軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

106.沈澱した記憶達

思い出したくない記憶というのは、幸福な物よりも色濃く、深く、刻み込まれるものだ。

過ちとか、後悔とか、消したい過去ほど鮮明に染み付き、必死に擦っても叩いても、滲むだけで元には戻らない。時には他の場所にまで浸食したりする。過去を成長の材料に出来るならそれは素晴らしい事だけれど。

忘れてはならない、糧にしたからといって消える訳ではないのだと。

ユランの糧となり、それでも忘れる事の出来ない記憶は、未来であり過去である日の事だ。この世のどこにも、誰の記憶の中にもない、ユランだけが覚えている、憎悪と憤怒と殺意の蟲毒。喰らい合った先に残ったのは、神さえ殺そうという決意だった。

世界が時を戻したあの日、誓った。

今度は絶対に、間違えたりしないのだと。

× × × ×

「ヴィオレット・レム・ヴァーハンが捕まった」

それは唐突というほど意外ではなく、でもやっぱり、心のどこかで排除していた可能性の実現だった。

「腹違いとはいえ、妹を殺そうとするなんて」

「クローディア様と婚約された事への嫉妬だとか」

「浅ましい」「汚らわしい」「悍ましい」

「聡明な王子が、あんな女を選ぶはずがないというのに」

耳を塞いでも聞こえてくる軽蔑と嘲笑。

誰もが罪人である彼女を袋叩きにし、被害者でありながら姉を庇う美しい異母妹を称えた。そこに王子様との婚約も加わって、世間はヴィオレットへの罵詈雑言と、王子様とお姫様の恋物語への賛美で溢れかえっている。

気持ち悪い。浅ましい汚らわしい悍ましい。何も知らない人間が、正義面して微笑み合っている。悪が倒れ、世界は平和になり、誰もが幸せになったと錯覚して。全部全部、粉微塵に吹き飛んでしまえばいいのに。

ヴィオレットが異母妹への殺人未遂で投獄された。

ユランがその事実を知ったのは、事が起こった翌日だった。

夢を見ているのだと、思った。ここは悪夢の中で、全ては不安が見せた幻で。目を覚ませばまた、大好きな人が麗しの声で名前を呼んでくれる。世界は彼女中心に回り、誰もその存在を脅かしたりしない。傷付けるなんて、思い付きもしない──そんな都合のいい妄想は、何度願えば現実になったのだろうか。

「本日はありがとうございました」

「…………」

顔が見えなくなるまで頭を下げる警官に視線すら向ける事なく、来た道をゆっくりとした足取りで巻き戻る。虚ろな目がどこを見ているのか、整える事のなくなった前髪の隙間からではよく分からない。背筋は伸びているけれど首は緩く俯いて、変わらなくなった表情に、例え変化があったとしても誰一人として拝む事は出来ないだろう。

大衆が思い描いていたユラン・クグルスという人間は、ヴィオレットが捕らえられた日に破片も残さず消え去っていた。

穏やかな雰囲気も可愛らしい笑顔も、人の話に耳を傾け相槌を打っていた姿も、全てが影も形も残ってはいなくて。重い雰囲気も、生気を感じさせない表情も、誰の声にも応えず話す事もなくなったユランは、多数派の暴力に潰れていた幼い頃によく似ていた。ヴィオレットと出会っていなければ、こうなっていたであろう自分。

どれくらい日数が経ったのか、もうよく分からない。寝ているのか気絶しているのかも判断できなくなって、朝でも夜でもどちらでもよくなる。空に輝くのが太陽だろうと月だろうと、ユランの地獄が終わる訳ではないのだから。

そんな中でも唯一時間だけは正しく認識していたのは、彼女を救う為に出来る事への時間制限故だろう。嘆願でも面会でも。建物が開いている時間でなければ受け入れてすら貰えない。

まだ生きている、まだ、ヴィオレットを救う手立てがある。

今のユランにとって、それだけが生きる意味だった。

「ユラン」

誰かに名を呼ばれて、足元しか見ていなかった視線を少しだけ上げた。顔まで見なくても、その絢爛な様相で誰なのかすぐに理解した。ついでに、その隣に控えた小柄な影の事も。

今の今まで、骸骨の穴とそう変わらない伽藍洞だった目に、初めて『感情』と呼べる何かが宿った。スッと細まった視線の先で、こちらに対する気遣いでもするかの様に、王子様と未来の王妃は神妙な顔でユランを見ている。まるで、心配だとでも言うように。

「今日も、呼ばれていると聞いた……何も話さない事も」

呼ばれている──クローディアの言い回しに、ユランは自分が呼び出しを受けていた事を思い出した。といっても、あぁ、そういえばそうだった程度の事だったけれど。どちらにしてもユランはこの場に出向いたし、己の目的以外に目を向ける事は

ないのだから。

「何故、何も言わない。彼らだって形式として話を聞いてはいるが、本気でお前があいつと……ヴィオレットと共謀していたなんて思ってはいないのだぞ」

ヴィオレットの逮捕は現行犯の様な物だった。メアリージュンの悲鳴と物音に使用人の誰かが気付き、そのまま捕らえられたのだから。計画性のない短絡的な犯行、衝動のままに暴走した彼女が単独犯である事は明白であり、警官達も関係者への事情聴取と銘打ちながら、形が整えば中身なんて関係ないと思っている。そうでなければ、マリンが必死に語ったヴァーハン家の内情がどこにも洩れずにいられるはずはない。

