軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

千五百八十年 五月中旬

島津一行の帰国は、隠密裏かつ無謀な強行軍であった。

通常、京から薩摩までは 一月(ひとつき) を要する道程だが、彼らは不眠不休で山を越え、海を渡り、僅か二週間余りで本国へと降り立った。

出迎えた家臣たちは、変わり果てた主君らの姿に息を呑んだ。

衣服は泥にまみれ、頬は痩せこけていたが、その眼光だけは、獲物を狙う獣のごとき 昏(くら) い狂気を 孕(はら) んでいたのである。

一行は最低限の 身嗜(みだしな) みを整えるや否や、休む間もなく当主である長兄の 義久(よしひさ) と末弟の 家久(いえひさ) との緊急会談に臨んだ。

「……ただいま戻りましてございます」

「ご苦労。……して、織田は 如何(どう) であった?」

帰国した歳久を一目見て、義久は心胆を寒くした。

出立前とは別人とさえ評すほどに、 纏(まと) う気が変質していたからだ。

義弘も同様である。二人はいったい何を見て、何を喰らって戻ってきたのか。

義久は問いを重ねることもできず、ただただ圧倒されていた。

「まずは 一献(いっこん) 傾けよ。話はそれからだ」

義久が労いの言葉とともに盃を差し出し、酒を注ごうとした、その時であった。

歳久が、差し出された盃を無造作に握り潰したのである。

陶器の砕ける乾いた音が響き、義久は言葉を失った。

盃を壊したことへの怒りではない。

無類の酒好きとして知られ、「酒の席の智計」すら武器にするあの歳久が、一滴も口にせぬまま酒を拒絶した事実に、底知れぬ恐怖を覚えたのだ。

「兄者、私は今日より酒を断ちます」

それは、島津家にとって青天の 霹靂(へきれき) ともいえる宣言であった。

家臣の誰に聞かせても「偽物だ」と疑うほどに有り得ぬ一言。

驚愕に目を見開く義久と家久を余所に、歳久は 憑(つ) かれたような口調で言葉を継いだ。

「織田は……あの女(静子のこと)は、我らの武勇など不要だと断じおった。そんなものに頼らずとも、 如何様(いかよう) にでも九州を支配できるのだと。口惜しいが、わしは 反駁(はんばく) するだけの 理(ことわり) を持ち合わせておらなんだ……」

「なっ! 兄者、それでは女如きに、良いように言い負かされたというのか!?」

「納得してしまったのだ。 否! 納得させられてしまったのだ!」

歳久の怒号が座敷を震わせた。

四兄弟の中で最も冷静沈着、目立たぬことを美徳としてきた「智の歳久」が、獣のように吠えた。

家久は、その迫力に気圧され、次の言葉を飲み込んだ。

「分かるか、家久。上の者が 贅(ぜい) を尽くしているのではない。上も下も、 雑兵(ぞうひょう) も人足すらも、皆が飢えておらんのだ! それが何を意味するか分かるか。奴らには、底の知れぬ潤沢な余力がある。一杯の飯を巡って同族で争う我らとは、根底から『土徳』(国力のこと)の桁が違うのだ!!」

肩で激しく息を乱しながら、歳久は懐から包みを放り投げる。

畳の上に転がり出たのは、静子から「手土産」として持たされた新貨であった。

「家久、それを拾え。それが織田の放った『魔物』よ」

家久が恐る恐るそれを拾い上げ、しげしげと観察する。

それは、これまで目にしてきた 歪(いびつ) な 渡来銭(とらいせん) とは似ても似つかぬ、戦慄すべき造形物であった。

完璧な真円、縁には等間隔で精巧な溝が刻まれ、表面には微細な 桐紋(きりもん) が浮き彫りにされている。

何枚重ねても狂いなく重なる、恐ろしいほどの均一性を備えた「規格品」だ。

「それが無ければ、もはや織田の地では息もできぬ。ものを買うことも、宿を借りることもだ。私は渡来銭も砂金も持っていた。だが、あちらで何と言われたか知っておるか? 『証文による保証のない貴金属は、ただの重い石の塊だ』と、鼻で笑われたのだ!!」

「砂金ですら、価値がないじゃと!?」

「そうだ! 奴らの定めた『規格』に合わぬものは、石ころと同じだと断じられた。これはもはや、いくさの勝ち負けの話ではない。我らは奴らの定めた仕組み、奴らの敷いた盤の上でなければ、生きていくことすら許されぬということだ!!」

