離縁されましたが、義理の息子が「いかないで」と泣くので困っています
作者: 百鬼清風
本文
ローゼン侯爵家へ嫁いで三か月、夫であるアルフレッド・ローゼン侯爵とまともに夕食を共にした回数は、片手で足りた。伯爵令嬢セシリア・バルテンだった頃から覚悟はしていたけれど、夫婦というより、屋敷に置かれた客人に近かった。
それでも、居場所がないとは思わなかった。五歳になる継子ノエル・ローゼン侯爵令息が、毎朝、私の部屋の前で小さく背筋を伸ばして待っていたからだ。
「おはようございます、セシリアさま。きょうも、ぼくはいいこにします」
最初にその言葉を聞いた時、五歳の子供の口から出る言葉とは思えず、返事が一瞬遅れた。五歳の子供が朝一番に言う言葉としては、あまりに寂しすぎた。
「ノエル様、おはようございます。いい子でなくても、朝のご挨拶に来てくださるだけで嬉しいですよ」
「でも、いいこじゃないと、めいわくになります」
ノエルは笑っていた。けれど、両手は上着の裾を握りしめ、白い指先が少し震えていた。
◇
ローゼン侯爵家の先代夫人は、ノエルが三歳の時に亡くなった。アルフレッド様は領地経営と王都の務めに追われ、使用人達は礼儀正しく世話をしていたが、幼い子供が甘える相手はいなかった。
だからノエルは泣かなかった。転んでも、熱があっても、欲しい菓子があっても、必ず一度こちらの顔色を見た。
「お水を飲みますか」と聞けば、「いただいてもよろしいですか」と返す。抱き上げようと手を伸ばすと、「おもくありませんか」と心配する。
その度に、私は笑うしかなかった。そうでもしなければ、その場で抱き締めてしまいそうだった。
「ノエル様、今日は庭でお茶にしましょう。焼き菓子も厨房に頼んであります」
「ぼくも、いっしょに食べていいのですか」
「もちろんです。ノエル様のために焼いてもらいましたから」
「ぼくのため……ですか?」
ノエルは、意味が分からないという顔で何度か瞬きをした。。小さな唇が、何かを言いかけて閉じる。
庭の東屋で、焼きたてのアップルパイを皿に置くと、ノエルは両手を膝に置いたまま、なかなか手を伸ばさなかった。私が一つ取って半分に割ると、ようやく安心したように手に取った。
「おいしいです。あまくて、あったかいです」
「厨房長が張り切っていましたよ。ノエル様が喜ぶ顔を見たいそうです」
「ぼくがよろこんだら、みんな、うれしいのですか」
「ええ。少なくとも私は、とても嬉しいです」
ノエルはパイを持ったまま俯いた。涙が皿に落ちたことに気付いたのか、ノエルは慌てて顔を伏せた。
「ごめんなさい。なかないつもりだったのに」
「泣いても構いません。涙は、悪いことをした時だけ出るものではありませんから」
「セシリアさまは、ぼくがないても、きらいになりませんか」
その問いに、返事がすぐには出なかった。嫌いになるはずがなかった。
私は椅子から立ち、ノエルの前に膝をついた。小さな手からパイをそっと受け取り、汚れた指先を布で拭いた。
「なりません。泣いたくらいで嫌いになるなら、最初から一緒にお茶などしません」
「ほんとうに?」
「本当です。明日も、明後日も、一緒にお茶をしましょう」
ノエルは声を立てずに泣いた。けれどその日から、彼は朝の挨拶の後に、少しだけ私の袖を掴むようになった。
◇
夫であるアルフレッド様との距離は、変わらなかった。ローゼン侯爵であり、王都でも名の知れた冷徹な領主である彼は、食卓でも短い言葉しか発しない。
ただ、ノエルの話をすると、銀の食器を持つ手が止まる。表情は乏しいが、聞いていないわけではないらしい。
「本日、ノエル様は庭でアップルパイを召し上がりました。とても喜んでいらっしゃいました」
「そうか。甘い物は、あまり与えすぎるな」
「はい。夕食に響かない量にしております」
「……あの子は、君に迷惑をかけていないか」
迷惑。その言葉で、その言葉には少し驚いた。
「ノエル様は、まだ五歳です。迷惑という言葉を当てるには、早すぎると思います」
「そういう意味で言ったのではない。君は、この家に慣れていない」
「慣れていないのは確かです。ですが、ノエル様と過ごす時間は苦ではありません」
