軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

29.狂気を知った日

いつもと同じ、お腹を空かせて裏路地をさ迷っていた。誰かの食べ残しでも、腐っていても、いっそ飲料でもいい。何か胃に入れなければ死んでしまうと、栄養の足りていない脳内で思っていた。

ふらつく足取り、霞む視界、ゆっくりと自分の体から正常が抜け落ちていく。

食料を求めていたはずなのに、いつの間にか向かう先がどこなのか分からなくなっいた。野宿では大した休息にはならず、慢性的な寝不足、不眠に近い心身はもう限界を訴えていたのだろう。当ても、思考すら伴わず歩き回り、自分の居る場所すら分からない。

ただ体力が尽きるまで足を動かして、瞬きのつもりが気絶していたと気付いたのは、目を開けた時に飛び込んできた光景があまりに美しかったから。

「…………」

状況は理解出来なかったが、驚く気力はすでに無くて。ただぼやけた視界に広がる煌びやかな天井が空ではない事くらいは何とか判断できた。

空が見えない、ここは外ではない。

「起きたか」

「っ、……」

その二つを理解している内に、音もなく部屋に入ってきた人物の声が耳に届いて、起き上がりたい反射とは裏腹に布団の上で肩が跳ねただけだった。

声が掠れ、包まれる温もりすら重量を感じる。今の自分の体は糸の切れたマリオネットと同じ、動かそうにも操作方法がない。

「食事を持って来たが、食べられそうか?」

「……、……」

「飲み物も持って来たから、まずは喉を潤すといい」

口に近付けられたストローの先から、細やかな冷気が溢れている気がした。コップに溜まった透明な液体、それが水なのだと理解出来るよりも早く体の飢えが待てを放棄した。体が思う様に動かず、がっつけなったのは幸いだった。

倦怠感を感じさせる動きで少しずつ喉を潤して、久しぶりに飲んだ新鮮な水分はごく少量でも身体中に満ちていった。

冷たい水のお陰で脳内もクリアになって、体は不自由なままだったが霞んでいた視界は美しさを取り戻す。そこで初めて、自分の側に立つ人の顔を認識した。

「体が起こせそうなら少しでも食べた方がいいんだが……あぁ、無理はしなくていい。水だけでも飲めれば一先ず大丈夫だろう」

短く切られた薄い灰色の髪。柔らかく波打ちながら、艶やかさも兼ね備えているのだと天使の輪が主張している、丸く大きな、猫を連想させる瞳は、泣き出す前の空の色。白く瑞々しい肌はほんのりピンクがかり、小さな唇は紅の存在を嘲笑うかの様に鮮やかで。

白いシャツに、サスペンダーの着いた黒いハーフパンツ姿で、装飾品は一つもないのにそれさえもその存在は際立たせる要因にしかならない。

完成された美しさは、まるで理想の宝庫。人間ではなく天使なのだと言われた方が納得出来てしまうが、それ故に性別部分が不透明だった。

一見すれば、驚くほど美しい少年だ。口調も、服装も、自分と同性の様には思えない、のに。

どうしても拭えない違和感が、納得の邪魔をする。

マリンよりは年下だろうけど、それほど幼い訳ではないだろう。顔立ちの美しさが性別同様年齢も不透明にしているが、それでも自分より年上ではないだろうし、かといって幼児というほどの歳でもない。

身長はそれほど低くない。同年代に比べても高い方であるマリンを基準にしても、低いという判断が出来ない程度には高身長。

顔色も良く、何かが不足している様子はない。極めて健康そうに見える、普通の少年であるはずなのに。

視界に映る骨格と肉付きが、どうしてこんなにも頼りなく思えるのか。

「ぁ、なた……は」

貴方は、誰。ここは、どこ。

精神的には回復していても、所詮は気分の問題だ。張り付いた喉は僅かな水分で元の機能を取り戻すほど余力を残してはいなかったらしい。

「僕……」

声にならず、咳き込んでしまいそうになる。そんな出来損ないな文章を脳内で補完して、答えをくれるはずだった口から空気だけが溢れ落ちる。

目を伏せて、少しの迷いが唇を閉じさせた。が、それもほんの一瞬。

「私は、ヴィオレット。ヴィオレット・レム・ヴァーハンだ」

この時、ヴィオレットの中でどれ程の葛藤があったのか。どれ程の覚悟と勇気をもって名乗ったのか。

この時、自分は何一つ想像も出来ずに、夢と現実の境をふわふわ漂っていた。

マリンの体調が回復し、話し動ける様になったのは、十日後の事だった。

× × × ×

「ここで働かないか?」

「……はい?」

十日前、食料を求めてさ迷っていたマリンは、どうやら知らぬ間にヴァーハン家の裏口の前まで来ていたらしい。それを見つけた使用人がヴィオレットに伝え、拾った上十日も面倒を見てくれた。

その話を聞き、真っ先に謝罪と感謝、そして何かお返しがしたいと頼み込んだ。金も家も、栄養すら足りていなかった身だが、出来る事なら何でもすると額を床に押し付ける勢いで。

それに対して、返って来たのが先の言葉。

素でキョトンとするマリンとは対照的に、ヴィオレットの表情は名案を思い付いたと言わんばかりに自信で満ちていた。

「家は人の出入りが少なくてな……僕はあまり外に出られないし、使用人も大人ばかりで退屈していたんだ。君さえよければ、僕の話し相手……専属として、働いてはくれないか?」

椅子に腰掛け足を組んでいる姿は、正しく貴族の子息に見える。ここは公爵家でヴィオレットはその家の子であるのだから、その印象は正しいはずなのに、やはりどこか飲み込めない違和感があった。