衝撃の事実であった。

織田領の発展は、島津の想像を絶する速度で日ノ本を塗り替えていた。

もはやそれは一地方の法ではなく、商売の理そのものとして浸透している。

「奴らの領内には、強大な商いが網の目のごとく張り巡らされている。動かす金の桁は一国を容易に 凌駕(りょうが) しよう。その仕組みが日ノ本を覆った時、我ら薩摩は戦わずして干上がる。いくさをする前に……我らは、既に負けたのだ……」

かの智計に並ぶものなしとまで評される歳久の絞り出すような結論は、鉛のような重みとなって義久と家久の胸に突き刺さった。

「……武力とて、奴らは抜きん出ている。私は見てきた。人足が軍勢のごとき規律で動き、門を守る 衛士(えじ) ですら隙のない手練れである様を。身体付き、視線の配り方、漂う血の匂い……どれをとっても、薩摩 隼人(はやと) の精鋭と同等であった」

静かに、しかし断固として義弘が言葉を継いだ。

「兄者! 何を寝ぼけておるのじゃ! 門番の雑兵が、我らの精鋭と同じと仰るか!」

家久が憤慨するが、義弘は取り合わない。

「雑兵ですらあの練度だ。その上に控える正規兵が、どれほどの化け物か、想像するだに恐ろしい。それが何万、何十万と押し寄せてくればどうなるか。我らは抵抗すら許されず、不条理に 蹂躙(じゅうりん) されるのみ。そして後の史書にはこう記されるであろう。『島津は天の時を読めず、愚かにも織田に挑んで滅んだ』とな」

部屋を死のような静寂が支配した。

島津の「智」と「武」を象徴する二人が、揃って敗北を認めたのだ。

その意味の重さに、義久は目を閉じ、深く息を吐いた。

だが、その沈黙を破ったのは、再び歳久の、低く力強い声であった。

「だが、我らは 狗(いぬ) には 堕(だ) さぬ!」

その目を見て、義久は確信した。歳久の心は折れていない。

これは絶望して帰ってきた者の目ではない。

より深く、より執念深く獲物を狙う、島津の狂気を孕んだ目だ。

「奴らが望むなら、全てを呑もう。仕組み、 政(まつりごと) 、税、商い、教え……。何もかも、奴らのやり方に染まってやる。そして、いつの日か。島津の血で、その全てを塗り替えてみせようぞ!」

「よくぞ申した!」

義弘が力強く膝を叩いた。

「これはいくさだ。破壊を伴わぬ、織田と島津の長きいくさよ。奴らが用意した盤の上で、奴らの全てを吸収し、奪い、やがて超える。その時、我らはこう言い放つのだ。『今や島津のやり方こそが日ノ本の理。お主らの手法は古臭い』とな」

「……なるほど。次のいくさの勝ち筋を繋ぐために、今はあえて頭を下げるか。我らが成せねば子が、子が成せねば孫が。そうして脈々と執念を受け継ぎ、数十年、数百年の後に島津が勝利を収めると」

「全く……気が遠くなるような釣り 野伏(のぶ) せになりそうじゃ」

家久が不敵に笑い、義久も深く頷いた。

四兄弟の目には今、等しく同じ「昏き炎」が宿っていた。

「ならば、やりましょう。織田という巨大な獲物を誘い込み、機会を 窺(うかが) い、内側から全てを塗り替えていく……壮大な釣り野伏せをな。これからが正念場だ。我らはとかく気が短いが、執念深さだけは誰にも負けぬ」

歳久は冗談めかして言ったが、その瞳に迷いはない。

島津という一族が持つ、一度噛み付いたら死んでも離さぬ本性を、彼自身が誰よりも信じていた。

「織田からの要求は全て受け入れる。そして、奴らの許へ学徒を送り込むのだ。口惜しいが我らは出遅れておる。奴らから学べることは全て剥ぎ取らねば、勝ち負けの土俵にすら上がれぬ」

「送り込むのは、伊集院家の者を筆頭とすれば良かろう。それから、 樺山(かばやま) 家の若造も優秀と聞く」

「樺山家の若造といえば……確か 郷士(ごうし) の一人を連れ回しておったな。奴曰く、極めて使い勝手の良い道具ゆえ重宝しているとのこと。名は確か…… 五代(ごだい) 、と申したか」

「郷士の名など今はどうでも良い。ともかく、伊集院を筆頭に 上士(じょうし) の中から選りすぐりの数名を、織田の元へ『遊学』という名の 乱波(らっぱ) として送り込め」

