軽量なろうリーダー

婚約破棄を告げられた瞬間ガッツポーズしたら、王子が泣いた

作者: 四宮 あおい

本文

王立アウレスティア学院の大講堂は、卒業式にふさわしい華やかさに満ちていた。

天井から吊るされた無数の魔光灯が柔らかな金色の光を放ち、磨き上げられた大理石の床には、正装の貴族子女たちの靴音が小気味よく響いている。壇上には王家の紋章が刺繍された深紅の垂れ幕。その前に立つ一人の青年――第一王子フレデリク・フォン・アウレスティアは、満場の注目を浴びながら口を開いた。

金糸のような髪に、空を映したような青い瞳。絵画から抜け出たような端正な顔立ちに、白の礼服が眩しいほど似合っている。完璧な王子。社交界の華。

――ただし、今からやろうとしていることを除けば、だが。

「本日は卒業の佳き日ではあるが、皆に伝えなければならないことがある」

フレデリクの声が、静まり返った講堂に響く。

壇上の隅に立たされた少女――ノエラ・グランヴィル公爵令嬢は、その言葉を聞きながら、心の中で秒読みを始めていた。

(来た。来ましたよ。待ってました)

蜂蜜色の長い髪を一つに編み、深緑のドレスを纏ったノエラは、一見すると大人しそうな令嬢だ。伏し目がちな琥珀の瞳は控えめな印象を与え、社交界でも「地味で目立たない公爵令嬢」として通っていた。

だが、今この瞬間、彼女の琥珀色の瞳の奥では、とんでもない感情が渦巻いている。

歓喜だ。

「――ノエラ・グランヴィル」

名前を呼ばれ、ノエラは顔を上げた。

「君との婚約は、本日をもって破棄する」

会場にざわめきが広がる。貴族たちが息を呑み、令嬢たちが口元を覆う。

「僕が選んだのは――聖女ミレーヌ・ブランシュールだ。この国を、民を、真に救う力を持つ彼女こそ、王太子妃にふさわしい」

フレデリクの隣に進み出たのは、銀髪に碧眼の美少女だった。聖女ミレーヌ。半年前に突如として「聖なる加護」に目覚めたとされる男爵令嬢で、その清楚な容姿と涙もろい性格から、瞬く間に社交界の寵児となった人物だ。

ミレーヌは大きな碧の瞳にうっすらと涙を浮かべ、ノエラに向かって小さく頭を下げた。

「ノエラ様……ごめんなさい。私、殿下のお気持ちをお断りしようとしたんです。でも、殿下がどうしてもって……」

(はい、出ました涙。今日で何回目ですかね、あの嘘泣き)

ノエラの【絶対鑑定眼】は、ミレーヌの頭上に浮かぶステータスを鮮明に映し出している。

名前:ミレーヌ・ブランシュール

スキル:【涙の支配者】――流した涙を見た者の感情を操作する魅了系スキル

【聖女の加護】――なし

備考:本人は自身のスキルの正体を自覚している

聖女でもなんでもない、ただの詐欺師だ。

ノエラはそれを、出会った初日から知っていた。知っていて、五年間黙っていた。

理由は単純。言っても信じてもらえないからだ。【絶対鑑定眼】は王国で唯一ノエラだけが持つ固有スキルであり、その鑑定結果を他者と共有する手段がない。「私の目にはこう見えます」と言ったところで、魅了された人間にとっては戯言にしか聞こえない。