アルフレッド様は、こちらを見た。表情は変わらない。それでも、すぐには続きの言葉が出てこなかった。
「君は、あの子に優しすぎる」
「優しすぎて困ることがあるのなら、具体的にお聞かせください」
「いずれ君が、この家を去ることになった時、あの子が傷つく」
手の中のナイフが、皿に触れて小さく鳴った。夫婦として何も始まっていないうちから、去る日の話をされるとは思わなかった。
「私は、去る前提でこの家に来たつもりはありません」
「責めているのではない。君は若い。子持ちの男に縛られる必要はない」
「そのお気遣いを、どう受け取ればよいのか分かりません」
アルフレッド様は口を閉ざした。やはり、それ以上の言葉はなかった。
◇
その夜、ノエルが私の部屋へ来た。寝間着の裾を引きずり、枕を抱え、廊下の灯りの下で真っ青な顔をしていた。
「セシリアさま、すこしだけ、ここにいてもいいですか」
「もちろんです。怖い夢を見たのですか」
「おとうさまが、セシリアさまはいなくなるって」
思わず言葉を失った。アルフレッド様の言葉を聞いてしまったのだろう。
私は扉を大きく開け、ノエルを中へ招いた。彼は遠慮がちに入ると、椅子ではなく、扉の近くに立ったまま動かなかった。
「ノエル様、こちらへどうぞ。そんな所に立っていては、足が冷えてしまいます」
「ここなら、すぐにもどれます。めいわくなら、すぐにもどります」
「迷惑ではありません。今夜はここで眠りましょう」
「でも、ぼくがいると、セシリアさまがねむれません」
「眠れなくなるほど、ノエル様の寝相は悪いのですか」
ノエルは驚いた顔をした後、少しだけ笑った。初めて見る、子供らしい崩れた笑い方だった。
「たぶん、わるくないです。たぶんですけど」
「では、確かめましょう。もし蹴られたら、明日の朝に苦情を申し上げます」
「くじょう……ぼく、あやまります」
「先に謝らなくてよろしいです。まだ蹴っていませんから」
寝台に入ったノエルは、私の手を握った。小さな手は冷たく、眠るまで何度も指に力が入った。
しばらくして、彼が寝息を立て始めても、私は手を離せなかった。離した瞬間、また不安そうな顔をさせてしまいそうだった。
◇
それから数日後、ローゼン侯爵家に前夫人の叔母であるオレリア・マルト伯爵夫人が訪れた。年配の貴婦人で、前夫人を娘のように可愛がっていたという。
客間に通された彼女は、私を見るなり扇を少し上げた。笑みはあるが、その視線は冷たかった。
「あなたが新しい奥方ね。思ったより若くて、ノエルが懐くのも分かりますわ」
「セシリア・ローゼンでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「礼は結構よ。わたくしは、あの子の様子を見に来ただけですもの」
ノエルは私の隣に座っていた。けれど、オレリア夫人が入ってきてから、ずっと膝の上で指を組んでいる。
「ノエル、こちらへいらっしゃい。あなたの本当のお母様の話をしてあげます」
「はい、オレリアおばさま」
ノエルは立ち上がったが、歩き出す前に私を見た。私は頷いた。
するとオレリア夫人の扇が、ぱちりと鳴った。
「まあ。許可を求める相手が違うのではなくて?」
「申し訳ありません。ノエル様を縛るつもりはございません」
「縛っている者ほど、そうおっしゃるのよ」
誰もすぐには口を開かなかった。ノエルの肩が小さく跳ねた。
そこへ、アルフレッド様が入ってきた。ローゼン侯爵としての黒い上着に身を包み、客間の入口で一礼する。
「オレリア夫人。遠路、ご苦労だった」
「アルフレッド様。ご子息の様子を案じて参りましたの。ですが、どうやら少し遅かったようですわ」
「どういう意味だ」
「ノエルが、後妻の顔色ばかり見ています。これは懐いているのではなく、支配されているのです」
ノエルが息を呑んだ。私は反射的に手を伸ばしかけたが、客人の前でそれをすると、オレリア夫人の言葉を強めるだけだと思い直した。
アルフレッド様は、私ではなくノエルを見た。
「ノエル。お前は、セシリアに何か嫌なことをされたのか」
「ありません。セシリアさまは、ぼくにおかしをくれます」
「菓子で子供を釣るのは、よくある手ですわね」
