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イリーナはもういない

作者: ぴょる

本文

イリーナはエルミタージュ国の第七王女である。

多くの兄弟姉妹に囲まれた彼女が、特別に注目されることはなかった。父王の視線は常に上の子供たちへ向かい、母妃の手は常に下の子供たちで塞がっていた。

冷遇されていたわけではない。意地悪をされたわけでもない。食事は与えられ、衣服は整えられ、教育も施された。ただ、誰もイリーナを特別に必要としなかった。朝の食卓で彼女の席が空いていても気づく者はいなかっただろう。夜の団欒に加わらなくても誰かが名を呼んで探すことはなかった。

いてもいなくても、変わらない。

それがイリーナという存在だった。

十八の春、縁談が来た。

隣国テルシア王国は豊かな国だった。地下に眠る鉱脈、肥沃な大地、良港。資源だけを見れば大国にも引けを取らない。しかし王家の足元は揺れていた。王弟派閥が力を持ち、第一王子テオドール殿下の立場は決して盤石とは言えなかった。故に後ろ盾を求めていた。

エルミタージュはそれに応じた。

会議室に並んだ重臣たちの議論は、イリーナの耳には届かなかった。届いたのは結論だけだった。第七王女を、第一王子テオドール殿下に嫁がせる。大国の王女という箔を持たせてやれば、向こうの政情も多少は安定する。失っても痛くない駒で恩を売れるなら安い買い物だ、と。

父王に呼ばれ縁談を告げられた時、イリーナの胸に灯ったのは喜びだった。

ようやく誰かの役に立てる。

ようやく特別になれる。と。

自分を必要としてくれる場所へ行ける。その一心でイリーナは微笑んで言った。

承知しました、と。

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テルシア王国は、噂通りの国だった。

馬車の窓から見える景色は豊かで、道を行き交う民の顔には活気があった。土地が肥えている。水が綺麗だ。イリーナは窓の外を眺めながら、静かに観察した。これから自分が支えるべき国の姿を、一つも見逃すまいとするように。

ここでは役に立てる。

ここでは、必要とされる。

馬車が王城の門をくぐる頃には、イリーナの背筋は真っ直ぐに伸びていた。

謁見の間で初めてテオドールと向き合った時、イリーナは思わず息を呑んだ。端正な顔立ち、落ち着いた佇まい、知性の滲む双眸。噂には聞いていたが、実物はそれ以上だった。

イリーナは丁寧に礼をした。長い道中で何度も練習した所作だった。

「テルシア王国第一王子テオドール殿下。此度のご縁、謹んでお受けし……」

「見苦しいな」

低く、静かな声だった。

イリーナは顔を上げた。テオドールはイリーナを一瞥しすぐに視線を外した。まるで路傍の石でも見るように。

「エルミタージュが寄越したのはこの程度か。王女と聞いていたが、どこの田舎娘かと思った」

周囲の侍従たちが微妙に視線を逸らした。

イリーナはなんとか笑顔を保った。

これはきっと試されているのだ。王族として、妃候補として、動じない器があるかを見られているのだ。

そう思うことにした。

翌日からイリーナは学び始めた。

テルシア王国の言語、歴史、文化、礼儀作法。王太子妃として知るべきことを片端から頭に叩き込んだ。夜明け前に起き、蝋燭の灯りで書物を開き、消灯の時刻を過ぎても机を離れない。そんな日々を送り続けた。

容姿にも気を配った。髪の結い方、化粧の色、所作の一つひとつ。テルシアの貴族女性がどう振る舞うかを徹底的に観察し、自分の身体にひたすら落とし込んだ。鏡の前で何度も練習した。笑い方、頭の下げ方、扇の角度まで。

しかしテオドールの言葉は変わらなかった。

廊下ですれ違えば、「相変わらず垢抜けない顔だな」と呟かれ、茶会の席では、「エルミタージュの教育はこの程度か」と周囲に聞こえる声で言われた。言語の習得を報告した時には、「発音が汚い。耳障りだ」と顔を顰められた。

褒めることは一切なかった。労うことも、気にかけることも欠片もなかった。

テオドールがイリーナをそう扱うから、侍従たちの態度も一段階ずつ下がっていった。呼べどもすぐには来ない。頼めば面倒そうな顔をする。廊下ですれ違っても視線が薄い。

王子殿下が大切にしない方を自分たちが大切にする理由はない。そういった声が聞こえてくるようだった。

イリーナはまだ足りないのだと思った。

もっと言葉を磨けば。もっと所作を整えれば。もっとテルシアのことを知れば。いつか、いつかきっとテオドールが振り向いてくれる日が来る。いつか、ここに自分の居場所ができる。

そう信じてイリーナは努力し続けた。

その『いつか』が、自分の努力で手繰り寄せられるものだとまだ疑っていなかった。

テオドールの冷たさに理由があるとも、その理由がイリーナには決して変えられないものだとも、知らないまま。

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テルシア王国の政治は、長らく不安定な均衡の上に成り立っていた。