だから、ノエラは別の方法を選んだ。

――婚約破棄されるのを、待った。

婚約者の立場では、王子の周辺を調べる鑑定士に圧力がかかる。しかし自由の身になれば話は別だ。王家とは無関係の第三者として、然るべき機関に然るべき情報を流せる。

五年。長かった。ミレーヌの嘘泣きに振り回される王子を横目に、ただひたすら「婚約破棄してくれないかな」と願い続けた五年間。

そして今日――ついにその日が来た。

「――というわけで、ノエラ。僕は君に深く詫びるとともに――」

フレデリクが、如何にも心苦しそうな顔で台詞を続けようとした、その瞬間。

「やったぁぁぁぁぁっ!!!」

ノエラは両腕を天に突き上げた。

渾身のガッツポーズだった。

拳を握り、背筋を伸ばし、つま先立ちになるほどの全身全霊。五年分の鬱憤を込めた、魂の雄叫びだった。

「自由だ! 自由! やっと自由になれるぅぅぅぅ!!」

大講堂が、静寂に包まれた。

数百人の貴族が、口を開けたまま固まっている。令嬢たちの扇が止まり、教師たちのペンが落ちる。

そして壇上のフレデリクは――

目を見開き、唇を震わせ、

ぽろり、と涙を落とした。

「……え」

ノエラのガッツポーズが止まる。

王子が、泣いている。

第一王子フレデリク・フォン・アウレスティアが、公衆の面前で、婚約破棄した相手に喜ばれて泣いている。

「な、なんで……なんで君は、泣かないんだ……?」

フレデリクの声が震える。彼の筋書きでは、ノエラは悲しみに打ちひしがれ、自分は心を鬼にして聖女を選ぶ――という「悲劇の王子」の絵面になるはずだった。

なのに、捨てた相手がガッツポーズとは。

プライドの高い王子にとって、これ以上の屈辱はなかった。

ノエラは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに取り繕うのをやめた。どうせ今日で終わる関係だ。

「あー……殿下。一つだけ、置き土産を」

「な、なんだ……」

「聖女様のスキル欄、一度ちゃんとした鑑定士に調べてもらったほうがいいですよ」

ノエラはミレーヌをちらりと見た。銀髪の聖女は、さっきまで浮かべていた涙を引っ込め、わずかに顔色を変えている。

「【涙の支配者】――聖女のスキルじゃなくて、魅了系のスキルですから」

会場がどよめく。

ミレーヌの表情が、一瞬だけ凍りついた。しかしすぐに涙を浮かべ直し、震える声で反論する。

「そ、そんな……ひどい。私、ただ皆さんのお役に立ちたくて……」

涙が流れる。その涙を見た周囲の人間の目が、再び同情の色に染まっていく――魅了が、効いている。

ノエラの目には、ミレーヌから発せられる魅了の波動が、毒々しい紫色の光として見えていた。

(やっぱり、私の言葉だけじゃ足りないか)

だが、構わない。種は蒔いた。

ノエラは深く一礼し、きびすを返した。

「五年間、お世話になりました。どうぞお幸せに」

その背中に、フレデリクの叫び声が届いた。

「ま、待て! ノエラ! 話はまだ――」

「いいえ、終わりました」

振り向かなかった。

大講堂の扉を押し開け、春の陽光の中に踏み出す。

風が、気持ちよかった。

(さて――第二の人生、始めますか)