「ちがいます。おかしだけじゃありません」
ノエルの声が震えた。けれど、彼は顔を上げた。
「こわいゆめを見たら、手をにぎってくれます。ぼくがこぼしても、おこりません。ぼくがないても、きらいになりません」
客間にいる誰も言葉を続けなかった。オレリア夫人の表情が、わずかに歪んだ。
「それは、あなたのお母様ではなくても出来ることです」
「でも、してくれたのはセシリアさまです」
ノエルの声は小さかった。だが、その一言だけは決して引かなかった。
「セシリア。少し、話がある」
アルフレッド様は、長く黙っていた。やがて私の方へ向き直り言った。
◇
廊下へ出ると、扉の向こうでノエルが呼ぶ声がした。振り返りそうになったが、ここで戻れば、また継子を奪い合っているように見える。
アルフレッド様は窓辺に立った。昼の光を受けても、その横顔は硬かった。
「君には迷惑をかけた」
「何をおっしゃりたいのですか」
「この家は、君に合わない。ノエルは君に懐きすぎた」
「懐きすぎた子供を、引き離すおつもりですか」
「このままでは、君もノエルも傷つく。オレリア夫人の言葉は不快だが、外からはそう見える」
私は、彼の背中を見つめた。怒る気にもなれなかった。
「では、どうなさるおつもりですか」
「君が望むなら、離縁しても構わない。実家には十分な支援をする」
思わず笑いそうになった。私は金の話をしているのではない。あの小さな子供が、今日やっと自分の言葉で立ったばかりなのに。
「アルフレッド様は、いつもそうです。大切なものを守る話になると、先に手放す話をなさいます」
「失う苦しみを増やしたくないだけだ」
「もう増えています。今この瞬間にも、扉の向こうで増えています」
アルフレッド様の表情が揺れた。彼も分かっているのだろう。だが、分かっていても言葉が届かない人なのだ。
扉が少し開いた。ノエルが、青い顔で立っていた。
「ぼく、また、すてられるのですか」
その声を聞いた瞬間、私はもう何も考えられなかった。客人の目も、侯爵家の体面も、全部どうでもよかった。
「ノエル様」
「ぼく、いいこにします。おかしもいりません。よるもひとりでねむります」
「違います。ノエル様が悪いわけではありません」
「じゃあ、どうして、セシリアさまはいなくなるのですか」
答えられなかった。ここで残ると言えば、アルフレッド様の意思を踏みつけることになる。出て行くと言えば、ノエルを傷つける。
アルフレッド様は、苦しげに目を伏せた。そんな顔をするくらいなら、最初から離縁など口にしなければいいのに。
◇
翌朝、私は荷をまとめた。離縁の話は正式には進んでいないが、このまま屋敷にいれば、ノエルは毎日怯える。
ならば一度、私が距離を置くしかない。そう考えた時点で、自分が逃げていることも分かっていた。
侍女のミラが、旅行鞄の留め具を閉じながら唇を噛んだ。彼女はローゼン家に長く仕える侍女で、ノエルを幼い頃から知っている。
「奥様、本当に出て行かれるのですか」
「少し実家に戻るだけです。ノエル様には、落ち着いてから手紙を書きます」
「坊ちゃまは、手紙では眠れません」
「……分かっています」
分かっていた。だから苦しかった。
◇
玄関前には馬車が用意されていた。アルフレッド様は来なかった。来ない方がいいと思ったのに、胸のどこかで探してしまう自分が嫌だった。
私は外套を羽織り、屋敷を振り返った。三か月しか暮らしていない家なのに、窓も廊下も階段も、もうノエルの姿と結びついている。
馬車に乗り込もうとした時、中から小さな音がした。荷の間に置かれた毛布が、もぞりと動く。
「……ノエル様?」
毛布の下から、ノエルが顔を出した。涙で目を赤くし、両腕で私の夜用のショールを抱えている。
「ぼくもいきます。セシリアさまのにもつになります」
「荷物になってはいけません。そんな所に隠れて、怪我をしたらどうするのですか」
「じゃあ、こどもになります。セシリアさまのこどもになります」
言葉が出なかった。ノエルは馬車の床に座ったまま、必死に私を見上げた。
「ぼく、ローゼンのこじゃなくてもいいです。おとうさまにいらないなら、セシリアさまのこになります」
「ノエル様、それは違います。お父様が、あなたをいらないはずがありません」
