軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話『銀索蜘蛛、発見』

その線を、最初はただの亀裂かと思った。だが、よく見ると違うようだ。細く、均一で、わずかに光を吸うような質感がある。埃の上を横切っているのに、そこだけ埃が乗っていない。

これはいったいなんだ……?

「……マリー」

《微細な線状物質を確認。材質不明。接触非推奨》

心臓が一段強く鳴った気がした。いや、今の私は機械なのだから、鳴ったのはリアクターかもしれない。

白い線は棚の脚から床へ伸び、さらに奥の暗がりへ続いている。改めてこの空間を意識すると、想定よりもずっと広いことが分かる。

いや、壁が抜かれて複数の部屋が一つになってしまったのだろうか。

「これ、蜘蛛の糸だったりするか?」

《可能性があります。ただし、銀索蜘蛛の糸は光を反射しにくいとされています。現在確認できる線状物質は比較的視認が容易です。古い巣糸、別種の糸、あるいは環境劣化した何かしらの残留物の可能性があります》

「つまり、近いかもしれない?」

《はい。警戒を強化してください》

私は息を殺した。

倉庫の中が、急に別の場所のように感じられる。先ほどまでただの廃墟だった棚の隙間が、何かの巣穴に見えてくるから不思議だ。

今は人など全く関係ないはずなのに、シミュラクラ現象が起きている。薄暗がりのコントラストの差異が、恐ろしい人の顔のように見えるのは、私がこの状況を恐れているからだろう。