王弟は有能な男だった。軍部に顔が利き、古くからの貴族たちに影響力を持ち、民衆への見栄えも悪くなかった。王位継承権こそ持たないが、宮廷における実質的な発言力は王太子テオドールに劣らなかった。いや、場合によっては上回ることさえあった。

一方、テオドールは国王派に位置していた。正確にはテオドール自身が国王派の核だった。第一王子として正統な継承権を持ち、父王の信任も厚い。故に、王弟派にとってテオドールは最大の障壁だった。

王弟派の手口は、時に苛烈だった。

政敵の失脚を画策し、証拠のない噂を流し、王弟派に都合の悪い人間が不自然な死を遂げることもあった。

目的のためなら手段は選ばない。それが王弟派だった。

そこへイリーナが来た。

大国エルミタージュの王女。そしてテオドールの婚約者。それだけでイリーナは意味を持つ存在になった。意味を持つということは、利用できるということだった。

王弟派がイリーナを通じてテオドールを揺さぶろうとする可能性は十分にあった。あるいはもっと直接的な手段を取るかもしれなかった。

だからテオドールはイリーナを遠ざけた。

嫌っているように見せるため、イリーナを罵倒し、無視し、価値のない女だと周囲に示し続けた。テオドールが見向きもしない女をわざわざ害する理由はない。王弟派にとって、イリーナは脅威でも切り札でもなくなる。ただの惨めな王太子妃だ。

それがテオドールの計算だった。

テオドールはイリーナから目を逸らしながら、王弟失脚の機を静かに、着実に待ち続けた。

ただ一つ誤算があったとすれば、イリーナがどれほど耐えられるか、テオドールは一度も考えなかったことだ。

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気づけば、イリーナは茶会の招待状を断るようになっていた。

最初は体調や先約などの理由を考えていたが、そのうち理由を考えることも面倒になり、ただ欠席の旨を伝えるだけになった。

どうせ行っても同じだった。

着いた瞬間にテオドールの視線が刺さる。何か言えば嘲られ、黙っていれば存在ごと無視される。周囲の貴族たちはテオドールの顔色でイリーナへの態度を決める。自分がいるだけで場の空気が重くなるのをイリーナは知っていた。ならば最初からいなければいい。

実際、断っても何も言われなかった。

心配する者もなく、理由を尋ねる者もいない。招待状はただの形式で、来ることを期待されていたわけでもなかった。王太子の婚約者だから招いただけ。

だからイリーナがいなくても、誰も困らなかった。

しかしテオドールは言った。

「引きこもりめ」と周囲に向かって嗤った。「恥ずかしくて出てこられないのだろう」と。

どちらに転んでも罵倒は来た。

それでも出なければならない行事はあった。国の祝典、賓客の歓迎式、季節の儀礼など。そういう場にだけイリーナは姿を現した。

努力して身につけた所作は完璧だった。

入室の動作、礼の深さ、扇の開き方、微笑みの作り方。長い時間をかけて磨き上げたものは紛れもなく本物だった。

思わず目を引く立ち居振る舞いに、周囲がはっと息を呑む瞬間があった。あれが王太子妃かと誰かが囁く気配がした。

しかしテオドールが冷たい目をすると、それだけで場の空気は消えた。

感嘆は引っ込み、視線は逸れ、誰もイリーナに近づかなくなった。

それが何度も繰り返された。

努力しても認められない。磨いても届かない。完璧にこなしても、一つの視線で全部消える。それでもイリーナはまだ動いた。まだ足りないからだと、そう思おうとしていた。

思おうと、していた。

ある朝、イリーナはいつものように目を覚ました。窓の外に光が差していた。今日も行事がある。完璧にこなさなければ。そう考えながら鏡の前に座った。

自分の顔が映っていた。

整った顔だった。微笑んでいた。まるで知らない人の顔のようだった。

その微笑みの中には何もなかった。

悲しさも、苦しさも、虚しさも無かった。自分への情けなさも、いつか報われるという微かな期待も、もうどこにもなかった。

イリーナの心は、死んでいた。

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王弟が投獄されたのは、秋の終わりのことだった。

長年にわたって積み上げられた証拠が一斉に開示され、派閥の中枢にいた者たちは次々と失脚した。王弟派閥は、驚くほど呆気なく瓦解した。テオドールと国王が水面下で仕込んできた策が、ようやく実を結んだ瞬間だった。

テオドールはその日のうちに、イリーナの部屋へ向かった。

扉を叩くと、少し間があってから返事があった。どうぞ、という声は穏やかで感情の起伏がなかった。

部屋に入ると、イリーナは窓際の椅子に座っていた。膝の上に本を開いたままテオドールを見た。驚いた様子も怯えた様子もなかった。

テオドールは口を開いた。

「イリーナ」

名を呼んだのはいつぶりだろうと思った。

「謝らなければならないことがある」

イリーナは本をそっと閉じた。

「王弟派閥が解体された。これでお前をあのように扱う理由はなくなった」

テオドールは続けた。ずっと胸の中に押し込めていたものが堰を切ったように溢れた。

「すまなかった。数々の暴言を、冷遇を、お前が受けてきた全てのことを謝罪する。お前を守るためだったとはいえ、お前には何も告げなかった。お前一人に全てを背負わせてしまった」

