軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

253 待ち構えていた天使様

職場の先輩方にあれやこれやと指導されて帰った頃には普段ならばお風呂に入ろうかなという時間だった。

自宅のあるマンションのエレベーターに乗りながら、周は大きく息を吐いた。

たかだか四時間程度の勤務なのに疲弊しているのは、慣れない環境や仕事というのが大きいだろう。大きな失敗はしていない(というより大きな失敗になるような仕事を任されていない)が、やはり初めての事には緊張がつきものだ。

幸い共に働く先輩達はクセはあると思ったが皆いい人だと思うし、たどたどしい周にも親切にしてくれる。

とても良い職場だとは思う。

が、疲れるものは疲れるのだ。

エレベーターを出ていつもより重たい足取りで自宅の前にまで歩き、いつものようにドアを開けると――リビングに続く廊下の奥から真昼が駆け寄ってくる所だった。

あんまりに急いだ様子でぱちりと瞬きを繰り返す周に、真昼は安心したような笑みを浮かべる。

「お帰りなさい、周くん」

「ただいま。走ってこなくてもよかったのに。待たせてごめんな」

恐らくではあるが、ずっと周の帰宅を待っていたのだろう。

帰る時間帯は伝えていたが、一人は心細かったのかもしれない。

付き合うようになってからは真昼が周の家に風呂と寝る時間以外居るので、最早この家に居る事が当たり前になっている。その状態で急に一人になれば、寂しくもなるだろう。

「い、いえ、そんな事は。周くんの居ない間にやる事はいっぱいありますし」

「やる事いっぱいで寂しくはなかったと」

「……そ、それはまた別の話というか」

目を逸らしながらうっすらと頬を染める真昼につい笑ってしまえば、気付いた真昼がやや頬をふくらませる。不満げな眼差しではあるが、どこか甘えるような色があった。

拗ねたようにツン、とそっぽを向いた真昼に笑みを収める事もなく靴を脱いで家にあがる。

手を洗いに洗面所に向かえば、奥にある風呂場に灯が点いていた。

振り返って真昼を見れば、機嫌を直したらしい真昼が当たり前のような顔をして立っていた。

「お風呂とご飯、どちらを先にしますか?」

台詞をもう少し変えれば新婚の出迎えのような言葉を口にした真昼に、つい口元が緩みそうになったものの、なんとか堪える。

本人は恐らく自覚はないところが、また可愛らしい。

「真昼もお腹空いてるだろうし、先にご飯がいいかな」

「じゃあご飯よそってきますね。今日は初めてのバイトという事で頑張ったで賞のだし巻き卵を作っておきました」

「やった。とんでもないご褒美だな」

「ふふ、随分と安いですねえ」

「俺好みですごく美味しいし、真昼の、という付加価値がついてるから最高級だと思うけど。いつもありがとな」

そもそもわざわざ作ってもらっている、という時点で大変な手間がかかっているので安いなんて事はないだろう。周のために作ってくれた、というだけでも充分なものだ。

その上で非常に美味しいのだから、とても贅沢なご褒美である。

毎日ご飯を作ってくれる上にこうして好みも考慮してくれるなんてありがたい。本当に得難いパートナーだと改めて思う。

この献身に報いないとなあ、と思いながら手を洗ってリビングに向かおうとしたら、真昼が背中にくっついてくる。

振り返って真昼の表情を確認しようにも、周の背中に顔をくっつけているためその表情は窺えない。分かるのは、照れているという事くらいだろう。

ぐりぐりと額を擦り付けてくる真昼は、周のお腹を締め付けるようにぎゅむぎゅむと力を入れて抱きついている。

筋トレしててよかった、とちょっぴり思いながら笑えば、息遣いとお腹の揺れで笑った事が分かったらしい真昼がぺしぺしと腹部を叩く。

「……感謝してくれるのはありがたいですけど、不意打ちは駄目です」

「事前通告して褒め千切ればいいのか」

「そ、それはそれで困りますけどっ。……いつか私が翻弄してみせますからね」

そう言って離れた真昼は、何故だか気合いの入った顔で足早にキッチンの方へ逃げていく。

何とも勇ましい逃げ方だ、と思いながらひっそり笑って、周は自室に着替えに戻った。

「そういえばバイトはどうでしたか?」

今日はしっかりと和食で揃えたらしい夕食を食べていると、真昼が気にしていたらしくほんのりそわそわとした様子で問いかけてくる。

「ん、別に問題はなかったよ。というか初日は大きな仕事は任されてないし。先輩達もいい人そうだったし、働き場所としてはいいと思うけど」

「そうですか……よかった。周くんが働きやすそうならよかったです。もしブラックな職場だと思うと……」

「木戸の紹介だし茅野も働いてて不満はないそうだからその辺りは大丈夫だぞ」

そもそも木戸の身内である糸巻が経営しているので、なにか問題あるなら木戸が気付くだろうし茅野を働かせたりはしないだろう。だからこそ安心してバイトを始めたというのはある。

木戸は話すようになってから間もないが、多少変なところや余計な性癖を真昼に教えようとはするものの、善良な女性だと思う。

店主である糸巻も妄想を刺激するような事さえなければ普通に優しくて慎ましい女性(茅野談)という事なので、働く事に問題はないだろう。

「心配しなくても、無事にやっていけそうだよ。勤務時間とかも都合に合わせてくれるし」

「……それならいいのです。周くんが頑張れそうならよかった。私は見守って応援する事しか出来ませんからね」

「それだけで充分だよ。帰ってきて美味しいご飯と温かい風呂を用意してもらえるだけで幸せだし」

そういう形で支援してもらえるだけでありがたいし、幸せ者だと思う。ありがたい限りだろう。

「……早く周くんのお仕事の姿見せてもらうためにも、微力ながら助力しますよ」

「……そんなに見たいものなの?」

密かな目的にほんのり呆れ気味な響きの声で返せば、力強く頷かれる。

「恋人の仕事場での姿は見たいものです。それに、木戸さんから見せてもらった茅野さんの制服姿を見る限り周くんにとっても似合いそうですので……」

「そうかねえ」

「見るの楽しみにしてるんですからね」

「俺としては見られるのは恥ずかしくて気が進まないんだけど……」

嫌ではないのだが、普段真昼に見せている自分とは違う姿を見せる事になるので、そこがなんとも言えない気恥ずかしさを感じる。

ただ真昼からすればそれも「ギャップがあっていい」という意見らしく、普段見せないような姿を見たい真昼からしてみれば現状お預け状態らしい。

「……嫌なら我慢しますけど」

「嫌じゃないけどさあ……俺の営業スマイル見て楽しい?」

「普段は絶対にしないから逆に見たいというか」

「真昼が望むなら幾らでもするけど……」

「……それは対私用の笑顔になりますから、別枠です」

そう言われればそうだろう。確かに真昼を特別扱いしないと断言出来ないし、真昼用の笑顔を向ける自信がある。

「それに、周くんが頑張ってる姿、見たいです」

「……なるべく早く慣れるように頑張るよ」

こう言われてしまっては、より一層頑張るしかなくなるだろう。愛しい彼女が一人前として働いてる姿が見たいというのなら、努力を惜しまない。

早く慣れた方が店としても助かるであろうし、周としても自信が持てる。

真昼の一声で更にやる気を出すのだから我ながら単純だな、と思いはしたが、期待したように瞳をわずかに輝かせた真昼の微笑みに、自分への呆れは溶けて消えた。