軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

163.何もない信頼の話

「は……?」

思わず、驚愕と焦燥に固まって。唖然とした気持ちのままユランを見ると、何の気持ちも窺えない能面のまま。今にも目を回してしまいそうなマリンとは正反対の、落ち着きとも取れる無関心さで立っている。実際、ユランはシスイに左程興味がないのだろうけれど。

スラックスのポケットに両手を突っ込んで壁に背を預けたユランは、言葉を無くしたマリンを一瞥しただけで何も言わなくなった。それがこちらの問いを待っているのだと、気が付いた訳ではない。ただ湧き出た疑問を抑えられなかっただけ。

「まさか本当に殴って……ッ」

「え、あの人殴る宣言してたの」

知ってたら見に行ったのに、そう言って大して面白くもなさ気に笑った。人を嘲る、歪んだ笑み。そこだけ見れば、随分と根の腐った人格だ。ヴィオレットの味方であるならその内面について文句を言うつもりは無いけれど、何も知らなければきっと多大な警戒心を抱いていた事だろう。

「でも残念。殴ったんじゃなくて、投げたが正解」

「な、……げた」

「怒り狂ってヴィオちゃんの部屋を荒らしそうだったんだって、あの男。それを止めたら抵抗されたから、反射的に投げちゃったんだってさ」

あまりにも平坦に説明するものだから、マリンも納得してしまいそうになるが、言葉程シンプルな話ではないだろう。

純粋な筋力の話だけならば、圧倒的にシスイに軍配が上がる。当主も長身で、それなりに体格は良いけれど、力仕事もこなすシスイの筋肉と、スタイルが良いのとはまた異なる。格闘技経験の有無は聞いた事無いけれど、荒事に慣れている雰囲気はある。主に顔立ちと表情のせいだ。

とはいえ、雇用被雇用の間にあるのは純粋な膂力とは別の『力』であって。どんな理由であっても、雇用主を投げ飛ばした料理人を庇う人間はいない──普通なら。

「表沙汰にならなかったから刑罰には処されなかったけど、クビにはなったらしい。俺も荷物受け取った時に聞いたから詳細は分からないけど」

「あの、それで……ご当主は」

「……さぁ?」

強張った表情のマリンとは裏腹に、ユランには何の憂いも見当たらない。余裕さえ感じる起伏の無さで、この時間を持て余している気さえした。マリンの問いに、欠片の興味もないのだと。それはマリンに対する無関心ではなく、マリンの問うた内容に対する、心からの無関心。

「頭打って暫く意識がなかったらしいけど、クビを言い渡したのはあいつらしいし、もう起きてるんじゃない?」

それは安心すべきと所なのか、判断に困るラインだ。表沙汰になっていない、刑罰の対象にならない、シスイの安全が確立されているからマリンは胸を撫で下ろせるけれど、対人としてはあまり宜しくない傾向だろう。頭を打っただけでも大事だろうに、意識を失っていたとなると、死が頭を過る者だっているはずだ。

それでも、何も思わなかった。シスイが罰せられる結末でない事にはホッとしたけれど、それだけで。むしろ、呆気なさを覚えてしまったくらいに。

「死んでねぇなら無傷と同じだろ」

「……そうですね」

なんだ、その程度かと、思う。人が文字通り傷付いたのに、そんな感想を抱くのは正しくないかもしれないけれど。

いっそそのまま死んでいれば、そう思うくらいに、自分達はあの男に、あの家に、情なんてない。そしてこの先も沸く事はないのだろう。人が害虫の退治を望むのと同じ類の感情で、そういう軽さの殺意だった。

「シスイの雇用についてはこっちで進めてるから心配はない。ただ、ヴィオちゃんの耳には入れない様に。君と同じで、向こうを辞めて再就職したって事にするつもりだから」

「分かっています」

シスイのクビは勿論、父の怪我を知ったら、ヴィオレットはきっと全部自分のせいにして己を責めるだろう。それは優しいとか、そういう次元の感情ではないく、虐げられてきたが故の自身への呵責。お前のせいだと言われた分だけ、自分のせいだと思い込んで来たが故に出来た思考回路は、原因から離れたからと言って変わる物ではない。

昔は、それ故に苛烈だった。自分が悪いと思うからこそ、誰かのせいにしたい。自己嫌悪に耐え切れず他者を攻撃して、より自分を嫌いになっては攻撃しての繰り返し。最悪の悪循環だったが、今の様に全部内側に溜め込んで緩やかに死のうとするくらいなら、喚き散らし当たり散らしてくれていた頃の方がずっと健全だった。

ヴィオレットのせいではないのに、お前のせいだと言われてきた。だから、私のせいじゃないと五体振り乱し暴れるのは、ある意味では正常だったのに。

「私に出来るのは、信じてお任せする事だけですから」

「光栄だね」

ベルの音と共に、エレベーターが止まった。微かに感じていた浮遊感も無くなり、ゆっくりと開いた扉の先は絢爛なロビーが広がっている。

共有したい情報を話し合った二人の間にはもう言葉はない。刺す様な鋭さのない、むしろ何も感じない無の空気。心地良さも無ければ、不安が沸き上がる事も無い。そういう静寂で、そういう類の、信頼だった。