作品タイトル不明
episode86
馬車は目的地まで順調に進んでいく。皇都の主要な街道を通り、レイル湖へ繋がる道に入っていく。
公爵邸を後にした直後は居心地が悪く、沈黙の車内をどうにかしようとグルグル考えていたのだが、殿下はおもむろに書類を取り出してこう断りを入れてきた。
『すまない。到着するまでこれに目を通していても良いだろうか』
車内でどう過ごそうか悩んでいた私は、すぐに了承し、ひたすら外の景色を眺めていた。
気の利いた言葉を、会話を、できればどんなに良かっただろうか。普通なら会話を盛り上げられるように頑張るところだが、しなくていいのならしたくない。殿下の提案は有難かった。
(お忙しそうね)
ちらりと書類の題目を見た程度だが、ルーキア国内で生産されている農作物についてのようだ。
多分、収穫量について各所領から上がってきた報告書だろう。例年この時期になると各所領から昨年の生産量について報告が国に上がるのだ。それを文官がまとめ上げ、最終的に皇族がそれを確認する。そうして今年や来年の実りがより良くなるように指示を出す。
私も皇妃時代、目を通していたからよく知っていた。
近年の気候は安定している。今年も平年並みかそれ以上に収穫できるだろう。
読み終わったものを殿下が座席に置いた途端、馬車が大きく揺れて書類が数枚床に落ちた。私の足元にも書類が飛んできたので拾うのを手伝い始めたのだが。
手に取った書類のある一点に、眉を顰めてしまう。
(おかしい)
書類を見て訝しむ私に彼も拾う手を止めた。
「どうかしたか?」
「あの……」
伝えても大丈夫だろうか。見て見ぬふりをした方が楽ではあるのだが、彼は多分気づいていない。国の財政にも関することは、どうにもこうにも放っておけない。
「すみません。拝見してしまったのですが、グランツェ伯爵領は穀物の生産に力を入れている地域でしたよね? 以前、目を通した資料の内容が正であるならば、収穫量がおかしいかと」
「どこだ」
ここです。と書かれた数値を示す。
グランツェ伯爵領は平地が多く、帝国有数の穀倉地帯のひとつでもある。前世とは異なり魔法で様々な改善が図れる点を加味しても、報告書に書かれた収穫量は前世と比べて三割減。明らかに変だ。
「この収穫量はリルラ子爵領と同程度ですよね? 子爵領は土壌の改良等によって、他の地域より生産量が多いです。しかしながら、グランツェ伯爵領の土地と比べますと面積は半分ほどですので生産量には差が出るはずです」
「そうだな。続けてくれ」
「近年で冷夏の年や水不足、病害が発生したとは耳にしたことがありません。作物が育つ土台はきちんとしている──そういったことを鑑みた上で、報告書の収穫量が数年前の資料より少ないこと、リルラ子爵領と同程度なのはおかしいかと」
私の指摘にアルバート殿下の表情も険しくなる。
「君の言う通りだ。仮に量を減らして報告を上げているとしたら、収穫量によって計算する税が軽減される……皇宮に戻ったら仔細を確認して調査しよう」
アルバート殿下は書類から目を上げて私を見る。
「よく気づいたな。私はもちろんのこと、これをまとめた文官らも見落としたのに」
私は曖昧に微笑んだ。
「…………たまたまです。自領に活かせることはないかと、一時期様々な農作物関連の書籍や、他領の主要産品を調べていた時に見かけた数値ですので」
目を逸らし、座り直す。
お節介は程々にしなければ。婚約者になりたくないと考えているのに、こういう件で口を出してはこれまでの努力が水泡に帰してしまう。
(私はもう皇妃ではない。貴族令嬢ではあるけれど、政策関連について気にかける必要はないのだから)
そういうのは政治を司る男性たちの役目だ。貴族の娘が立ち入るような領域ではない。
気を引き締めなければと自分に喝を入れると、タイミングよく馬車が止まる。
「どうやら到着したようだな」
御者がドアを開けてくださり、その先には呼び起こされた記憶と何ら変わらない白い砂浜が湖畔の縁に沿って延びている。浅瀬では子供たちがパシャパシャと水飛沫を上げながらはしゃいでいる。
だが、記憶とは異なる光景に私の目は奪われる。
あの日のように──朧気に残る激しく揺れる湖面や白く波打つ湖ではない。
天気が良ければこうであったのだろうな、という景色でもない。
(花が……)
透き通った湖には色とりどりの花々が浮かんでいた。
穏やかな波が引いては寄って、花嫁が着用する純白のヴェールのような砂浜の上に色鮮やかな花弁を運んでいる。
それ以外でも、水中花として水の中でまた異なる種が咲き誇っている。小魚たちがゆらゆらとカーテンのように揺れ動く水中花の間を縫って、思い思いに泳いでいた。
