

ロッテの反応を見たブランシュが、ロッテの顔をのぞきこむ。

「ロッテ、その人のこと知ってるの?」

「ええと、似た方は存じ上げておりますが、確信がないので……」

ロッテの目が泳ぎ始めた。

サン・フルーヴ帝国皇帝にして、神聖国大神官を兼任するエリザベスが宮殿から抜け出してド・メディシス家にいたなど、言えるわけがない。

「ふーん。私は知らない人だったけど。明日には帰ってくるって言ってた。でも……嫌な予感がするの」

ロッテが記憶している限り、明日の夜、聖帝エリザベスには定例の公務がある。

戻らなければ、帝国が大混乱に陥ってしまうだろう。

「断言されたのでしたら、みなさんご無事に戻ってこられますよ」

ロッテは事の重大さを知って冷や汗が止まらない。

「そっかな……師匠の荷物が異常に多かったんだけど。何泊かするみたいだったの」

「エレオノール様はいつも準備万端でございますからね!」

きっと、明日には戻ってくる。

約束は果たされる。

ロッテはそうブランシュを励まして、ようやく寝かしつけると、起こさないようそっと上掛けを整えてブランシュの部屋を出た。

「シャルロット」

部屋を出るなり、シメオンが青ざめた顔で紙切れをもって近づいてきた。

「ファルマ様のお部屋にこれが……」

シメオンから手渡されたのはどこかの地図で、ファルマが何か説明をしたかのようなメモがいたるところに書き込まれていた。

(ファルマ様は聖下に何かご説明をしたのだわ。すると、目的地は……ギャバン大陸?)

ギャバン大陸までの道のりは、船で一か月ほどかかると聞いた。

空を飛んでいったとしても一日で戻れるわけがないし、それどころか到着するわけもない。

ロッテはそんな予想を巡らせる。ロッテは狼狽するが、どうすることもできない。

シメオンがおそるおそるといった様子で疑問を口にする。

「ファルマ様たちは、ギャバン大陸に船で向かわれたのだろうか」

「船かどうかはわかりませんが、向かわれたのは間違いないと思います」

船ではなく、ブランシュの言う通り空を飛んで向かったのだろう。ロッテはすんなりとそう信じた。

「そんな! どうしてファルマ様は私に行先をおっしゃらないのだ……」

信用されていないのかと、シメオンは悲観してうなだれる。

「ファルマ様にも、きっと何かご事情があったのだと思います。それより、シメオン様。今夜から屋敷の守りを強化したほうがいいと思われます。大規模な神術演習があったと聞いておりますが、浄化しきれなかった悪霊が帝都にいるかもしれません。旦那様や奥様にもご相談したほうがよいでしょう」

ファルマは正統な守護神として、大陸全土をその強大な神力で守っていると言っていた。

その彼が、もしギャバン大陸に向かったとすれば……この大陸の守りはどうなるのだろう。

彼の力は、大陸を越えても届くのだろうか。

押し寄せる不安で嫌な想像をかきたてられたロッテは、ファルマを慮って言葉を選びながらシメオンに屋敷の警備強化を進言した。

「わかった、たしかにそうだな。すぐにご報告しておく」

ロッテの緊張がシメオンにも伝わったようだ。

ロッテは部屋に戻ると、真新しい聖別紙を裁断する。

適度なサイズに切りそろえると、メロディからもらった聖油を小瓶につぎたし、それに絵筆を浸して火焔神術陣の護符を書き始める。

今日はこれから一刻も休まず護符を作り、要所要所に敷設して悪霊の侵入を防ぐつもりだ。

いざ悪霊の発生ともなれば、護符も一瞬で破られてしまうかもしれない。

それでも、ロッテは彼らの無事を祈るように、その手を止めなかった。