声が掠れた。

「恨んでいい。怒っていい。何でも言ってくれ。俺はそれを受け取る」

部屋は静かだった。

イリーナはテオドールを見ていた。穏やかに、柔らかい目で。そのままうっすらと微笑んだ。

「左様でしたか」

静かな声だった。

「それは、大変なご苦労でございましたね」

テオドールは息が止まった。

え、と声が出た。情けないほど間の抜けた声だった。

イリーナはただ微笑んでいた。怒りも悲しみもなく、責める色も全くない。ただ穏やかに微笑んでいた。

「イリーナ」

「はい」

「お前は、俺を恨んでいないのか……?」

少し間があった。

イリーナは首を僅かに傾け、考えるような仕草をした。

「恨む、とはどのようなことでしょう」

テオドールは返す言葉を失った。

その時初めてイリーナの目をまともに見た。

柔らかく細められた目。微笑みに合わせて形だけ笑っている目。その奥には何もなかった。怒りも、悲しみも、安堵も、愛も。何一つ、欠片もなかった。

テオドールはその時初めて知った。

イリーナがもう既にどこにもいないことを。守るべきものが既に失われていたことを。

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婚姻の儀は滞りなく執り行われた。

テオドールはイリーナの手を取り、誓いの言葉を述べた。イリーナは完璧な所作で隣に立ち、完璧な微笑みで応えた。列席した貴族たちは口々に美しい花嫁だと囁いた。

テオドールはイリーナをひたすらに愛した。

贈り物をした。深海の色をした宝石の首飾り、繊細な細工の施されたブレスレット、季節の花を模した耳飾り。イリーナはその度に、ありがとうございますと完璧な礼とともに微笑んで言った。

社交の場では、テオドールが必ずイリーナの隣に立った。丁寧にエスコートし、イリーナの言葉に耳を傾け、彼女の聡明さを周囲に説いた。かつての冷遇が嘘のように。

周囲は囁いた。ご夫婦仲がよくなられた、と。王太子妃は美しく賢い、と。テオドール殿下はイリーナ妃を心から大切にされている、と。

誰も知らなかった。

イリーナの心が、どこにもないことを。

宝石を贈られても、優しくエスコートされても、愛の言葉を囁かれても、イリーナの内側では何も動かなかった。綺麗だと思うことも、嬉しいと感じることもない。ただ状況に合わせて正しい言葉を返し、正しい表情を作るだけだった。

やがて、イリーナは懐妊した。

テオドールは目を潤ませた。良かった、と何度も繰り返した。その声には縋るような響きがあった。

新しい命がイリーナの止まった時間を動かしてくれるかもしれない。そう思わずにいられなかった。

イリーナは自分の腹に視線を落とした。

まだ何も変わっていない平らな腹をしばらく見つめ、微笑んで言った。

「おめでとうございます」

それを聞いたテオドールは、何も言えなかった。

自分のことなのに。自分の腹に宿った命なのに、イリーナはまるで他人の慶事を祝うように、おめでとうございますとだけ言った。

月が満ちるにつれ、イリーナの腹は膨らんだ。

イリーナはその変化を遠くから眺めていた。自分の身体に起きていることを、別の誰かが観察しているように。つわりの苦しさも、胎動の不思議さも、全てが遠かった。

そして、王子が生まれた。

産声が響いた瞬間、テオドールは泣いた。周囲の女官たちも、侍医たちも、目を赤くした。

産着に包まれた赤子が、イリーナの傍に運ばれた。

イリーナは赤子を見て、それから微笑んだ。

「かわいらしい赤子ですね」

誰かの子供を褒めるように、穏やかに言った。

産後、イリーナの回復は思わしくなかった。

顔色が日を追うごとに白くなった。テオドールは最上の医師を呼び、最良の薬を取り寄せ、自らイリーナの傍に付き添った。

しかし、遂に回復はしなかった。

ある夜、テオドールはイリーナの手を握ったまま声を上げた。

「いかないでくれ……!」

涙が落ちた。

「頼む。まだ何も、何も返せていない。いかないでくれ、イリーナ……!」

イリーナはゆっくりと瞼を開くとテオドールを見た。泣き崩れるテオドールを穏やかな目で見て、そして、微笑んだ。

「お世話になりました」

それだけ言って、イリーナは静かに目を閉じた。眠るように、ゆっくりと。

イリーナは苦しむことも怖がることも、最後までなかった。

イリーナの体は、冷たくなって動かなくなった。

残されたのは、産声を上げたばかりの王子と、一生の後悔を背負った男だけだった。