ノエラ・グランヴィル、十八歳。

婚約破棄されて、人生最高の気分だった。

~~~

婚約破棄から三日後の朝。

グランヴィル公爵邸の朝食室で、ノエラは優雅に紅茶を啜っていた。テーブルの上には焼きたてのスコーンとジャム。窓からは薔薇園の甘い香り。これだ。これが自由の味だ。

五年間、宮廷付きの婚約者として過ごした日々は灰色だった。王子の傍に立てば、嘘で塗り固められた人間関係が全部見える。誰が腹の中で何を考え、誰のスキルが偽りで、どの笑顔が作り物か。

「人の本性が全部見える目」というのは、つまり「人を信じられなくなる目」でもある。

ノエラは静かな朝を満喫しながら、今後の計画を練っていた。まず、聖女ミレーヌの件を王立鑑定院に匿名で告発する。それから――

そこまで考えたとき、屋敷の正面玄関から、信じられないほどの大声が聞こえた。

「ノエラ・グランヴィル様はいらっしゃいますかーーーっ!!」

スコーンを落としかけた。

執事が青い顔で朝食室に駆け込んでくる。

「お嬢様、その……隣国アルテシア帝国の使節団の方がお見えで……」

「使節団? うちに?」

「正確には、使節団から一人だけ抜け出してきたようでして……止めたのですが、門を飛び越えてしまいまして……」

「門を飛び越えた?」

ノエラが呆れて廊下に出ると、玄関ホールの中央に一人の青年が仁王立ちしていた。

まず目に入ったのは、燃えるような赤毛だ。短く刈り上げた髪が陽光を受けて輝いている。日に焼けた健康的な肌、引き締まった長身。隣国の軍服を着崩した姿は、野生の獣を思わせた。

そして何より――満面の笑みだった。

輝く翡翠の瞳が、ノエラを見つけた瞬間にさらに輝いた。

「あなたがノエラ様ですね! 俺、アルテシア帝国近衛騎士団第三隊隊長、ゼルク・レーヴェンガルドです! 十七歳です!」

「……なぜ自己紹介に年齢を含めたんですか」

「卒業式、見てました! あのガッツポーズ、最ッ高でした!」

ゼルクは興奮を隠そうともせず、両手を握りしめてぶんぶん振っている。尻尾があったら千切れるほど振っているだろう。

ノエラは反射的に【絶対鑑定眼】を発動した。

名前:ゼルク・レーヴェンガルド

年齢:17歳

スキル:【閃光剣】――光速の剣撃を放つ戦闘系スキル

性格:【忠犬気質】

備考:一度惚れたら一生ついていく

現在の感情:極度の興奮・強い好意

ノエラは二度見した。

(性格欄に【忠犬気質】って出る人、初めて見たんですけど)

そして何より驚いたのは、「備考」と「現在の感情」の欄だった。

嘘がない。裏表がない。隠された悪意も計算も何もない。見たまま、そのまんまの人間がそこにいた。

五年間、宮廷で嘘と策略まみれの人間ばかり見てきたノエラにとって、それは――ちょっとした衝撃だった。

「あの、ゼルク殿。ご用件を伺っても?」

「はい! 単刀直入に言います!」

ゼルクは背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐにノエラを見つめた。

「あなたの鑑定眼が欲しいんです。――俺たちの国に来てください!」

ノエラは紅茶を一口飲んだ。

「お断りします」

「えっ」

「初対面でいきなり国ごと移れと言われましても」

「で、ですよね……。じゃあ、まず友達からで!」

「急に方向転換しないでください」

ゼルクは一ミリもへこたれなかった。翡翠の目をきらきら光らせ、ノエラの前に進み出る。

「実は俺、卒業式に来賓として出席してたんです。隣国の使節団の護衛で。そしたら、あなたがあのガッツポーズをして――」

「あれは……忘れてくれませんか」

「無理です! 俺の人生で一番かっこいいものを見ました! 王子に婚約破棄されて、泣くどころか全力で喜ぶ令嬢。しかもその後、聖女の正体を暴露して颯爽と去っていく――あれ、物語の主人公じゃないですか!」

(主人公って……)

ノエラは困惑した。これまでの人生で、面と向かってここまで真っ直ぐに褒められたことがない。

宮廷では「地味」「暗い」「愛想がない」と言われ続けた。フレデリクにさえ、「もっと笑えないのか」と何度も言われた。人の本性が見えてしまうノエラにとって、作り笑いはとても難しいことだったのに。

なのにこの青年は、ノエラの素の反応を「かっこいい」と言う。

「……変わった方ですね」

「よく言われます!」

嬉しそうに笑うゼルクを見て、ノエラは小さくため息をついた。

この男の鑑定結果に、嘘は一つもない。それだけは確かだった。

~~~

ゼルクはそれから毎日、グランヴィル邸を訪ねてきた。

毎朝、正門の前に立ち、執事に「ノエラ様はご在宅ですか!」と元気よく声をかける。最初は門前払いしていたノエラだったが、三日目には「あの方、雨の中でも立っておられまして……」と気の毒そうに報告してくるようになり、仕方なく茶の間に通すことにした。