義久が力強く宣言し、三人の弟を見渡した。

「これより、島津は織田への釣り野伏せを開始する。弟たちよ、織田はこちらの想像を遥かに超えて強大だ。長丁場だと安易に考えれば、こちらが先に食い殺される。片時も牙を忘れるな」

「はっ!!」

三人の返事が、薩摩の空気を震わせた。

こうして、九州の一土豪に過ぎなかった島津は死に、狗の皮を被り、獰猛な牙を腹の下に隠した「狼」という名の島津が、この日に誕生したのである。

島津からの返答は、まさに果断にして神速と評せるほどに早かった。

静子が京で受け取った文の内容は極めて簡潔であり、三つの要求全てに「 諾(だく) 」とだけ記されてあった。

実質的な敗北宣言である。島津は信長の条件を飲み、軍門に降ることを選んだ。

報告を受けた静子の家臣たちは、狂喜乱舞してその功を 称(たた) えた。

「流石は三位様! 九州の荒くれどもを、これほど鮮やかに屈服させるとは」

「うむ、これにて西国も織田の天下。上様が日ノ本を統べられる日がまた一歩近づきましたな!」

沸き立つ家臣たちを前にして、静子は穏やかな微笑を浮かべていた。

しかし、彼女の胸中にはざわついた「違和感」が溜まった 澱(おり) のように居座り続けている。

あの島津家が何の 躊躇(ためらい) いもなく条件を飲むこと自体が、彼女には奇妙に感じられた。

(おかしい……あの島津が、これほど容易く膝を屈するか? あれほどの辛酸を舐めさせられて、一度も交戦する機会すらなく牙を抜かれるなど、有り得ない)

静子は元より島津が大人しく条件を受け入れるとは考えていない。

遠く離れた薩摩の地にて面従腹背を貫き、 虎視眈々(こしたんたん) と下剋上の機会を 窺(うかが) うと踏んでいた。

だからこそ、勝ち目のない現実を突きつけ、彼らの反逆の芽を「絶望」によって摘もうとしたのだ。

その目論見は、半分は成功し、半分は予想だにしない方向へと歪んでいった。

(なるほど。負けを認めてなお、敵に突き立てる牙だけは研ぎ続けるか。まるで後の世で語り草になった『関ヶ原』の退き口の如き執念。力でねじ伏せれば折れると考えたのは、私の慢心。史実を知る身でありながら、島津の『本質』を読み違えるとは……手痛い失態ですね)

島津は確かに抵抗を止めた。だが、従う気など 微塵(みじん) もない。

彼らは「今、この瞬間に勝つこと」を捨て、「数十年、数百年かけて織田を飲み込む」という超長期戦に舵を切ったのだ。

そのための屈辱ならば、彼らは喜んで甘受するだろう。

「皆の者、大儀であった。 此度(こたび) の差配、上様もさぞお喜びになるでしょう。名実ともに天下が定まる日まで引き続き私を支えて下さいね」

静子は不安をおくびにも出さず、忠実に職務を全うした家臣たちをねぎらった。

ここで水を差せば、彼らの手放しの成果に泥を塗ることになる。

懸念を抱くのは、自分一人で十分だと判断した。

「ささやかだが、宴の席を用意しています。私はこれより上様へ 言上(ごんじょう) に参りますが、皆は遠慮せず羽を伸ばしてください」

家臣たちを送り出すと、静子はすぐさま信長の許を訪れた。

予感があったのか、あるいは退屈していたのか、信長との会見は驚くほど速やかに整った。

「ご報告申し上げます。島津は私が提示した三つの条件を全て受け入れるとの由。ついては、織田の理を学ぶべく、学徒の受け入れを求めてきております」

「ほう、吠えるだけの犬が、少しは知恵を絞ったか」

「……その件につき、追加の言上がございます。これは私の推測となりますが、島津に服従の意思はございません。むしろ、我らの仕組みを内側から食い破り、乗っ取る算段かと 思料(しりょう) します」

信長の眉がピクリと跳ねた。

静子は深く頭を下げ、言葉を継いだ。

「申し訳ございません。私が島津の執念を甘く見ておりました。圧倒的な力の差を見せつければ、戦意を喪失すると考えておりましたが……彼らは私の思惑の外におりました。獅子身中の虫を招いた失態、如何様にも処罰下さいませ」