そんな中、誰よりもヴィオレットに近しく好意的で、誰にも何も語ろうとしないユランは、ヴィオレットとの共謀が疑われている──という図を、わざわざ作り上げたのだ。少しでも彼女への刑を遅らせ、少しでも救うまでの時間を稼ぐ為に。

勿論、こんな浅知恵がいつまでも効くとは思っていない。クローディアが言った通り、本気でユランを疑っている者などいないのだ。だからこれは、結局ただの嫌がらせ。ヴィオレットを悪だなどと宣う阿呆達の為に、開いてやる口はないのだと。

「嘆願や、弁護の話も聞いている。メアリージュンも、ユランの考えに概ね賛成だ……だが」

「ユラン君、私もお姉様の事を助けたい。だから気持ちは凄く凄く、分かるわ。大切な人の為なら何でもしたいって思うもの……でもね、だからこそ、罪から目を背けるべきではないと思うの」

「お前がヴィオレットを慕っていた事は重々承知の上で、言わせて貰う。彼女は……罪人だ」

「きちんと向き合って、罪を償って欲しい。それが本当の、お姉様の為になる事なんじゃないかな……?」

忌々しくて、汚らわしくて、この世で一番、何よりも嫌いな物が目の前にある。その口が、言葉が、目が思考が、自分を『心配している』事実に吐きそうだ。高みにいるから全てが見通せるなんて勘違いが、可哀想だと言わんばかりの優しさが、害虫の様にユランの体を這い回る。

(あぁ──汚い)

バキバキバキ、土足で踏み躙られた心が、音を立てて割れていく。怒りも憎しみも、恨み辛みさえパンクして散り散りになった脳内は驚くほどに冷静で。どこまでも静かで、波風一つない精神の中、混じりけの無い厭悪がじわりじわりと止まる事無く溢れ続ける。壊れた蛇口はハンドルがなくなっていて、もう閉まる事はない。

綺麗な物語の中で、綺麗な人生を歩む人達。弾き出された者の存在なんて初めから知りもせず、自分の幸せが、誰かを踏み付けにして滲み出した血で作られているとは考えもしない。

第一子、正妻の子、それだけで王子のままでいられた男。

真の恋から生まれたというだけで、愛だけを与えられて育った女。

その地位が、愛が、誰の上に成り立っていたのか。誰を置き去りにして、得られた物なのか。前しか見ない事が美しく健全だというのなら、彼らの後ろで叩きのめされた命が、彼らの背から襲い掛かる事だって健全なはずだ。この怒りの、嫌悪の、憎悪の、どこに咎があるというのか。

──どんな理由があっても、罪は許されず、罰を受けるべきである。

その『どんな理由』を、考えた事なんてないくせに。綺麗な言葉を使える自分に酔って、奥まで深く、考えた事なんてないくせに。結局はただ、罪を犯した人間を許せる自分に、それでも罰を要求出来る己に、浸っているだけのくせに。

薄っぺらな理想論、こちらを気遣い、尚諭す為の目線。どれもこれもがユランにはゴミにしか見えない。余裕を持てる場所で、身動きすら取れない人間を袋叩きにしているだけだと、欠片も気付かない頭がおめでた過ぎて。

いっそここで、その首を圧し折ってしまえたら、どんなに。

「二度と、口を開くな」

「ッ……」

風に揺られた木々の様に、ゆったりとした動きで傾げた首と流れた前髪の隙間から、ぎょろりとした金色がクローディア達を縫い付ける。声に感情はなく、抑揚も平坦で荒げる訳でもない。機械に初めから登録された音声の様に、温度の通わぬ無機物のそれ。

しかしその目は、クローディアとメアリージュンを射抜く視線は、凍てつきそうな冷ややかさと焼け焦げそうな熱を同時に内包している。今にもこの喉元に噛み付いて、食い千切ってきそうな殺気──殺意と言ってもいいだろう。神聖視される黄金色が、今は窯の中で煮え滾る金属の様な粘度を持って。

言外に、殺すぞと伝えてくる。一言、一文字発する為に息を吸った、その時点で。 誰の手も届かぬ内に、二人の命を捥ぎ取るだろう。

驚愕か恐怖か、はたまたその両方か。蛇に睨まれた蛙となった二人の隣を、感情の全てを削ぎ落して無になったユランが通り過ぎる。その頭の中には既にクローディア達の影も形もなく、投げられた言葉はゴミとなって消えた。どれもこれも、ユランが生きる上で不必要なものだから。

思い描くのは、頑張って頑張って、自分は幸せになれるのだと言い聞かせて踊る、愛する人。

視線を引くために、大袈裟に表情を変えて、わざとらしい高い声で話して。それでもたまに、ごく稀に、甘く優しく微笑むヴィオレット。

(会いたい、なぁ)

一目で良いから、数秒で、構わないから。

ただ、その姿が見たいと思った。