「お茶、美味しいです! ノエラ様が淹れてくれたんですか?」

「メイドが淹れました」

「そうなんですか! でもノエラ様の家のお茶だから、特別に美味しく感じます!」

「……それ、味覚の問題じゃなくて認知の歪みですよ」

ゼルクは気にせず笑う。会話のたびに尻尾を振るような反応が返ってくるので、ノエラとしてはツッコミが追いつかない。

そして、一週間が経った頃。

「ノエラ様、改めてお願いがあります」

いつもの笑顔とは少し違う、真剣な表情でゼルクが切り出した。

「アルテシア帝国では今、大きな問題を抱えています。宮廷内にスパイが紛れ込んでいる疑いがあるんですが、相手のスキルで正体を偽装されていて、誰が敵かわからない」

ノエラの目が細くなった。

「……私の鑑定眼で、スパイを見つけろと?」

「はい。あなたの目なら、スキルの偽装も見破れるはずです」

それは事実だった。【絶対鑑定眼】はあらゆる偽装を貫通する。隠蔽スキルも、変装魔法も、ノエラの前では無意味だ。

「帝国はあなたを正式な宮廷鑑定官として迎えたいと考えています。報酬も地位も保証します。もちろん、嫌なことは一切させません」

ゼルクの鑑定結果を確認する。感情欄は「真剣・切実・好意」。嘘はない。

「……一つ聞いていいですか」

「何でも!」

「あなたは帝国の命令で来てるんですか? それとも自分の意志で?」

ゼルクは一瞬きょとんとし、それから――今までで一番の笑顔を見せた。

「帝国がどう言おうと、俺はここに来てましたよ。だって、あなたに会いたかったから」

感情欄:真実。

ノエラは紅茶のカップで顔を隠した。

耳が熱い。

「……考えておきます」

「本当ですか!? やった!」

「まだ何も決めてません」

「でも断らなかった! 進歩です!」

この男は本当に、鑑定するまでもなくわかりやすい。

~~~

ノエラがゼルクの訪問に慣れ始めた頃、王都ではある噂が静かに広がっていた。

「聖女ミレーヌのスキルが、本当は魅了系なのではないか」――卒業式でノエラが放った一言が、少しずつ波紋を広げていたのだ。

最初に動いたのは、王立鑑定院の院長だった。

白髪の老鑑定士は、長年の経験からノエラの【絶対鑑定眼】の存在をうっすら察していた数少ない人物だ。彼は独自の判断で、ミレーヌの再鑑定を上奏した。

しかし、フレデリクはこれを即座に却下した。

「聖女を疑うなど、不敬にもほどがある。あの場でノエラが口走った戯言を真に受ける必要はない」

王子の周囲はこぞって同意した。――もっとも、その「同意」のうち何割が、ミレーヌの【涙の支配者】による魅了の産物なのかは、ノエラ以外には知る由もない。

~~~

フレデリクの最初の失態は、その一週間後に訪れた。

隣国アルテシア帝国との外交晩餐会。これまで、席次の調整から話題の選定、出席者への根回しまで、全てノエラが裏方で取り仕切っていた催しだ。

ノエラの不在に気づかなかったわけではない。ただ、「あの程度の仕事は誰にでもできる」と高を括っていたのだ。

結果は惨憺たるものだった。

席次を間違え、帝国の公爵が下座に案内される。乾杯の挨拶で帝国側の将軍の名前を言い間違える。極めつけに、ミレーヌが「場を和ませよう」として涙交じりの祝辞を述べたところ――帝国側の使節たちだけが魅了の効果を受けず、「なぜ晩餐会で泣いているのだ」と困惑する事態に。

帝国の人間には、ミレーヌの魅了が効かなかったのだ。

(まあ、そうでしょうね)

報告を人づてに聞いたノエラは、自宅の庭で薔薇の手入れをしながら呟いた。

(魅了系スキルは、同じ対象に何度も接触して浸透させるもの。初対面の外国人に効くほど万能じゃない)

「ノエラ様、笑ってます?」

隣で薔薇の水やりを手伝っている(と本人は言い張っている)ゼルクが、不思議そうに覗き込んでくる。

「笑ってません」

「嘘だ。口角、上がってますよ」

「気のせいです」

「いいですよ、笑って。ノエラ様が笑うところ、もっと見たいです」

ノエラは咄嗟に鑑定結果を確認する。感情欄:純粋な好意。邪念ゼロ。

(この人、人をドキッとさせる台詞を天然で言うから困る……)