「でも、セシリアさまをいなくするなら、ぼくもいらないのとおなじです」
馬車の外で、誰かが息を呑んだ。振り返ると、アルフレッド様が玄関に立っていた。
いつからいたのか分からない。だが、その顔は、初めて見るほど崩れていた。
「ノエル」
「こないでください。ぼく、セシリアさまといきます」
「お前を捨てるつもりなど、一度もない」
「じゃあ、どうしてセシリアさまをすてるのですか」
アルフレッド様は、言葉を失った。
私は馬車に乗り込み、ノエルを抱きしめた。彼の体は震えていた。ショールを握る指も冷たい。
「ノエル様、聞いてください。私はあなたを荷物にしません」
「じゃあ、こどもにしてください」
「もう、私にとっては大切な子です。だからこそ、荷馬車に隠れて行くような真似はさせません」
「でも、ここにいたら、セシリアさまがいなくなります」
ノエルが私の胸に顔を押しつけた。その瞬間、外から低い声が聞こえた。
「行かせない」
アルフレッド様だった。彼は馬車の扉に手をかけ、こちらをまっすぐ見た。
「セシリア、行かないでくれ」
たったそれだけの言葉だった。今まで聞いたことのない声で。
「アルフレッド様。私は、あなたに必要とされない場所へ居続けるほど強くありません」
「必要だ。ノエルに必要で、私にも必要だ」
「それなら、なぜ離縁などおっしゃったのですか」
「君を守るつもりだった。だが、守るという言葉を使いながら、私は逃げていた」
アルフレッド様は、馬車の前で膝をついた。侯爵が使用人達の前で膝をつくなど、本来ならありえない。
それでも彼は、ノエルの目線まで身を低くした。
「ノエル。お前をどう抱きしめればよいのか、ずっと分からなかった」
「ぼく、こわれません」
「そうだな。私は、お前が泣くことを怖がっていた。泣かせたら、もう取り返せないと思っていた」
「ぼく、ないても、セシリアさまがきらいになりません」
「私も、泣いたお前を嫌いになどならない」
ノエルは、すぐには動かなかった。小さな肩が何度も震え、やがて、私の袖を掴んだまま父親へ手を伸ばした。
アルフレッド様は、その手を両手で包んだ。大人の手に包まれると、ノエルの指は驚くほど小さく見えた。
「おとうさま、セシリアさまをいなくしませんか」
「しない。私が間違っていた」
「おかあさまって、よんでもいいですか」
その言葉は、私に向けられていた。息が止まるかと思った。
胸の中で、何かが溢れそうになる。けれど泣いたら、ノエルがまた心配してしまう。
「ノエル様が、そう呼びたい時だけで構いません」
「いま、よびたいです」
「はい」
「おかあさま」
返事をしようとしても声が出なかった。私はノエルを抱きしめたまま、何度も頷いた。
アルフレッド様が、私に向き直る。
「セシリア。君が許してくれるなら、もう一度、夫としてやり直したい」
「夫としての最初の務めは、離縁の話を二度と子供に聞かせないことです」
「誓う」
「次に、ノエル様と毎週一度は一緒に夕食を取ってください。菓子の量より、その方がずっと大事です」
「毎週では足りない。できる限り、毎日戻る」
「できる限り、という言葉は便利すぎます」
アルフレッド様は、少しだけ目を見開いた。ノエルが私の腕の中で、小さく笑った。
「では、三日に一度は必ず戻る。戻れない時は、ノエルに手紙を書く」
「私にも、ではありませんか」
言ってから、自分で驚いた。そんな言葉を口にするつもりはなかった。
アルフレッド様の耳が、わずかに赤くなった。
「君にも書く。毎回、必ず」
ノエルが、私とアルフレッド様の手をそれぞれ掴んだ。ノエルは私達の手を離そうとしなかった。
◇
オレリア夫人は、その日のうちに屋敷を去った。去り際に不満を言いかけたが、アルフレッド様が「我が家のことは我が家で決める」と告げると、扇を鳴らして馬車に乗った。
その夜、ローゼン侯爵家の食卓には三人分の席が用意された。これまでは端と端に離れていた私とアルフレッド様の席も、ノエルを挟む形で近づけられた。
「おとうさま、きょうはセシリアさまと、いっしょにねむってもいいですか」
「毎晩では困る。だが、今日は仕方ない」
「おとうさまも、きますか」