表面上は外交的勝利だが、懐に「牙を隠した敵」を招き入れたのだ。

静子は厳しい処分を覚悟し、信長の裁定を待った。

「く、はは……ははははっ! 静子、貴様もなかなかやるようになったと思うたが、まだまだよな!」

だが、信長から漏れたのは、場にそぐわぬ哄笑であった。

呆気にとられる静子を尻目に、信長はさも愉快だと言わんばかりに目を細める。

「島津が獅子身中の虫じゃと? 結構。それを飼い慣らし、屈服させてこそ天下人よ。その程度のことで、貴様に処罰など下さぬわ」

「し、しかし……将来に禍根を残すこととなるやもしれませぬ」

「それがどうした。あのような暴れ馬、乗りこなせぬようでは覇なぞ唱えぬ」

信長は茶を一口 啜(すす) り、不敵に笑った。

「そもそも、少々飽きがきていたところじゃ。自ら首輪を 嵌(は) め、鎖を差し出す狗など、もはや目新しくもない。欲しいのは、隙あらば我が首を噛み千切らんとする、猛々しき獣よ」

信長の覇気に、静子は冷や汗を流しながらも、ようやく安堵の息を吐いた。

信長にとって、島津の抵抗は「脅威」ではなく、天下統一という事業に添えられた少々刺激的な「薬味」に過ぎなかったのだ。

「しかし、島津がそのような変節を見せたのは、九州の民にとっては天の助けであったな」

「それは、どういう意味でしょうか?」

「奴らがそのまま吠え続けておれば、三七郎(織田信孝のこと)を総大将に据え、九州を根こそぎ平らげるつもりであったからな」

初耳の「九州征伐計画」に、静子は息を飲む。

信長はいたずらっ子のような笑みを浮かべた後、ふと真顔に戻り、西の空を 睨(にら) み据えた。

「よいか静子。奴らが牙を隠し、知恵を得たいというなら、幾らでも与えてやれ。だがな、奴らがどれほどの高みに登ろうと、所詮はわしの掌の上よ。そこから逃れることなど、天地がさかしまになろうとあり得ぬわ」

信長は湯飲みを 呷(あお) って一息に茶を飲み干すと、獲物を待ち構える捕食者の眼差しを向けた。

「誰がどんな牙を持とうと構わぬ。全てを纏めてわしの糧としてくれるわ。精々、わしを楽しませるが良い」

静子は言葉を失い、やがて苦笑とともに深く一礼した。

(やはり、この御方には敵わない。長宗我部が『守りの牙』、島津が『攻めの牙』なら……上様は、全てを食らい尽くす『覇王の牙』だ)