顔を背けてじょうろに集中する。横でゼルクが「あ、照れてる」と嬉しそうにしているのが気配でわかって、さらに耳が赤くなった。

~~~

外交晩餐会の失敗は、フレデリクにとって致命的だった。

帝国側から「王国の外交能力に懸念がある」という書簡が届き、国王自らが謝罪する事態に発展した。フレデリクは父から叱責を受け、「以前の晩餐会との差は何だ」と問い詰められる。

以前との差――それは、ノエラの有無だ。

しかし、フレデリクはそれを認めなかった。認められなかった。

代わりに彼が取った行動は、ノエラへの手紙だった。

『ノエラへ。卒業式での件は、互いに冷静さを欠いていた。一度話し合いの場を設けたい。

――フレデリク』

手紙がグランヴィル邸に届いた日、ノエラは不在だった。気晴らしに街の書店を巡っていたのだ。

代わりに手紙を受け取ったのは、留守番と称して門前に陣取っていたゼルクだった。

ゼルクは封筒の差出人を見て、にこやかに使者に告げた。

「ノエラ様はお忙しいので、お返事は控えさせていただきます!」

使者が「しかし、王子殿下からの……」と食い下がると、ゼルクは笑顔のまま一歩前に出た。身長差もあり、その笑顔が逆に怖い。

「お・忙・し・い・の・で」

使者は逃げるように帰っていった。

帰宅したノエラに「王子から手紙が来ましたけど、お断りしておきました」と報告したゼルクは、ノエラに「勝手に人の郵便物を処理しないでください」と叱られた。

だがその表情が全く怒っていないことを、ゼルクは見逃さなかった。

~~~

ノエラがアルテシア帝国行きを決めたのは、王立鑑定院への告発が握りつぶされたと知った日だった。

院長が独自に提出した聖女ミレーヌの再鑑定申請は、王子の側近によって「不敬罪に該当する」として差し戻された。彼自身も閑職に追いやられる始末だ。

この国では、もうミレーヌの嘘を暴くことはできない――少なくとも、内側からは。

だが、外側からなら話は別だ。

「ゼルク」

「はい!」

「帝国に行きます」

ゼルクの顔が、文字通り太陽のように輝いた。

「本当ですか!? やったぁぁ!」

(あ、私と同じリアクションだ)

思わず笑ってしまった。それを見たゼルクが「あ、今笑った!」とさらに嬉しそうにする。

こうしてノエラは、グランヴィル公爵家の長女として王国を離れ、アルテシア帝国の宮廷鑑定官に就任することになった。

~~~

アルテシア帝国の王宮は、アウレスティア王国のそれとは対照的だった。

華美な装飾は少なく、機能的で実務寄りの造り。廊下ですれ違う文官たちの足取りはきびきびとしていて、無駄話をしている者はほとんどいない。

そして何より――ノエラの目に映るステータスが、王国の宮廷とは明らかに違った。

嘘が、少ないのだ。

王国の宮廷では、すれ違う人間の十人中八人が何かしらの嘘を抱えていた。偽りのスキル表示、隠された敵意、表面だけの忠誠。帝国にもそういう人間は皆無ではないが、その割合が格段に低い。

「帝国は実力主義なので、嘘をついてもすぐバレるんですよ」

隣を歩くゼルクが、誇らしげに説明する。

「皇帝陛下が厳しい方なので、不正をすると即座に首が飛びます。文字通り」

「……物理的に?」

「比喩です、比喩! 解任されるって意味です! ノエラ様、そんな怖い顔しないでください!」

帝国の宮廷鑑定官として与えられた仕事は、ゼルクの言った通りスパイの摘発だった。帝国内に紛れ込んだ他国の工作員を【絶対鑑定眼】で見分けるという、ノエラにしかできない任務。

初日から、ノエラは三人のスパイを看破した。

偽装スキルで身分を偽っていた文官、変装魔法で顔を変えていたメイド、そして――外交官に化けていた暗殺者。

暗殺者を見抜いた時は、さすがにノエラも冷や汗をかいた。報告を受けた近衛騎士団が瞬時に制圧し、事なきを得たが。

「ノエラ様、大丈夫ですか!?」

駆けつけたゼルクが、真っ先にノエラの前に立ち、剣を抜いていた。暗殺者はもう取り押さえられているのに、ノエラを守る姿勢を崩さない。

「もう大丈夫ですよ、ゼルク」

「でも、怖かったでしょう。すみません、傍にいられなくて」

ゼルクの声が震えている。鑑定結果を見なくても、彼の感情は手に取るようにわかった。

怒り。後悔。そして、ノエラへの強い心配。

「……ありがとう」

その言葉に、ゼルクの表情がふっと和らいだ。

「今度から絶対、傍にいます。何があっても」

「任務中は無理でしょう」

「任務を変えてもらいます。ノエラ様の護衛を最優先任務にします」

「自分で任務を決める権限はないでしょうに……」

呆れるノエラだったが、翌日、本当に護衛任務の申請書が受理されたと聞いて絶句した。

帝国宮廷の人事課には、ゼルクの上司から一枚の推薦状が添えられていたという。

『あいつは放っておくとグランヴィル嬢のところに脱走するので、いっそ正式に護衛にしたほうが騎士団の運営上合理的です。――近衛騎士団第一隊隊長より』

ノエラは頭を抱えた。