天井の暗がり、棚の裏、床下の隙間。どこから何が出てきてもおかしくない。

左手を軽く握る。

武器と呼べるものはまだ乏しい。今持っているのは、避難所の探索中に拾ったいくつかの素材を加工した簡易的な打撃武器と、それから左腕そのものだ。

相変わらず脆い体だが、エネルギーが戻った今なら、以前よりはまともに振れる。

「ここで怪物と遭遇したらまずいな。空間自体はかなり広いけど、残留物のせいで思ったよりも狭いし、何より片腕だし」

《同意します。備蓄倉庫内での戦闘は不利です。開けた通路まで後退可能な位置を維持してください》

「了解」

私は糸に触れないよう、慎重に後退した。

背中を見せるのは嫌だったので、ゆっくりと後ろ向きに進む。視界が左側に偏っているせいで、右後方が見えない。

首を回して確認しようとした瞬間、頸部の奥がちり、と嫌な違和感を発した。

それは痛みではない。だが、信号が一瞬だけ乱れたような、不快なずれだった。

「っ……」

《頸部伝達異常を検知。急な首振り動作を控えてください》

「言われなくても、今ので分かった」

やはり早く修理しなければならない。これを放置していると、いずれとんでもない失態をするに違いない。

倉庫を出た私は、扉を完全には閉めず、少しだけ隙間を残した。中に何かいるなら、音で分かるかもしれない。もっとも、蜘蛛相手に音を期待するのは間違っている気もするが。

しばらく扉の脇で打撃武器を構えて待機していたが、何かが近寄ってくる気配はなさそうである。

「よし、移動しようか」

その後も、避難所内部の探索を続けた。

居住ブロックは、静かだった。他の区画も静かだったが、ここは無音が煩いと感じるほど静かだ。

並んだ小部屋の中には、崩れた寝台や個人用ロッカーの残骸が残っている。壁には古い落書きのようなものがあり、読める文字もあれば、完全にかすれているものもあった。

誰かが残した日付。救助を待つ言葉。子どもの絵らしき線。祈りにも似た短い文章。

私はそれらを見ながら、少しだけ歩みを遅くした。

ゲームだ。これはゲームの中の世界だ。

けれど、この世界は妙に手触りがある。壊れたものにも、失われた場所にも、誰かの生活があったような痕跡がある。廃墟を歩くたびに、それが胸のどこかに引っかかる。

「作り込みがすごいって言葉で片付けるには、些か重いな」

《ルイス、あなたはこの世界に絶望と混沌を齎すのではないのですか?》

「ああ、そうだよ。これは、ただの感傷だよ。過去の光景に思いを馳せ、想像しているんだ。ここに残った物一つ一つから、彼らの動きや行動を」

そう、別に躊躇ったりなんてしないよ。この世界の住民がどれだけ尊いものだとしても、私のレゾンデートルは変わらない。

それは私のプレースタイルにも合致するものだから、心配いらないさ。

《安心しました。私はその目的を支援するために作られた存在です。それが揺らがない限り、私はあなたに有益であろうと努めます》

揺らがない限り、ね。

マリーはそれ以上踏み込んでこなかった。こういう距離感はありがたい。

居住ブロックの奥で、私は小さな整備スペースを見つけた。そこには壁付けの作業台があり、工具の大半は失われていたが、金属片や古いケーブルが少しだけ残っていた。

《低品質の導体素材を回収可能。頸部修復の主素材には不適ですが、補助材として利用できます》

「よし、持っていこう」

回収を終える頃には、避難所の簡易マップもかなり埋まっていた。

入口から伸びる主通路。その左右に医療室、倉庫、居住ブロック。奥には管理室があり、さらにその先で地下深くへ降りる保守用通路に繋がっている。

問題は、その保守用通路の近くから、目に見えて糸の痕跡が増えていることだった。

床の隅。天井の配管。壁の亀裂。

視覚補正を強めなければ見落としそうな細い線が、少しずつ避難所の奥へ向かって伸びている。

「完全に誘導されてる気分だな」

《銀索蜘蛛の生息域に近づいている可能性があります》

「ちなみに、巣の近くに獲物を誘い込むタイプだったりする?」

《詳細な生態情報は不足しています。ただし、蜘蛛型の魔物の多くは待ち伏せ、罠、拘束を得意とします》

「知ってたけど、あまり聞きたくなかった情報だよ」

管理室の前に到着する。

扉は半開きだった。中には操作卓が並び、壁一面に監視用の画面らしきものが埋め込まれている。ほとんどの画面は割れていたが、中央の一枚だけが薄く光っていた。

「生きてる?」

《微弱な電力反応を確認。接続を試行できます》

「頼む」

マリーが何やら特殊な力を用いて操作卓へアクセスを始める。私自身は何もしていないのに、左手の指先から細い光の線が伸び、端末の割れた接続部へ入り込んでいった。

しばらくし、マリーが無感動に述べた。

《管理端末への限定接続に成功。施設情報を取得します》

古いマップが展開された。避難所の全体図だ。崩落している区画、封鎖された通路、現在地、そして地下の保守区画。

その一部が赤く点滅している。

「赤いのは?」

《過去の警戒記録です。表示内容を復元します》

文字化け混じりのログが表示される。

『外部侵入体確認』

『配管区画に巣状構造物を確認』

『非戦闘員の接近を禁止』

『保守作業員二名、帰還せず』

『以後、当該区画を封鎖』

「これは、答えではないだろうか」

《様々なデータを横断的に検討した結果、銀索蜘蛛、または類似個体の巣が存在した可能性が高いです》

「しかも過去形とは限らない、よね?」

《はい》

管理室の空気が一段冷えた気がした。仮にこいつらがずっと存在していた場合、かなりの力を溜め込んでいるのではないだろうか。

私は画面に表示された保守区画の位置を確認する。ここのさらに地下、配管が密集したかなり広い区域。

彼らはとりあえず巣を大きくする習性があるので、場合によっては外へ抜けるルートを掘削している可能性があるらしい。

蜘蛛がいる可能性は高い。目的素材もそこにあるかもしれない。

同時に、逃げ道も複雑だ。

「マリー、保守区画に入る前に準備したい。使えるものは?」

《現在所持品を確認。簡易工具、低品質導体素材、微細駆動部品、劣化導線、小型端末部品、瓦礫片、簡易打撃具。戦闘補助としては不十分ですが、糸の接触確認用に長尺の導線を利用可能です》

「罠探知棒みたいに使うのか」

《はい。銀索蜘蛛の糸は視認困難なため、進行方向に導線を軽く振り、抵抗の有無を確認する方法を推奨します》

「地味だけど大事だな」

《地味な確認作業は生存率を向上させます》

「本当に初心者講習みたいになってきたよ……」

私は劣化導線を取り出し、左手で扱いやすい長さに整えた。右腕がないため、武器と探知用の導線を同時に扱うのは難しい。そこで、簡易打撃具を腰に引っ掛け、まずは導線で罠を探りながら進むことにした。