とはいえ今はそれを問える状況では無く、公爵家の使用人が孤児で家無き子なんて、色々問題があるのではないか。

まずこの家の主……ヴィオレットの両親が反対するだろう。

そう思って、断らなければと、思っていたのに。

「両親は大丈夫だ。何も……言っては来ないから」

余程信頼されているのか、もしくは何をしても許してしまう過保護なのか。

親からの愛を欠片も知らずに生きてきたマリンにとって、それは未知の領域だ。嫉妬に似た羨望が胸に芽生えるのを感じて、嫌悪ではなくとも、ヴィオレットに対する何かしらの負の感情を抱いたのは事実だ。

とはいえ、申し出自体はとんでもなく魅力的。喉から手が出るほどとはこの事で、ヴィオレット側さえ憂いがなければマリンに断る理由はない。

条件を聞けば聞くほど、その思いは強まった。

住むところも、食事も、着る物も、お金だって手に入る。今までの暮らしと天秤にかける事すら烏滸がましい。

ヴィオレットへの嫉妬も、今の生活から抜け出せるなら完璧に無かった事にして見せる。

全ては生活の為、打算しかないはずだった、のに。

可笑しいと思い始めたのはいつからだろう。

姿の見えない父親。ヴィオレット以外とは会おうとしない母親。母の部屋から出てこないヴィオレット。

話し相手で雇われたはずなのに、その仕事をする機会はほとんど無く。暇を持て余していたマリンに、使用人達は色々な事を教え色々な事を誤魔化していた。

奥様の部屋には入ってはいけないよ。とてもとても怒るから。

奥様の前で当主様の話をしてはいけないよ。とてもとても、怒るから。

奥様に聞こえる所でヴィオレット様を呼んではいけないよ。とても、とても、とっても、怒るから。

ヴィオレット様が、辛い想いをなさるから。

泣きそうな目で、悲しそうな顔で、何度も何度も言い聞かせられた。これだけは守ってくれと、絶対に破らないでくれと。

意味が分からなくて理由を訪ねても、怒るからとしか教えてくれない。ここで働くならば守らなければならないルールなのだと言いくるめられる。

マリンが理由を知ったのは、働き始めて数ヵ月後の事だった。

× × × ×

いつもはしっかりと閉められている、奥様の部屋の扉がわずかに開いていた。

覗くつもりなんてなくて、ただ、閉めてあげなきゃと思っただけ。そう思って近付くと、中から声が聞こえてきたから、つられて視線を向けただけ。

「ひ……っ!?」

漏れそうになった悲鳴を、何とか噛み砕く。両手で口を覆ってはいたけれど、そうでもしないと悲鳴だけでなく吐きそうだったから。

「あぁ……本当に美しいわ」

「…………」

「髪も、目も、爪の先まで同じ……素晴らしい、素晴らしい……!」

腰掛けたソファーから手を伸ばし、何度も何度も目の前に立つヴィオレットの頬を髪を手の甲を撫で回す。

母が、子を撫でる。言葉にすれば微笑ましいはずなのに、マリンから見える二人の横顔はそんな尊い一幕ではなかった。

澄み切って輝く母の瞳とは裏腹に、何の感情のないヴィオレットの眼球。天使か人形の様に美しいとは思っていたが、所詮はただの比喩でヴィオレットは血の通った人間だ。人間だった、はずなのに。

マリンから見えるその顔は、血の気のない人形の様で。楽しくて、嬉しくてたまらないといった母親との温度差がより不気味だった。

そして何より、マリンが悲鳴と吐き気を感じた理由は。

(ヴィオレット、様……?)

壁に、棚に、机の上に飾られた写真立て。そして床に散らばった剥き出しの写真達。その全てに映る、同一人物。

灰色の髪、曇天の瞳、白い肌に赤い唇。天使の様に美しいそれを、マリンはヴィオレットだと思った。髪型も表情も良く似ていて、違いを見つける方が困難なほどにそっくりで。

可笑しいと思ったのは、写真の年齢に気付いた時。

初めはヴィオレットの幼少期なのだとばかり思っていたが、どんどんと成長していく写真の人物はあっという間にヴィオレットの年齢を越して、気が付けば大人の男性に成長していた。

その顔は、以前見た事がある。この家の玄関に飾られている、結婚式の写真に写っていた新郎。

「さぁ、呼んで。私を呼んで……?」

「お、母様」

「違う」

ぐしゃりと、心臓を握り潰す様な声。否定なんて生易しいものではなく、明確な拒否、拒絶。とろりと溶けていた目に浮かんだ憎悪の色は、母を母と呼んだ子に向けるべき感情ではないはずだ。

「違うでしょう?ねぇ……オールド」

「……ベル、ローズ」

「そう、それでいいの。もう一度」

「ベルローズ」

「そう、もう一度……っ!」

何度も何度も、繰り返されるその光景は、まるで地獄の様だった。

何故奥様の部屋に入ってはいけないの、そこは彼女の楽園だから。

何故当主様の話をしてはいけないの、彼女の夢を砕いてしまうから。

何故、ヴィオレット様を呼んではいけないの。

彼女にとって、ヴィオレットではないから。

ヴィオレットは奥様にとって子ではなく、愛する夫オールドだから。

「っ……!!」

堪えきれない吐き気に体がふらついた。見せ付けられる狂気の沙汰は、マリンにあった倫理観を悉く砕いていく。

見ていられない、見ていたくない。あまりに恐ろしい現状に耐えきれず、力の入らない体に鞭を打って駆け出した。

「愛してる、愛してるわ……オールド」

最後に背後で聞こえたその声は、七年経っても忘れられずにいる。

最愛の告白は、紛れもない呪詛だった。