~~~

ノエラが帝国で順調にスパイを摘発し、周囲の信頼を勝ち取っていく一方で、アウレスティア王国では静かな崩壊が始まっていた。

~~~

第一段階――「ガッツポーズ王子」の烙印。

卒業式の一件は、瞬く間に社交界の語り草になった。「婚約破棄を告げたら相手にガッツポーズされた王子」――これほど面白い噂話もそうそうない。

夜会に出れば、ひそひそ声が背中に刺さる。若い令嬢たちが扇の陰でくすくす笑う。フレデリクが何を言っても、「ああ、あのガッツポーズの」という枕詞がつきまとう。

フレデリクはノエラに復縁を迫る手紙を何通も送ったが、一通も返事はなかった。(半分はゼルクが門前で追い返していた。もう半分は、ノエラが読まずに暖炉にくべていた。)

やがて彼は、「あの場でのノエラの反応は、聖女への嫉妬から来た狂言だった」と周囲に説明し始める。しかし、それを信じる者は日に日に減っていった。

~~~

第二段階――聖女の化けの皮。

ノエラの告発は握りつぶされたが、「種」は確実に芽を出していた。

きっかけは、帝国に渡ったノエラの活躍が外交ルートで王国に伝わったことだ。「公爵令嬢の鑑定眼は本物だった」――その認識が広まるにつれ、卒業式でのノエラの発言が再び注目されるようになる。

そして、ついに動いたのは国王だった。

王命による聖女ミレーヌの再鑑定。結果――

【聖女の加護】は存在せず、代わりに【涙の支配者】という魅了系スキルが検出された。

王宮は大混乱に陥った。

ミレーヌは「私は何も知りませんでした、自分のスキルの正体を知らなかったんです」と泣いて訴えた。その涙を見た者たちが再び同情し始める――が、今度は事前に鑑定士が配置されていた。

「……今、魅了波動を検出しました。やはり泣くたびに発動しています」

自覚的な魅了の使用。情状酌量の余地はなかった。

フレデリクは「自分は魅了の被害者だ」と主張した。確かにそれは事実だったが――

「フレデリク。お前はあの卒業式の場で、ノエラに忠告されていたな。あの時すぐに調べさせていれば、この醜態は避けられた。——被害者であることと、愚かであることは別の話だ」

父王の冷たい言葉が、フレデリクの弁明を切り捨てた。

被害者であることと、判断を誤ったことは、別の問題だ。

~~~

第三段階――逆恨み。

プライドを粉々にされたフレデリクは、徐々にノエラへの逆恨みを募らせていった。

「あの女がすべての元凶だ。最初から知っていたなら、なぜ教えなかった。俺を――俺をハメたのか!」

ノエラが黙っていた理由――「言っても信じてもらえない」「告発しても握りつぶされる」――を知る者は多かったが、フレデリクの耳には届かない。

彼は帝国に渡ったノエラを「王国の機密鑑定技術の流出」として問題視し、帰国命令を出すよう国王に進言した。

しかし、帝国側はノエラを正式な宮廷鑑定官として雇用しており、これは外交上の人材移動にあたる。一方的な帰国命令は内政干渉になりかねない。

それでもフレデリクは強引に外交圧力をかけようとし――結果、帝国との関係を危うく破壊しかけた。

国王の堪忍袋の緒が切れた。

「フレデリク。お前の王位継承権を、本日付で停止する」

その報せがノエラのもとに届いたのは、帝国の鑑定官室で報告書を書いている最中のことだった。

「ノエラ様、王国の王子が継承権を剥奪されたって!」

ゼルクが飛び込んできた。ノエラは羽ペンを止め、静かに目を伏せた。

「……そう、ですか」

「嬉しくないんですか?」

「嬉しいというよりは……虚しい、かな」

かつての婚約者だ。どれほど合わなかったとはいえ、五年間一緒にいた相手が落ちていく姿は、さすがに心が痛む。

ノエラの表情を見たゼルクは、何も言わず隣に座った。

「俺、気の利いたことは言えないけど、隣にはいますから」

その言葉の鑑定結果は、いつも通り――嘘偽りのない、真実だった。