アルフレッド様が、肉を切る手を止めた。私は思わず水を飲みそうになった。
「ノエル。それは、少し早い話だ」
「どうしてですか。みんなでねたら、だれもいなくなりません」
「……そういう問題ではない」
「おとうさま、かおがあかいです」
ノエルは不思議そうに首を傾げた。アルフレッド様は咳払いをし、私は笑いをこらえるためにナプキンを口元へ当てた。
◇
食後、ノエルは当然のように私の部屋へ枕を持ってきた。アルフレッド様も扉の前まで来たが、中には入らず、ぎこちなく立っている。
「ノエル。寝る前に一つだけ、父と約束してくれ」
「はい。いいこにします」
「いい子でなくていい。ただ、怖い時は怖いと言いなさい。寂しい時は寂しいと言いなさい」
ノエルは、何度も瞬きをした。すぐには返事をしなかった。
「おとうさまに、いってもいいのですか」
「言ってくれ。すぐ上手にはできないが、聞くことから始める」
「じゃあ、いま、だっこしてください」
アルフレッド様は、動きを止めた。だが次の瞬間、恐る恐るノエルを抱き上げた。
ノエルは父親の首に腕を回した。アルフレッド様の表情が、困ったように歪む。
「おとうさま、へたです」
「……すまない」
「でも、あったかいです」
その言葉で、アルフレッド様は言葉を失った。ノエルを抱く腕に、少しだけ力がこもる。
私は寝台の端に腰を下ろし、その光景を見ていた。三か月前、この家に来た時、こんな夜が来るとは思わなかった。
「セシリア」
「はい」
「君が来てくれて、よかった」
短い言葉だった。けれど今度は、逃げるための言葉ではなかった。
「私も、ここへ来てよかったと思っています」
「それなら、明日の朝もいてくれるか」
「明日の朝だけですか」
「明後日も、その次も。できれば、ずっと」
ノエルが、父親の腕の中で顔を上げた。
「ずっとがいいです。おかあさま、ずっといてください」
私は二人を見た。まだ夫婦として始まったばかりで、家族としても不器用なままだ。
けれど、ノエルが笑っている。その顔を見ているだけで十分だった。
「はい。ずっと一緒にいます」
その夜、ノエルは私の隣で眠った。アルフレッド様は扉の外でしばらく迷っていたが、最後には「おやすみ」とだけ言って、自分の部屋へ戻った。
◇
けれど翌朝、朝食の席に彼はいた。ぎこちない手つきでノエルの皿にパンを置き、私のカップに茶を注いだ。
「おとうさま、パンが大きいです」
「切ろう」
「セシリアさま、じゃなくて、おかあさまのも、きってあげてください」
「ノエル様、私は自分で切れます」
「おとうさまが、やりたいかもしれません」
アルフレッド様がこちらを見た。私は少し迷ってから、皿を差し出した。
「では、お願いしてもよろしいですか」
「ああ。喜んで」
切られたパンは、少し不揃いだった。けれどノエルは、それを宝物でも見るように眺めた。
「きょうのごはんは、みんなでつくったみたいです」
「ノエル様は食べる係ですね」
「はい。たくさんたべます。おおきくなったら、おかあさまをだっこします」
「それは楽しみです」
「おとうさまも、だっこします」
「私は遠慮したい」
「だめです。かぞくは、じゅんばんです」
アルフレッド様が、今度は本当に笑った。ぎこちなくて、短い笑みだったが、ノエルは目を丸くした後、ぱっと顔を輝かせた。
「おとうさま、いま、わらいました」
「珍しいものを見たな」
「また見たいです」
「努力する」
その朝、私は初めて、ローゼン侯爵家の食卓を温かいと思った。
離縁のためにまとめた荷は、まだ部屋の隅に置かれている。けれど、それをほどく時間はたっぷりある。
ノエルが私の袖を引いた。
「おかあさま、きょうもお茶をしますか」
「ええ。アップルパイを頼みましょう」
「おとうさまも、きますか」
アルフレッド様は、少しだけ考えた。それから、真面目な顔で頷いた。
「行く。菓子の量を確認しなければならない」
「おとうさま、それは、いっしょにたべたいって言うのです」
「……一緒に食べたい」
ノエルが笑った。私も笑った。
この家には、まだ足りないものが多い。けれど、朝の光の中で三人分の茶器が並ぶところを想像した時、もう出て行こうとは思わなかった。
完。