浮かぶ花に魅入った私の隣に殿下が立つ。
「物珍しいか?」
「はい、存じ上げませんでしたので」
素直に答えれば彼はちょっと目を見開いた。
「てっきり知っているのかと思ったぞ。だからこそ、ここを選んだのかと」
(知っていたら選ばなかった)
私は単に、小舟に乗れなかったから乗れればいいな、そんな軽い気持ちで選んだだけだ。
魔法など存在しない前世では、単なる湖でしかなかった。
このように人を強く惹きつける場所であるならば、無難からかけ離れるので、別の場所を提案した。
「君にも知らないことがあるんだな。先程のようなことは熟知しているのに」
殿下はふっと口元を緩める。
「浮かんでいる花はここを訪れた民が捧げたものだろう。ほら」
殿下の言葉に視線を移す。そこには夫婦らしき一組の男女と、その子供──女の子が大事そうに持っていた蕾を湖に浮かべるところだった。
驚くことに、固く閉ざされていた蕾は水に触れた途端ふわりと開き始める。ゆっくりと色味も変化していき、鮮やかな赤に変わっていた。
「レイル湖は神々の魔力に満ち満ちている。捧げられた蕾は神の魔力を吸って大輪の花を咲かせ、訪れた観光客はその光景を人生で一度は目にしたいと、ますます集まる」
殿下は湖に手を入れて、流れてきた花を掬った。
「咲いた花は特殊な魔法で処理しない限り枯れないらしい。増えすぎた花は、レイル湖に常駐している管理者が定期的に回収して神殿に捧げるそうだ」
女神様は花を殊更好まれるそうだからと、手に取った花を湖に戻した殿下はハンカチで手を拭った。
水面に戻された花は、緩やかな波に乗って今度は岸辺から離れていく。
「あっ」
先ほどまで白だった花弁が青く染まっていく。
「色が変わりました」
初めての現象に思わず呟けば、殿下も水面へ目を向けた。
「私が一度手に取ったからだろう。浮かべられた花は、手にした人の魔力等に反応して、色を変えることがあるらしいから」
(…………ノルン様が嬉々として採用しそうな仕様ね)
彼女は花が大好きなのだ。天界の宮殿も内外問わず花の匂いに包まれていた。
湖に神々の魔力が注がれているということは、彼女もこの湖に関わりがあるだろうし、率先して取り入れていそうだ。
「食事の前に君も花を捧げるか?」
「はい」
殿下は付き人から受け取った種を私の手のひらに落とした。
手の中にすっぽりと収まる楕円形の種は、胡桃のように硬い殻に覆われている。表面には淡く金色の筋が走っていて、なんだろう……普通の魔力とは異なる魔力に包まれている。
これまで見たどの植物の種とも異なっていた。
「……蕾ではないのですか」
子供が捧げていたのは種ではなく、花開く直前まで育った蕾だった。
「この種は、最初に魔力を込めなければ発芽しない」
殿下は自身の種を弄りながら話を続ける。
「そのため、魔力を持つ貴族は種に自身の魔力を込めて捧げるのが慣例になっている」
「では、先ほどの子供は」
彼女は平民だろう。魔力は持っていないはず。
「全ての民が花を捧げられるよう、湖の管理を任された神殿側が、あらかじめ育てた蕾を用意している」
殿下が種に魔力を注ぐ。パキリと殻が破られ、みずみずしい芽が出てきた。
彼が魔力を注ぎ続けると、あっという間に蕾の状態まで育った。
「蕾の方が良かったのなら、用意させるが」
「いえ、こちらで大丈夫です」
私も殿下に倣って包み込んだ種に魔力を込める。
パキッと殻に亀裂が入って芽が顔を出し、淡い光を帯びながら伸びていく。
蕾まで育ちきったのを確認し、そっと湖に捧げたところまでは良かったのだ。
「えっ」
ポポポンッと軽快な音と共に開いた花弁の間から、新しい蕾が次々と飛び出してくる。それらは水に触れた途端、また新たに咲くと同時に蕾を吐き出す。
気づけば十数の花が湖面を彩っていた。
(ひとつしか捧げていないんですが!?)
幻覚だろうか。幻覚だと信じたい。くらりと目眩がする。
「……神に愛されているんだな。稀に一つの蕾から二つ三つ花が咲くことはあると聞いていたが、これほど多くの花が咲くとは」
殿下は感心したように花を眺めている。この奇異な光景に疑問を持ってはいないようだ。
「そ、の、ようですね。愛されているのなら、光栄で……す」
まさか私の中に流れる魔力に反応したのではないかと、冷や汗が背中を伝う。
(制御は完璧に出来ている。漏れ出てはいないはず)
口から心臓が飛び出てきそうなほどバクバクしている私とは反対に、殿下は静かに揺蕩う花を眺めていたが、やがて立ち上がった。
「さて、小舟に乗る前に食事にしようか」
「ええ」
焦る内心を隠して私も立ち上がり、殿下の後に続いた。