~~~

最終段階――孤立。

ミレーヌの処遇は、ある意味フレデリクより残酷だった。

王宮から追放されたミレーヌは、去り際に一つの爆弾を落としていった。

「私は殿下に言われてやっていたんです。『お前の力で周囲を味方につけろ』と。私は殿下の指示に従っただけ……」

涙ながらの告白。だが今度は鑑定士が即座に「虚偽」と判定した。

しかし、鑑定結果を知らない市井の人々の間では、ミレーヌの「悲劇の少女」としての物語が独り歩きし始めていた。悪いのは全部王子だ、ミレーヌは利用されただけだ――と。

魅了の被害者であるフレデリクに、魅了の主犯という濡れ衣が上塗りされていく。

かつての側近たちは保身のために距離を取り、社交界からは完全に孤立した。

味方は、もう誰もいない。

かつて自分が捨てた婚約者が、遠い隣国で笑っている。その傍には、嬉しそうに尻尾を振る赤毛の騎士がいる。

その姿を、元王子は二度と届かない場所から見つめることしかできなかった。

~~~

帝国に来て半年が経った。

ノエラの生活は、驚くほど穏やかだった。

宮廷鑑定官としての仕事は多忙だが、やりがいがあった。自分の能力が正当に評価され、必要とされている。王国にいた頃には考えられなかったことだ。

そして、隣にはいつもゼルクがいた。

朝は鑑定官室まで送り届け、昼は一緒に食堂で食事をし、夕方は訓練場から走ってきて「お疲れ様です!」と満面の笑みで迎えにくる。

同僚の鑑定士に「あの騎士、あなたの恋人ですか」と聞かれ、ノエラは「違います。護衛です」と答えたが、その声が上ずっていることは自覚していた。

~~~

ある夜のことだった。

遅くまで報告書を書いていたノエラが鑑定官室を出ると、廊下にゼルクが座っていた。壁に背を預け、腕を組んで、目を閉じている。

「……ゼルク?」

声をかけると、翡翠の目がぱちりと開いた。

「あ、終わりましたか! お疲れ様です!」

「なんでこんなところに。もう夜中ですよ」

「ノエラ様が遅くまで働いてたので、帰り道が暗いと危ないかなって。待ってました」

何時間も、この廊下で。

ノエラはため息をつきたくなった。が、それよりも先に、胸の奥が温かくなった。

「……馬鹿じゃないんですか」

「よく言われます!」

二人で夜の回廊を歩く。月明かりが窓から差し込み、石畳に銀色の模様を描いていた。

「ゼルク」

「はい?」

「私の目を、怖いと思ったことはありますか」

ずっと聞きたかった問いだった。

【絶対鑑定眼】――人の全てを見透かす目。嘘も、悪意も、弱さも、醜さも。

王国では何度も言われた。「その目で見られていると思うと落ち着かない」「本音を覗かれているようで気味が悪い」と。フレデリクでさえ、婚約中の後半はノエラの目を直視しなくなっていた。

ゼルクは少し考えて、首を横に振った。

「怖くないです」

「……なぜ?」

「だって俺、ノエラ様に隠すことなんて何もないですから」

あっけらかんと言う。

「むしろ、もっと見てほしいくらいです。俺がノエラ様のことをどう思ってるか、全部わかるでしょう? 言葉にするの、あんまり得意じゃないから。目で見てもらったほうが早いかなって」