管理室を出て、奥の通路へ向かう。

そこから先は、明らかに空気が違った。

非常灯の数が減り、天井の配管が密集し、床には水たまりが増えている。壁面の金属パネルはめくれ上がり、その隙間から黒い管が内臓のように垂れていた。足音が湿った反響を返し、どこか遠くで水滴が規則正しく落ちている。

そして、やはり糸が増えた。

最初は床の隅に一本。

次に、天井から壁へ斜めに一本。

さらに進むと、配管同士を縫うように細い線が張られていた。立体的に張り巡らされた蜘蛛糸は、その突破を良しとしないようだ。

導線を軽く振ると、何もない空間でわずかな抵抗が返ってくる。目を凝らすと、そこにほとんど透明な糸があった。

「見えないな、これ。特に私の場合は」

《視覚補正を最大化します》

視界が少しざらつき、暗い空間の輪郭が強調される。それでも糸は見えにくい。光を反射しにくいという説明は本当らしい。

正面から見れば何もない空間だ。ただ角度を変え、息を止めるほど集中して、ようやく空間に細い歪みがあると分かる程度だ。

蜘蛛は様々な糸の使い方をする。探知用に使ったり、攻撃用に使ったり、あるいは防御にも。ここらの蜘蛛糸は間違いなく探知を目的とした罠で、私は既に補足されているだろう。

「これ、戦闘中に見切るの無理じゃないか?」

《現状では困難です。事前察知と位置取りが重要です》

「戦う前から難易度が高いな」

《推定獲得難易度はイージーです》

「この世界のイージー、信用できないと改めて実感したよ。ポラリスめ、相変わらずとんでもない死にゲーを作ったようだ」

ぼやきながら進む。左手の導線を振るう度に存在を主張している。しかし、こうしないと体中に細い糸が絡みつき、いつしか糸ダルマになってしまうから仕方がない。

やがて通路の先に、分厚い隔壁が見えた。保守区画と書かれた標識が斜めにぶら下がっている。隔壁は半分ほど開いており、その向こう側から冷たい風が流れてきた。

風に乗って、細い音が聞こえる。

きし、きし、と。

何かが糸を引くような音だった。

私は足を止める。

《前方、微弱な生体反応。単数、もしくは小型個体複数。距離、約三十メートル》

「生体反応……いるのか」

《はい。注意してください》

隔壁の向こうを覗き込む。

そこは、配管が縦横無尽に走る広い保守空間だった。天井は意外なほど高く、上部には作業用の足場が何層にも組まれている。壁面には太い管が並び、ところどころ破裂した箇所から白い蒸気が漏れていた。

そして、その空間の奥。

足場と配管の間に、黒銀色の影がぶら下がっていた。

最初は機械部品かと思った。だが違う。

節のある細長い脚が、一本、二本、三本と見える。胴体は丸く、表面には銀の筋が走っている。腹部の先からは、ほとんど見えない糸が伸び、周囲の配管へ繋がっていた。

そいつは、逆さまにぶら下がったまま、ゆっくりと脚を動かした。

赤とも紫ともつかない小さな複眼が、暗闇の中で点々と灯る。

間違いなくこちらを見ている。

「……見つけた」

《銀索蜘蛛と推定。目標素材保有個体である可能性、かなり高いです》

私は喉の奥で笑いそうになった。

怖い。気持ち悪い。正直、できれば近づきたくない。

けれど、それ以上に胸の奥でリアクターが低く唸る。身体のあちこちに、力が巡る。この壊れた機体が、次の修復をとコイツの素材を求めている。

右腕を取り戻すために。

右目を取り戻すために。

まずは、この首の奥で軋む不愉快な神経を繋ぎ直すために。

私は腰の打撃武器に左手を伸ばし、できるだけ静かに握り込んだ。

「イージーって言ってたけどさ、」

銀索蜘蛛の脚が、かすかに開く。その黒い節に繋がれた鋭い脚は、所々に銀色の斑点があった。暗闇の中で煌めく銀色は、この怪物が蜘蛛であることを忘れさせるほど美しかった。

糸が鳴る。空間全体が、見えない罠の中に変わっていく。

「これはエクストリームだろう……」

《戦闘準備を推奨します》

「もうしているよ」

私は一歩、保守区画の内側へ踏み込んだ。