己の懸念すらも、この覇王にとってはただのスパイスに過ぎない。

「承知いたしました。では、島津よりの学徒は、 丁重(ていちょう) に おもてなし(・・・・・) いたします」

「うむ。精を出すが良い」

尾張の某所。世間から隔離されたその施設は、事情を知る者の間で「学術院」と呼ばれ畏怖の対象となっている。

それは静子が運営する学校が初等教育を施すのに対し、学術院は学校の教育を修習した後も学究の道を歩まんとする者のみに門戸が開かれているからだ。

つまりは専門性の高い高等教育や研究を行う場であり、ここに所属できる者は抜きんでた知性の持ち主であると証明される。

その教官室に、一人の伝令が慌ただしく駆け込んできた。

「ご注進! 薩摩よりの留学生を受け入れることが決定いたしました」

「ご苦労様。事情は聞いていますよ、なんでも初等教育は不要だと豪語したそうじゃないですか」

山のように積まれた書付の中から、一人の男が顔を上げた。名を 平賀(ひらが) 源内(げんない) という。

史実に於いて江戸時代中期に活躍した同名の人物とは異なり、静子が東国で噂になっていた彼の「異才」を見出し、生まれにそぐわぬ高い知性を評価して引き立てた。

偶然にも平賀姓であったことから、静子が思わず「平賀源内みたいだな」と呟いたのを耳にした彼は、主君から名を賜ったと狂喜乱舞して源内と名乗るようになる。

そんな彼も今では学術院の要職に就くまでに至った。伝令は姿勢を正し、静子からの 言伝(ことづて) を復唱する。

「これは三位様のみならず、上様もご承認あそばされた案件。三位様より直々に『 丁重に(・・・) 』おもてなしして差し上げなさい』との仰せにございます」

その言葉を聞いた瞬間、同席していた若き教官・ 鬼頭(きとう) の表情が、目に見えて引き 攣(つ) った。

教鞭をとった経験は源内より長く、それゆえに伝令の言葉に含まれた「裏」を瞬時に悟ったのだ。

だが、源内は人を食ったような笑みを浮かべ、 鷹揚(おうよう) に頷いた。

「承知いたしました。三位様には『学術院の流儀に従い、骨の髄まで丁重におもてなしいたします』とお伝えください」

伝令が去った後、源内は椅子に深く背を預け、天井を仰いだ。

「……やれやれ、三位様もお人が悪い。あのような『劇薬』を、この学び舎に放り込むとは」

「源内先生、丁重にもてなせ……とは、つまり」

「ああ。連中は単なる学徒ではない。島津が送り込んできた精鋭の 間諜(かんちょう) (スパイのこと)よ」

「……分かっていて、受け入れるのですか?」

「ならばこそだ。客分として甘やかすのではない。徹底的にこちらの 流儀(ルール) を叩き込み、奴らの根性を織田の色に染め替えてしまえという話だ」

源内は手元の書類を一枚、指で弾いた。

「薩摩は日ノ本一、上下の別が 峻烈(しゅんれつ) な国だ。 郷士(ごうし) は 上士(じょうし) に絶対服従、反論など許されぬ理不尽が 罷(まか) り通っている。聞けば、一言の抗議で家族ごと斬り捨てられることもあるのだとか」

「教師と学生の関係性のようなもの、ではありますまいな」

「そんな生易しいものではない。己の 矜持(きょうじ) よりも『身分』が優先される……そんな偏屈な連中を、『実力』のみが価値を決めるこの学術院に放り込むのだ。間違いなく、ひと悶着……いや、大嵐が起きるぞ」

「何故、わざわざ薩摩からなのでしょうか? 近場の国ならまだしも、火種を招くようなものではありませんか」

「逆だ。薩摩ほど我々と相反する性質を持つ者が、我らの『規格』に染まり、利便を享受する。その様を見せつければ、他の諸国も諦めがつこうというもの。島津ほどの猛者が、織田の理に取り込まれたのだから、自分たちが抗うなど無駄だと悟るわけだ」

島津は織田の仕組みを盗み、それを島津流に組み替えていつの日か超えようとしている。

対する信長や静子は、その計画をあえて進めさせ、島津が自負する「島津らしさ」すらも、自分たちの都合の良い形に再定義してしまおうというのだ。

鬼頭は源内の冷徹な言葉に納得しつつも、現場を預かる身として頭を抱えた。

「理屈は分かりますが、現場の負担は計り知れませんよ。一体、連中がどの学科を狙ってくるか……」

「そこは案ずるな。奴らの狙いは一つ。『兵站』(主に物流と食糧政策)だ」

源内はニヤリと笑う。

「薩摩は貧困に喘いでいる。上士ですら腹を空かせていると聞く。ならば、彼らが真っ先に欲するのは『飯』の知恵だ。民を富ませ、兵を飢えさせぬ術さえあれば、他は後回しでも良いと考えていよう」

「あぁ……確かに。農耕や土木、算術は、数年で目に見える成果が出ますからね。連中が国許へ『成果』として誇示するにはうってつけの分野だ」

「そうだ。地味に見えるが、最も国力を左右する。だが、そこが連中にとっての『落とし穴』となるのだよ」

「と言いますと?」

鬼頭の無邪気な問いに対し、返ってきたのは解説ではなく、源内の容赦ない拳骨であった。

「ぐおっ!」

「少しは頭を使いなさい。我ら教師が常日頃、学徒に説いていることでしょう? 学術院の理念、その三を復唱なさい」

「……『 率先(そっせん) 垂範(すいはん) 』、にございます」

「その通り。学徒に『考える頭を持て』と説く者が、何の思索もなしに答えを求めてどうします。教師がそれを怠れば、学徒に示しがつかぬでしょう」

「申し訳ございませぬ」

鬼頭は 項垂(うなだ) れて謝罪した。静子がこの学術院に求めているのは、単なる知識の伝達ではない。

自ら問いを立て、理を解き明かす学問の道、いわば「頭脳の自立」である。

「少し、お時間をください。……ええと」

唸りながら考え込む教え子兼同僚の姿に苦笑しつつ、源内は名簿の束を 捲(めく) った。

「さて、どのような荒くれ者が来るのやら。なれど、ここはいくさ場よりも過酷な知の修行場。『身分主義』という殻を被った彼らが、この『実力主義』という猛毒を浴びて、果たして正気を保っていられるでしょうか」

源内の瞳には、未知の標本を観察する学者のような、冷徹で知的な好奇心が宿っていた。