ノエラは、思わず鑑定眼を向けた。

名前:ゼルク・レーヴェンガルド

現在の感情:愛情(深い・揺るぎない)

好感度:【測定不能(上限突破)】

息が、止まった。

「好意」は前から見えていた。でも、いつの間にか――「愛情」に変わっていた。

しかも「深い・揺るぎない」って何だ。こんな鑑定結果、見たことがない。

「ノエラ様、顔赤いですよ。何が見えたんですか?」

「……見せません」

「えー! 教えてくださいよ! 俺のことでしょう?」

「だから見せません」

早足で歩き出すノエラを、ゼルクが笑いながら追いかける。

「あ、逃げた! 待ってください! ねぇ、好感度上がってました? 上がってましたよね!?」

「うるさいですっ!」

廊下に二人の声が響く。月明かりの中、ノエラは必死に顔を隠しながら――自分のステータスに「感情欄」があったなら、きっと同じことが書かれているだろうと思った。

~~~

帝国に来て一年。

ノエラ・グランヴィルは、アルテシア帝国宮廷鑑定官として確固たる地位を築いていた。

彼女の鑑定眼によって摘発されたスパイは二十三人。阻止された暗殺計画は四件。帝国の安全保障に不可欠な存在として、皇帝から直々に勲章を授与されていた。

一方、アウレスティア王国の元第一王子フレデリクは、王位継承権を失い、地方の小さな領地で隠遁生活を送っていた。

聖女ミレーヌは王国から追放された後、行方がわからなくなっている。ある情報では隣の小国で別名を使って暮らしているらしいが、もはやノエラにとっても、フレデリクにとっても、どうでもいいことだった。

~~~

春の陽気が心地よい午後。

帝国宮殿の中庭で、ノエラはベンチに座って報告書を読んでいた。

隣にはゼルクがいる。いつものことだ。

「ノエラ様」

「何ですか」

「今日も俺を鑑定してください」

「毎日しなくても変わりませんよ」

「いいじゃないですか。日課みたいなもんです」

ノエラはため息をつきながら――もう形式的なものになった鑑定眼を向ける。

名前:ゼルク・レーヴェンガルド

現在の感情:愛情(測定限界を超過。もはや鑑定の意味をなさない)

備考:一度惚れたら一生ついていく(現在進行形で実行中)

いつも通りの結果。いつも通りの、嘘のない男。

「……変わってません。いつも通りです」

「そうですか。じゃあ、いつも通りのことを言いますね」

ゼルクがにっと笑う。

「好きです、ノエラ様」

毎日言われている。毎日、鑑定結果で真実だと確認している。それなのに、慣れない。心臓が跳ねる。耳が熱くなる。

「……知ってます」

「知ってるだけじゃなくて、返事がほしいなぁ」

「毎日この流れになるのやめてもらえません?」

「ノエラ様が返事をくれるまで続けますよ。一生でも」

鑑定結果:真実。

この男は本当に一生続ける。それだけは、ノエラの目が保証している。

ノエラは報告書をパタンと閉じた。

顔を上げる。琥珀の瞳が、真っ直ぐにゼルクを捉えた。

「……ゼルク」

「はい」

「私の鑑定結果を見せることはできませんが――」

一呼吸おいて。

「あなたの鑑定結果と、たぶん同じです」

ゼルクが、目を丸くした。

それから――今まで見た中で、一番の笑顔になった。

「っ――やった! やったぁぁぁぁっ!!」

両腕を天に突き上げ、ベンチから飛び上がり、帝国の中庭に響き渡るガッツポーズ。

ノエラは噴き出した。

「あはは……何それ、私の真似?」

「お揃いです! 俺たちお揃いのガッツポーズ!」

「恥ずかしいからやめてください……!」

笑いながら止めようとするノエラの手を、ゼルクが掴んだ。そのまま引き寄せられ、力強く抱きしめられる。

「ありがとう。――ずっと、待ってました」

その声は少しだけ震えていて、鑑定するまでもなく、涙を堪えているのだとわかった。

ノエラはゆっくりとその背中に手を回す。

人の全てが見える目。嘘も、悪意も、醜さも。

だからこそ――嘘のない温もりが、どれほど尊いかを知っている。

「こちらこそ。……ありがとう、ゼルク」